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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



佐野研二郎クンにみる、間違いだらけの現代処世術。

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猛暑の半ばに野菜ラーメンをいただく。これだってデザインのソースになるんじゃないか(本文と関係あるかも)。

 

<佐野研二郎クンにみる、間違いだらけの現代処世術>

 

今回は、個人的には何の利害関係もなく、ブログに取り上げる話題としてはあまりに世俗的すぎるのでスルーしようと当初思ったのだが、あの暴露話の数々が進むにつれて、ホントの仕事というものからかけ離れすぎたその実態に、逆に僕のテーマに隣接するものを感じ、もはや「ネタ」的に便乗しようと考えを変えたから書く。

 

そう、某デザイナーの盗用問題。パクリの暴露が重層的に続いてホット過ぎるあの話題だ。

 

まず諸問題の、時系列での噴出ぶりが感慨深い。どこかにシナリオライターがいるのではないかと思うほど、見事な段階的馬脚のあらわし方に、テレビのワイドショーあたりと結託した意図すら感じられ、めまいすら覚えるのは僕だけではないであろう。

 

東京オリンピックエンブレムの、私見ながらあのあほらしさに彩られた仰々しいセレモニーでの、実に華々しい公式発表。そしてその直後から巻き起こった盗作疑惑。

 

その後いったん問題が出るやいなや、日を追うごとに絵に描いたような凋落の進行ぶり。


あれは大泣き大バカ元県議、STAP細胞疑惑の腑抜けた経緯、エセ聴覚障害作曲家のゴーストライター問題など、過去に起こった類似の、ダムの底が抜けたような怒涛のデタラメぶりと、ほぼ同質のものが三度四度偲ばれる。

 

また、あの公式エンブレム発表時の荘厳さと、その後のお粗末振りとの鮮烈にして完璧な対比は、ほとんど文学であり、こーいうことが頻発するわが国の民意の浅さに、ただひたすら脱力の感慨が押し寄せる次第であります。

 

問題の詳細は書くのも面倒なので、経緯はこちらの現役でマジメなデザイナーである小泉達治さんのリンクに丸投げしてしまうが、

 

kdf.blog113.fc2.com

 

要するに、オリンピックみたいなビッグプロジェクト・エンブレムにしては既出のものにデザインもそっくりだわ、数でこなすようなトートバッグ仕事に関してはやっつけで済ますわ、それでいて(いや、だからこそ)世に出す前のチェックなぞ、ないも同然で、釈明会見も形式だけであり、エンブレム選考委員などにおもねったり、デザインの受賞歴だけは壮観だったり、外部の箔付けと人脈形成など、整合性と外見(そとみ)の良さばかりに一所懸命になったあざとさだけが伝わってくるという、実にお粗末なクオリティーに終始。

 

それに加えて、オリンピックエンブレムの選考委員ってのが、どうせIOCという上位組織の下請け孫請けひ孫請けにも関わらず、権威としては「月の輝き」*なのが自明であって、そのムラ社会的構図自体がこの状況に輪をかけて脱力させてくれます。


(*「月の輝き」…太陽と違って、月は照らされて明るく見えてるだけ。転じて「外部の威光」の僕なりの例え)

 

邪推するに「ただやってるだけ」っていう、ホントの仕事でないものの集大成が、今回の問題の本丸だと思う。

 

選考会もそう、渦中のデザイン事務所MR_DESIGNも、本人もそう。

 

 

で、ここでオリンピックの新国立競技場にまつわる僕の関連記事↓

www.moneytalks.jp

 

 
<デザインって、いったい何?>

 

僕は業者側ではあるけれど、写真撮影業界に身を置いてもいる。あの業界も撮影から製品にするまで、デザインの素養がないと仕事にならない分野なので、その観点からデザインとは何かと、僕なりにかねてから考えてもいた。

 

その考えを述べるなら、デザインとは、デザイナーが自らの感性を削って生み出す、世の中とのインターフェース(回路)新規開設だろうと思う。
優秀なデザインは、プロダクトの形を問わず、人をハッとさせる啓示が込められている。


