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お金に困ったら読むブログ

みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



今どきの商業オリンピックには、ゼニカネレベルの話題がふさわしい。

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*味噌をまぶしただけのおにぎりを頂く(画像と本文は関係ありません)

 


<不毛なる光景>


最近の話題はなんと言ってもこれ。

 

"2020年東京五輪・パラリンピックのメイン会場となる新国立競技場の総工費が2,520億円に膨らんだ問題"

 

ギリシャ問題もそうなんだけど、どうもなんかこう、空気と格闘してるみたいな、妙な実体のなさといいますか。のれんに腕押し感といいますか。


金額の大きい貨幣の話だと、僕の貧しい理解力を超えるので数字が記号化。一気に「人ごと感」が加速化するんです。

 

2,520億円って全部の科目のタテ合計で算出したんだよね?そしたら途中に検証も経ないようなとんでもない金額が、未だ発見されないままドサクサに紛れ込んでるんじゃないかな。
なぜなら話の前提を疑う(この場合各項目の妥当性の審議)ってことをそもそもしないで、計算だけはスマートなのが行政であり、官僚というものだから。

そういう官僚みたいな部分最適に長けた「プロ」ばかりがたくさんいて、全体の舵取りみたいな「全体最適」パーソンが不在だったんでしょうよ、おおかた。こういう構図はよくあるよね。国を滅ぼす元凶ですなー。

 

また、たとえコスト削減の美名(なのか?)の元にこれからああだこうだやって1,000億円程度まで減額できたとしても、税金を原資に国が都が、ゼネコンなりに対価を正当に支払う構図には変わりがないわけで、ヘビが自分の尻尾食べて生き延びるように感じてしまう。


つまり煎じ詰めれば、単に貨幣があちらからこちらに移動する話なだけなんじゃないのかな。


1億円でも100万円でも、金額にこだわってる限り、あっしにはかかわりのない話でござい。


確かに瑣末なことではないけれど、さりとて大の大人がまなじりを決して話し合うのは、もっと別のことがいいんじゃないのかな。
そんな外堀みたいな部分をいくら掘ったって、なんにも出てきやしませんよ…って気が、ビンビンします。

 

だいたい貨幣制度みたいな乱暴な制度と、政(まつりごと)を一緒の地平に置くってこと自体が欺瞞の大元だと思うんですが…
まぁいいや、この話はデカいんで、また別の機会にしましょう。

 

あとこの新国立競技場騒動の場合は、お気づきの方には先刻ご承知の、この国のお家芸とも言える主体性のなさ(=責任の取りたくなさ/仕事だから命ぜられてやっただけだもんね感)が、このフワフワした空気的状況に輪をかけて、曖昧化をさせておりまして。


テレビ等では誰がここまで予算を膨らましたのか?なんていって犯人探しの様相を呈してますが、答えはアガサ・クリスティーばりに「全員がそれに加担した」しかないわけです。


つまりさっき書いたように「話の前提を疑う」態度を留保した一人一人が、少しづつ、自分でも気付かぬうちに、予算を膨らましていくことに参加した、と。加えてこれもさっき書いた「全体最適」視点の欠如が、またさらにその状況を加速化、と。

 

裏づけもなくそう決め付けてますが、日本人を46年やってる僕はそう確信してます。

 

抽象的な原則論結果論ではありますが、これがホントの意味での怠慢でなくて何でしょう。先の大戦も、どこかに決定的な悪人や悪組織がいて、開戦の意図で国民を導いていったのではなく、みんなボサーッとしながら隣の顔色なんか伺ってるうちに、なんとな~く流し流されて、なし崩しのようにドンパチが始まっていったという、実に情けない経緯をたどったに違いありません。ああもう8月になる…

 

だからこの競技場の話のくだらなさ(=予算話)には、僕にもあなたにもホンの微量だけど責任はあるんだわ、わ、わ、わ。

 


<どうせ獲るなら金メダル>


さてここまで書きましたがこの話、僕的には最初からぜんぜん興味はないのであります。じゃーなぜ書くか?

 

この国の不毛を見つめたいから。

カッコイイーー!


僕はオリンピック関係者でも、利害関係のある人でもないし、東京都民でもないし日本国籍人なだけでとくに関わりもないんですが、そういう意味からだけじゃなく、このお話が丸ごと不毛に感じるんであります。

 

まずはそもそもオリンピック。みなさんよくご承知の通り、あれはここ50年ほどですっかり商業イベントのおバケと化したじゃないですか。

 

いや、スポーツを見世物にして金を稼ぐのはいいのですが、感動とか権威とかイベントのスケール性で金儲け主義を糊塗しまくるのがヤなのと、昔からあるオリンピックの仕組みに、無批判無自覚にゼニ至上主義をドッキングして増長したその安易性が、どうにもウソ臭くて好きくない。

 

またその構図に気付きながらも目をつぶって、メディアが「仕事」とか「報道」「感動」の美名の元に競技場に群がって、メダル話のああだこうだワンパターンで、貴重なひと夏が費やされるのも、大いなる不毛。

 

いろんな人がすでに言ってるに違いありませんが、五輪とは、これほどあからさまにデンと、夏冬4年に一度、律儀に繰り返される集金装置としての競技大会であると言った方が、むしろスポーツの本質を言い当ててるんじゃないかと思えるほどです。

 

だいたい、僕個人の考えだとスポーツなんて遊びでやるものだと思ってまして。
あんまし根詰めてやるモンではなかろう、なんて思ってます。


もちろんスポーツ自体には意味があります。やってると楽しいし、チャレンジ精神も体力もさぞ養えることでしょう。アスリートに罪なんぞありません。
おまけにスポーツに携わってるだけで、何かポジティブなことをやってるというリア充感がビンビン醸し出せます。

