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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



新型コロナ、汝の名は死神か神か

新型コロナの社会的特徴は、持論では以下4つ

 

①これまでの人間行動に反省を強いる点

 

日常生活のあらゆる面で3つの否定(行動、会話、倫理*)を強いられる。
許されるのは思索のみ(*倫理に関しては後述する)


自分さえよければ、わが県だけ、自国だけでも感染を抑えられれば、という考えは否定される。これは4月も中旬に差し掛かり自粛の嵐となった昨今ではみんなが身に染みてることだろう。少なくとも特効薬やワクチンが出るまでの間は。誰もが内なる公共心に規範を求める。したがって人間の基調が大きく変わらざるを得ない。すなわち、近代以降に人類が獲得した自己存在論から、人間関係論に変化できるかどうかが問われている。

 

要は我が身のことだけ考えてると、我が身をも滅ぼすことになるのだ。

 

総じて、近代世界が獲得してきた物質的便利さを、このままではいったん放棄しなければならないところにまで行きつくだろう。

 

AIやIoTの発展、あるいはグーグルやトヨタ自動車が昨今取り組んでると話題の「モビリティ都市」が、コロナ禍のもたらす物質文明の質的変化の中でどういう役割を果たしていくのか、筆者にはまだ見えていない。

 

②レベルの違う衛生観念を強要される

 

今後はマスクどころではなく、フェイスガード、そしてハンドガード(手袋だけでなくじまで覆うもの)も品薄になるのではないか。

 

投機目的の買い占めはなら次はこのあたりですぜ旦那。

 

他人との共有物の忌避(貨幣紙幣、飯屋での食器や塗り箸、公衆浴場、ショッピングセンターのトイレ)傾向から、だれが触れたものかわからないものへの接触を、とりあえず躊躇するようになるだろう。マスクがなければ口頭での会話はしない、もしするなら、背中を向けた同士の会話もしくは電話を媒介とした会話(直接会ってるのに)の指向が来るのではないか。
ひざを突き合わせて話し、同じ釜の飯をつつくのが、人との付き合い方の王道、という良識は通用しなくなる。

 

さらに今後は医療用全身ガウンの一般普及→ヒューマンスーツの出現、もしくは車から出ないで買い物したり映画見たり(スマホで車内から)会話するようになるだろう。


他者不潔への恐怖から、異性も警戒対象となり、濃厚接触の最たるものといえる性的交渉も、もちろん減少し、ひいては出生率の世界的減少をみるだろう。

 

以上のように①(博愛)と②(孤立)が矛盾する。
なので、①に述べた3つの否定には倫理を加えている。
要するに人と会うとき、こいつはコロナホルダーではないかと、互いに疑心を腹に抱えながら向かい合うことになる。


テレビ番組なんかも、いまかろうじて放映している過去の収録ストックが尽きたら、もうひな段芸人とか、街ブラや世界訪問といった牧歌的なロケなんか成立しない。テレビ局も制作会社もテレワーク、芸能人は自宅収録になってきてる。今後テレビはアニメと再放送ばかりになるのではないか。

そしてそれを見るコロナ以後の僕らは、コロナ以前のコンテンツの呑気さに、唖然とするのだろう。携帯が普及する前の人間ドラマを観てるかのように。

 

③貨幣経済や資本主義の崩壊

買い物で貨幣や紙幣をさわると、かすかに怖さを感じるようになった。
コロナウィルスが付着しているかもしれないからだ。

 

多くの人が忘れているが、もともとカネとは仲介手段にすぎずそれ自体に絶対的な価値はない。簡単に言えばマボロシにすぎない。
貨幣からそこらへんのポイントカード、手形小切手から電子マネー系まで、すべてが幻想である。元が幻想だから、時代の変化に沿って何にでも変容してきたのである。

 

その幻想に気づかずに、カネ自体に価値を認めそれを疑いもせず、のんきに消費活動をおこなってこれた。その幻想の基礎を、コロナは乱暴に揺さぶっていく。

 

人が移動しなければ集まりもなく、そうなれば市(いち)が立たない。
実店舗がつぶれネット通販が伸びても、今度は配達員が感染を運んでくるかも知れないし、届いた商品にも(清潔そうに見えても)コロナが付着していないとは限らない。クレジットカードだって自分専用ではありながら、店員に渡したりする。ネット決済くらいだ、最初から最後までゼニに非接触で取引ができるのは。しかしそれとて前記したように物理的清潔を保証するものではない。つまりゼニというマボロシを介してリアル物質を手にしても、それすら疑いの対象となる。

 

そう考えると今まで無邪気に行ってきた買い物の意味も、おそらく歴史上はじめて形而上学的に変化せざるを得ない。これが世界中で起こっている。

 

このような日常レベルから貨幣経済や資本主義の崩壊が予見されるのである。健康あっての経済だし、そもそもリーマンショック以降の世界的な金融危機の中で、ゼロ金利→マイナス金利など、いわばラストのカードを切って様子を見ていた世界金融界は、おのれの本質が仲介業に過ぎないことに果たして気づくだろう。これは保険屋や株屋など、広義の金融業も同様であるし、上記したテレビ屋のコンテンツ不成立と質的に同じである。

 

繁華街は飲み屋に意味があるのであって、呼び込み屋にはさしたる意味はないのである。

 

④ある意味、神レベルに人間の平等を実現させている

これについては考えがまとまってないので、そのうち書くこととする。

 

筆者はいま、有史以来の基本ワーク、農業従事者相手に肥料の商いをさせてもらってるが、農家は強いはずだ。なにしろ前回の戦争の時だって持ちこたえた。でも今後はさすがにどうかな。
世界規模の中での自分を考えざるを得ない、おおきな円環の中であってこその野菜生産だからな。

 

9年前の3.11の後、この国を襲った放射能への恐怖は、目に見えない恐怖、越境する被害など、今回のコロナ禍と共通点が多く、予行演習だったのかもと思えるほどである。
が、その時と今回との違いは、安全圏が世界中どこにもない、という絶望である。

 

以上の行程は、過去に述べた私論(このブログ)では人間を真に開放する変化であるが、さすがに現在はこの変化が急激に過ぎるのと、コロナのような外部恐怖、いわば黒船の威圧によっての変化ではなく、人がみずからの意識改訂によって変わらなければホントの脱皮じゃない、という考えから、悲観のトーンで書いている。

 

あとから振り返って、上記した内容が杞憂にすぎなかったと笑える日が来ることを願う。だけど日常が戻ったとしても、コロナ以前の風景とは確実に違っているはずだ。もう一線は踏み越えてしまって後戻りはできないんだ。

 

<了>