アートでも、デザインでも、人の表現には裏に思想が宿っている。対象物の中に潜む、言葉にできない本質的な何かを抽出して、象徴させて、具現化して提示する、人間にしかできないそんな営為が込められている。そうでないデザインは、単なる思い付きレベルの落書きだ。そう、デザインとは、全人類的で、たいへん高度なコミュニケーション作業のひとつだと思う。カッコいいとかおしゃれなんてのは、デザインの本質の一部ではあるけれど、多分副次的なものだ。


映画「七人の侍」の中盤に旗が出てくる。農民の団結の象徴とこれからはじまる死闘への宣言として、絆と決意を図版化したメチャメチャ泥臭い意匠の旗で、非常に印象に残る。洗練されてなくても、映画の中の話であっても、あの旗がデザインというものの原風景だと思う。

ほかには書道家の描く字なんてのもそうだろう。一回性の中の筆描写セッションの中に、魂の躍動が凝縮されて封じ込められている。

 

そうした作業の結実には、まちがいなく訓練が要る。自分の感受性と表現力をより高い意匠に煎じ詰める、その一点のみに固執した、たゆまざる自己批判と研鑽の繰り返しが要る。だからプロとは、報酬の多寡でなく、また有名か無名かでもない。仕事に向けた純度と練度の強い姿勢と、そうした姿勢を安定して堅持できる人だけがプロデザイナーとして活動していける。

 

デザイナーだけでなく、ミュージシャンも、画家も、漫画家も、詩人も作家も役者も、その道のプロと呼ばれる表現者は、みんなそうなんじゃないかな。

 

そしてその仕事への熱意を支えるのはひとりひとりの狂おしいまでの表現欲求だと思う。したがって本来であればデザイナーとは、人心をしっかり捉えて離さない、すぐれて有意な仕事の一形態のはずだ。

 

今回の騒動では佐野さんのお仲間、人脈も話題の一環だが、グラフィックデザイン業界というものに存在意義があるとすれば、才能に向けての正確な評価土壌というものが公開・保証されているのが、その健全な意義であろう。人間関係とか、業界内の閉じた人脈での評価やナントカ受賞歴に依存するのでなく。

 

<表現は、量産思想ともエゴとも、たぶん相容れない>

 

表現(優秀なデザイン)への熱意も欲求も、ひとりだと持続させるには苦しさが伴う。特に内発的なもの以外の請負い作業の連続や、デザイン受注量の拡大路線なんかを目指し始めると、途端に苦しくなる。だからパクリや模倣、ソースにすがりつきそうなったり、思考停止して事務所のスタッフに丸投げしたくなるんじゃないかな。

こうして外部への安易な委託が始まって、とまらなくなるし、その姿勢を糊塗するのに、さらにまた無理を重ねたりして。

 

そこでまともな人ならそこまで堕ちないように、自分の創造力が枯れてきたと自覚してきたら異業種とコラボレーションして刺激にしてみたり、休養したり、活動方針を見直してみたり縮小したりしながら、合法的手段(?)で自分を鼓舞するように努めるのがスジだろう。

 

しかもそこまでがんばりながらも、デザイナーとは黒子である。目に見えないものの具象化(=デザイン行為)に携わっていながら、売名行為なるものとは逆に自分すら透明化して、抽象化した対象に自分を溶け込ませ無名化し、対象を際立たせるところから仕事が始まるとも言っていい。しかもいったん世に放たれれば、デザインはある意味みんなのものだ。共有されればされるほど、すなわち無意識に評価されればされるほど、作者(デザイナー)はますます謙虚に透明な存在に還元されていく。

 

すなわち、デザインするひとは単に媒体であり楽器であって、エゴの透徹さが求められると思う。デザインに向かう知性は、自分のあり方への分析も伴うはずだ。

 