 

でも頭空っぽにして没頭できる分だけ、逆によくない点もあると思います。

 

東西冷戦時代のころ、東欧諸国や中国が、スポーツを国策として取り組むことに熱心だった歴史を、みなさんお忘れではありますまい。
スポーツは人民統治にもってこいだったのではないかと。

 

ナチスドイツの国威発揚にもスポーツ振興。ベルリンオリンピックは時の政権にとって最高のひのき舞台であったそうですな。


規模が大きくなるとスポーツは、ぼくのようなひねくれものにはほとんど暴力にさえ思えてきます。それは没頭が、のめり込みが、「思考停止」「白痴化」とまるっきり同じ現象だからです。政治が、権力が、人民操作の手段として、この法則を利用しない手はない。この点はいくら確認しても、しすぎというこてとがないくらい、みな心に刻むべきポイントです。スポーツは、そして人は、原罪をしょってます。

 

(あと、スポーツはキッチリ勝敗を分けるのも好きじゃない。3位までは「全員よく頑張った敢闘賞」で平等に金メダルでいいのじゃないかしら。ほんの0.001秒差とか、それも単発勝負で優劣が決まるだなんて、人生よりもヒドイわん。以上は蛇足。)


さてここで、東京オリンピックと新競技場の話に戻りますと。

 

主催国の競技進行その他の手際の良さと施設の立派さが、ホスト国のお利口さん度としてIOCとかに頭ナデナデ評価されるこの巨大イベントは、白人中心の、権威ある外付け機関による評価をもっとも尊ぶ、従順なるわが国にピッタリであります。

 

ああ想い出す、開催が決まった時の招聘委員たちのガッツポーズ(2013年9月)は、有名進学校に合格した子供のガッツポーズと実に同じでありましたな。

 

そんな日本と、銭金オリンピック制度と、箱モノ行政の象徴ともいうべきあの新国立競技場の奇異な建物の組み合せは、順当に言ってもたいへんお似合いで、たとえアレが今後どんなみずぼらしいデザインに決着しようとも、いや逆に、人類史上最強のトンデモ豪華さになろうとも、東京都庁やフクイチの瓦礫と並び、もののあわれや虚無を感じさせる、わが国固有の"マイナス歴史遺産"として、すでに個人的に確定しましたダス。


ということで、そんな僕がオリンピックを語るのであれば、罪のない競技者には拍手を送る程度にしておいて、

 

「目指すなら、あなた自身の金メダルを、あなたのフィールドで獲得せよ」

 

となります。

 

カッコイイー!w

 

 

<オマケ。東京オリンピックはこうしたらいいんじゃね?>


なにかやるなら自前のテーマ設定がないとね。東京オリンピックのテーマは「次の100年のスポーツ競技のたたき台に」がいいんじゃないかな?

 

ハード面では既存の施設を手直しする程度にとどめて使い回しましょう(それでも十分立派じゃないスか)

 

そして新国立競技場なんか造らないで、その用地だけ確保して、座席だけ円周に築き上げ、真ん中の土の上でいろんな競技を、虚飾なく、ギンギン照りつけるお天道さんの下で、正々堂々と見せ合って相対的な評価のるつぼにしちゃう。音楽フェスみたいに雨天決行で。

 

メディアのカメラはその演出技法を撮影手段にのみ限定し、俯瞰をメインに撮影。
どの国の選手もどの競技も、予選も決勝も、淡々と客観的に同列に扱う。

 

メダルの授与式の演出は簡潔に済ませ、それよりは競技者同士が健闘をたたえあう光景や、敗者の苦い涙の方こそを、しっかり記録する。市川崑カントクの世界だね。

 

これらはすべての競技者への祝福、尊厳のあらわれとして、丁寧に、着実に、粛々とおこなわれる。

 

そして「こういうのがほんとうのオリンピック精神とやらではありますまいか」と、静かに世界に問うわけ。

 

みすぼらしいとか、みっともないとかと国内外から言われても、そういう気概、つまり「ほんとうの博愛主義」みたいなのが根っこにあるから批判も気にならない。
そして言うまでもないけれど、日本に来てくれた選手や関係者は、国籍などの属性に一切関係なく、イーヴンに真心込めてもてなす…

 

施設は2020年の金持ち国家レベルからすると落ちるかもしれないし、大会は記録上は盛り上がりに欠けるかもしれないけれど、運営は気が利いてて統率が取れてて、そしてなんと言ってもハートウォーミング(に徹する)。
そうすると東京を訪れた人々には長い期間、その記憶が残る。

 

ボロ(は言い過ぎだけど)を着てても心は錦。イベントはハード面じゃないよ、ソフト面だよハートだよってことを言わんでも伝える。

 

これが、実に本当の"国力"。ついでにオリンピックのあり方にも知性ある一石を投じる。

 

夢だなぁ。

 

「なんでも豪華にすりゃあいいってもんじゃない。そんな価値観から日本はイチ抜けます」って方向性を、オリンピックという何度目だかの"黒船"に寄せて打ち出すあたり、他律性にかけては他国の追随を許さないわが国らしい見事な戦略だと、後世に語り継がれること必定です。

 

…なんてね。

 

ということで、そんなふうになるわけもないからオリンピックとかスポーツは、日曜の歩行者天国での行列やイベントと同じで、「なんかやっとるね」感覚で僕はスルー確定です。
いままでそうしてきたようにね。

 

んじゃなぜここでわざわざ書くのか…それは僕がロマンチストだからなのよ。


カッコわるー!www

 

(了)

 

*7月28日、朝日新聞に載った東京オリンピック特集に、タレントのデーブ・スペクターが同じようなことをコメントしててわが意を得たりと感じたぞ。