お金に困ったら読むブログ

みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



電車という横暴

トラックと電車が衝突した。

 

原因(なぜトラックはその道を通ったのか)やら、安全策(危険探知機能とか)がいろいろ言われているが、あの事故の要因などただひとつ。

 

人の生活と同じ地平に、120キロの猛スピードで鋼鉄の塊が、レールの上でスライサー(車輪)を転がしながらつっ走っている、その異様さが原因である。

 

通過する快速とは、ほとんど兵器ではないだろうか。都市生活者なら誰でもご存知のとおり、ものすごい風圧を撒き散らす。あんなのが毎時間、何本も走ってるとは、まったく正気の沙汰ではない。

 

ああいうものを必要とする都市生活そのものへの根源的な反省がないと、もっと大きな惨事が、いづれまた起きる。インターネットはなんで発明されたの?人を移動や距離から開放するためじゃないの。

 

まったくオリンピックどころじゃないよ。電車の全面高架化とかの方がはるかに大事。

 

<了>

世の中みんな死ね死ね団

アニメ製作会社に放火して殺人する奴がいたが、そいつの真の犯行動機は、他でもないアニメにある。

 

どういうことか。

 

アニメとは、もともと人に潜む依存心を目くらまし的に助長する性質を持つ。それも強烈に。そして一部の人間の中にはその依存心を妄想や被害者意識に発展させてしまい、ちょっとしたきっかけでそれを爆発させるやつがいてそれがテロとなる。殺人の方法や警察の動きなら、毎日ドラマやワイドショーが教えてくれてるので、教科書には事欠かない。いや「一部の人間」と書いたが違うな。正しくは人は全員、わたしも含め人殺しの素養を抱えているのだ。違いはそれを発露させるかさせないか、その差だけだ。

 

アニメは(押井守師匠曰く)抽象度が高いので、他の表現、たとえば文学などよりも中毒性が高い。たかが絵空事のフィクションなのに、いや絵空事だからこそ作品世界に没頭し、われを忘れてコンテンツにのめりこんでしまう。わたしもヤマトにガンダム、エヴァにけいおんと、ヒマつぶしにいろいろ観てきたクチだし、軽度にハマっていた時期もあった。

 

ハマる。そう、ハマるとラクなのだ。自分の人生をアニメに仮託できるようになるから。

 

で、現代社会を生きるコツのひとつに、対象と自分を意識の上で一体化させない、途切れている状態をキープする、ってのがある(と思う)。

 

アニメという「対象」にハマってる状態であっても、その現状を「ラク」すなわち、「イマは良く見えてもそのままだと後の人生でしっぺ返しが来る」段階と認識でき、いずれ脱するべき時が来る一時の現象とみるか、それともこうした自覚もなくハマり続けて例えばキャラビジネスの奴隷になり下がるか、この分水嶺を自分で設定できるかがカギなわけだ。

 

でもってアニメには、学校制度における卒業みたいな、具体的追い出し契機があるわけではないので、対象に飽きるとか冷めるとかがないと、どこまでもはまってしまう。

 

あの犯人は、したがってアニメに被害者意識を育まれてきて、そこから出てこれなかった奴に相違ない。

 

そういえば放火に関しては2001年に青森県弘前市で、金貸し業者(武富士)に同じように放火して殺人した奴がいたが、あれの原因はカネにまつわる恨みつらみであって、すなわちそれ(カネ)は武富士の商売ネタであった。カネにまつわるネガティヴさの責任が、武富士にすべてあるわけではもちろんないが、事件当時の武富士テレビCMの大量さや、カネを借りやすくさせる無人機の増設により、武富士は特にイメージが悪かった。

 

こうしたことと、カネを切実に必要とする層の荒廃さがマッチすると、皆殺しの発想が生じる。犯行動機なんてこのように単純なことで、捜査とかしなくたってみんな分かってること。事件が生起してからいくら捜査したって後悔先に立たずみたいなもんだし、凶器になりそうなものなど、いくらでも日常に転がってるしね。

 

アニメも金融も、なにも悪意でビジネスを展開してるわけではないが、問題なのは当初は悪意がないのに、結果的には悪意を育ててしまってるこの世界の構造のほうだ。敷衍して言えばそれは資本主義や貨幣経済の仕組み、そしてわたしたちに潜む、依存心という根源的な不幸だ。CGの発達で見たこともないような大スペクタクル映画(=日本人以外にとってはアニメ)が作れ、それに夢中になったアメリカで起きたのが、映画みたいなあの9.11テロだという事実。

 

各事件に巻き込まれて殺された人は、あわれこの世界の犠牲者ということができる。

 

蛮行がなければ、監視カメラだらけのこんな世になっていないわけで、このように現代は、凶悪犯罪の芽をみなでせっせと育てている社会である。

 

その因果は、こんな文を書くわたしにも降りかかってくる日が来るだろう。それまでは、せめてこの不幸の構図に自覚的でありたい。

 

<了>

自分とは、命の容器にすぎないって思う朝

ふと思いついた大人の条件とやらを、以下にメモ書きしてみようか。

 

 大人とは、

■他人の目がいき届かないところでも、手を抜かない人

■憎まれ役をかって出る人、できる人

■情緒や気分に振り回されない人

■人がミスっても「よくあること」と声をかけ、フォロー&スルーできるひと

■まずまずとか、ほどほどの状態でやめておくことができる人(すべてにおいて)

■みずから人に歩み寄って挨拶できるひと(比ゆ的にも、文字通りの意味でも)

■少なく受け取って、多く返せる人。小さく持ち込んで大きくし、かつその見返りは求めない人

■電話に出るときもかけるときも、まずみずから名乗る人

■職業上の立場を自分内でいったん消去して、人と対話できる人

■人の世に、いわゆる一大事なんてひとつもない、って知ってる人

■仕事は作業とかゲームみたいなものだし、人生のいわゆる決断ってぇのは、あみだくじ程度のものだって割り切れる人

■ヒトはそもそも、いのちの中継ぎと後始末しかできないって、知ってる人

■人間よりも法律や制度の方が上位と考えられている社会(たとえば法治国家の現代日本)は、実はひずんでるって分かってる人(本当は人間の品位こそが、社会すべてにおける最上位概念)

■なにかを終わらせるのに、ドライな人

 

とりあえず、こんなとこかなぁ。

 

読者の考える大人の条件も、聞いてみたいな。(その答えには思想が反映されてるから。)

 

<了>

マルクス超えしたった

■ブラックな企業とそうでない企業があるわけではない。企業はぜんぶブラック。そもそも資本主義自体がブラック。ちがいは黒の濃淡だけ。

 

■同様に、バブル経済とバブルでない経済があるのでない。経済そのものがバブル。そもそも貨幣自体がバブル(=まぼろし)。ちがいは景気の波といった周期の差だけ。

 

■見る眼ではなく、見える目を養おう。

 

<了>