現代だとデザインはゼロから有を生み出す仕事だからキャラクタービジネスみたいに利益率も良さそうだけれど、キャラクタービジネスが成立するほどにそのデザインが普遍化すればするほど、デザイナーの名前がブランド化するっていう現象は、そうした意味からは本末転倒といっていいし、著作権などの権利主張も、実はデザインの本質から離れていくものなのかもしれない。

 

 

<問われてるのはアートの本質(なんてね笑)>

 

話を佐野さんに戻して。

 

ところがこの一連の騒動で出てきたのはデザイナーの名前を前面に押し出す行為であり、みなさんご存知のとおり内実に至っては盗用も盗用。しかももっとも安易な類のコピぺ行為なのだった。
例によってマスコミ的には、どれがどのくらい似てるかとか、著作権との兼ね合いからの問題点とかが中心話題だが、あれはネットの深いところ、アクセスが少なすぎて全然知られてないところ、遠いところから図版を引っ張ってきて、トートバッグという「お題」にドッキングしただけの行為であって、夏休みの小学生宿題レベルなどといったら小学生に怒られるかってなモンである。

 

あのオリンピックのTだって、Tの字を幾何学的にイジっただけで、いくら見つめても別に何の思想も見えてこない。「TOKYO」「TEAM」「TOMORROW」の「T」らしいけど、そんなの後付けじゃないの。せいぜい色の組み合わせのセンスがいいな、くらい(その色の組み合わせですら、盗用と言われてる)。


だいたいTの図形をこねくり回してなんになる?イジるならマネーのMとかの方だろう、近代オリンピックなら。それに西洋由来のオリンピックを、非アルファベット文化圏の日本で開催することに対する考察なんか、あのデザインには何も込められてない。アルファベットなんか日本語化してるからいいじゃん、というありきたりで雑な考察が土台であるなら、人々の意識に軽いカウンターパンチを与えてハッとさせるのが使命の、この仕事にはまったく向いてない。

 

ただ東京だからT、そしてTの字の外観を取り繕っただけのT字戦法。流れ作業で作ってるだけで、血の通ってない類のスマートさと安直さしか感じられない。あんなものに、組織委員会は何を象徴させようというのだろう。パラリンピック・ロゴのデザインに至っては、返す刀程度の付け焼刃的変形。パラリンピックはそもそも、オリンピックと同等の意義を持つ大会でしょう?あれじゃオリンピックの単なる従属物扱いだと、エンブレム段階で宣言してるようなもんじゃないか。いやまてよ、まさかそうした構図全体に対する高度な皮肉でも込められてるのか?のか?

 

パクリ問題があったから素直に見られないだけかとも思ったけれども、いづれのロゴもやっぱりカッコだけの空虚さで、意匠としての力強さも感じられない。1964年の東京オリンピックエンブレム日の丸は、誤解・曲解のしようもない、明快な思想に貫かれていた。あの威風堂々としてクッキリ際立った骨太感、解放的で晴れがましい明るさに彩られたシャキッと感は、今回のデザインには跡形もない。替わりに今回あるのは、内実のない表面だけのスマートさと、言い訳じみてて、何となく小賢しい印象も受ける、パッとしない矮小さだ。最初に見たときはTBSの新ロゴマークかと思ったものw

 

(この印象は、騒動に後から感化されて感じたわけではなく、発表当時からジーッと2020年エンブレムを見て抱いた感想であるからして、僕にとっての今回の騒ぎは、当然の帰結でもあったんだ。)

 

あんなの「本当のデザイン」の風上にも置けないんじゃない?クライアントからの案件定義に沿ってはいるみたいだけど、ただそれだけ。それ以上のものを感じさせるために必須の、1964年版に感じられるような魂的なもの、すなわちデザイナーの思索と苦悩の跡は見えてこないよ。だったら佐野さんじゃなくてもいい。

 

主観ついでにめっちゃ偉そうに書かせてもらうけど、あのひと上に述べたようなデザインという仕事(の本質)を真剣に考察したこと、あるのかな。デザイン仕事の量とクオリティーとの均衡を見つめたこと、あるのかな。パクリとかは目に見える結果の方だから噛み付きやすいけど、本当に糾弾されるべきはその根元部分の思考停止なんじゃない?

 

テレビでもネットでも誰かも言ってたが、あのT字なら招聘時のデザイン(花が円く寄り添うように咲いてるやつ)の方が、なごむし、共生の思想みたいなものが感じられてよほどいい。

 

輪が五個重なってるオリンピックの図版にはどんな意図が込められてる?五大陸の融和精神じゃないか。

 

そう考えると、やっぱりデザインとは最終的にはデザイナー個人の高度な知性であり、意志なんだな。図版のコラージュも、メカニカルな幾何学も、その高次元なものを実現するための方法論にすぎないし、仲良し同士でつるむのは、孤高の作業に関してはむしろジャマ。お仲間全員で初心に戻りたまえw。

 

お手盛りの審査とか、人脈とかはレベルが違う世界だよね。門外漢の僕でも仕切り直しを提言したいレベルなんであります。

その後、仕切り直しになりましたね(9/1)

 

ここからは推測だけどデザイン業界っていうのも、上に書いたようにクリエイター側はもちろん、評価する側にも知性と感度が求められるし、パチモンとかまやかしも横行する、難しい業界なんだね。「似てる」って指摘されても「知らんもん」って言い張ればそれ以上の追求はいかんともしがたい、みたいな。

 

アートディレクターって、そう名刺に書けば誰でもはじめられる、障壁の低そうなカテゴリーだけど、音楽とかと同じで、先に発表してるからエライとか、類似性とか、著作権とか、どうも目に見える現象面に引っ張られがちで。

 

こういう業界は設備投資もあんまりいらないし、さっき書いたように(おそらくは)利益率も高い分、金のための人脈形成とか、目的を忘れた手段の一人歩きなどといった、不毛な構図を生み出しやすいよね。今回みたいにビッグなゼニが絡むときは特にそう。不毛さを孕みやすいっていう、そうした構造への意識がないと、今回は収まってもまた第二第三のサノケンが出てくるだけなんじゃない?なんてね。

 

 

<悲しい酒>

 

あの佐野研二郎さんという人は1972年生まれだというからまだ40代前半。その年代なら昔も今も、脂の乗り切った、まだまだ、まだまだ意欲旺盛な世代だろう。

 

その人生のクオリティ・タイムを、旧来からのオーソリティに乗じた権威獲得、政治的な処世術といった、極めて世俗的で空虚な方向で満たしてしまった(断罪)。

 

そりゃあ会見で本人が説明したみたいに、T字デザインの構成要素説明とか、設計意図みたいなものは言えるとは思うよ。でもあえて言うとそんなの小手先の話じゃない。先にあげたようなデザインというものの本質を承知して磨き上げるとか、書家の名筆のように人の心に真に迫るのものを、魂削ってつむぎだしていくなんてのとは、ぜんぜん質が違うじゃない、そんなの。

 

釈明の会見を開くなら、そしてやましいことなんかないんだったら、ベルギー行ったことないとか、そんなデザイン見たことなんかないっていうアリバイレベルの話だけじゃなく、またテクニカルな説明だけでもなく、制作過程での熱意と解釈を自分の言葉でもっともっと話せばいいのに。そしたらそれがそのまま一番の釈明になるのに。まぁ、ないものは話せないわけだけれども。

 

本気で仕事をやってるデザイナーさんからしてみれば、佐野さんは日本のデザイン業界自体の失墜を招く、戦犯ものの存在なのではないか。

 

あの人も、デザイン仕事の「仕事の周辺部」にしか過ぎないものに絡めとられてしまった、考えてみればかわいそうな人なんじゃないかな。いろんな事情はあったんだろうけど、本当の仕事の王道を見失った人の、予定調和な末路って感じがするな。

 

ああはならないように、みんな気を付けようね。お国のためです笑

 

(了)

 

 (参考までに)

cruel.hatenablog.com