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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



操られ人形なんだから、人形らしくしとけ。

news.yahoo.co.jp

 

政治とは、キャラでおこなうものに非ず、と。

 

会社員や官僚の世界と同じで、政(まつりごと)も、システムとして全体性の中で推進されていくもので、個人はそれをチームとして補完するための歯車にすぎない。そのプレーヤーが病欠や退職しても、彼彼女の役割は相互担保され、全体は影響なく回り続ける、回り続けなくてはならない。

 

ところが政党政治においては役割ではなくまず人事、役職を決める。役職が固定されればそこには階級が生れる。階級が出来れば今度はスターや象徴的な「顔」が求められる。かくして「政治」(というか政治業界)におけるキャラ希求の傾向はどんどん濃くなっていく。キャラが重視されれば立場に酔いやすくなる奴も出てきて、失言やスキャンダルの素地がここに発生する。

 

まぁ人と人とのつながりの話だから、上記したような単純路線だけではないが、政治機構はどの国も、党の集団性と、政治家個人の属性という、相克する2項バランスの上にある。つまり多様化しすぎた現代においては、最初っからムリな構造を持っている。「顔」役なら公明党のナントか代表みたくおとなしくお飾りになってればいいのに、担がれていい気になって発言するから勘違いが起きる。

 

もう限界だろ?政党政治ってのは。だのにそこはスルーして、見て見ないフリをしてる。

 

今の制度では相変わらず政治は数だから、たったひとりの属人性のほうの選択肢はない。だからもう一方では、親分の理不尽な命令に従わざるを得ない、ヤクザの鉄砲玉の悲喜劇みたいなのが、あちこちで起きる(これは会社でもそうだな)。

 

したがって政治家(閣僚のみならず、たとえそれが総理大臣や大統領であっても)個人の性格やものの考え方、党内人事を探ったりすることが、たとえば政界ジャーナリズムではない。それはたんなるコバンザメ行為で、芸能人のスクープ報道とおんなじようなもんだ。それにどうせ表に出る政治家なんてボンクラども(いまの制度に安穏と乗ってるのはぜんぶボンクラ)に決まってる。安倍でも反安倍でも、反トランプでもおんなじ。属人性キャラ性を打ち出しているかぎり対抗勢力もふくめて、ぜんぶが一様にダサく、旧い。

 

キャラ、キャラクターに依存しない。いいかえればそれは属人性からの脱皮、みずからをたんなる機関とみなすこと、そして全体性への奉仕。ご承知の通りシビアな民間ならとっくにその「脱皮」は実装済みである。それはブラック企業が言う「お前の替わりなんかいくらでもいるんだぞ」という「真実」が、極端ながらにも物語っている。

 

政治家個人から尊厳を剥奪して、いっこの記号となれ歯車に落とし込め。閣僚人事なんか玉突き順列入れ替え程度のものにしてしまえ。個人の発言なんかは公の場では封じ込め、失言なんか発生しようもない構造に変えてしまえ。それを政治家自身が決めてみずからをそう律せよ。そうしてから初めて、公共事業としての政治の本番が始動する。やがては政党や国会、内閣といった「囲い」は意味をなさなくなるだろう。これからの世の中のテーマは「滅私奉公ver2.0」、これですよ。

 

閣僚ちゃんたちよ、いつまで失言とかスキャンダルを国民に聞かせるつもりなんだ?個人的な正義感や価値観を勘違いして、発言や行動なんかしないでくれよな!全員まとめて、現状はどうせワシントンとかの操り人形なんだから。

 

<了>

インフルエンサーとAV女優

www.haradesugidiary.com

「インフルエンサー」ってAV女優とか風俗嬢みたいなもんで、本来長くやる稼業じゃないでしょ。

 

これがコンセンサスだと思ってたんだけどな。

 

つか、正確に言うと長く「やれない」。いやもとい、長く続けられちゃうけど、誰にも見向きされなくなるってのが正確か。

 

発言ごと、記事ごとに新味が出せる優秀な人ってのは、はじめに独力でなにかを発見したり、達成した人でないと。それに対して剽窃とか浅い共感力で渡り歩いてきた輩は、10年たっても同じことしか言えない。

 

だから「インフルエンサー」は長続きしない。

 

いや冒頭に書いた、AV女優や風俗嬢の方が、昨今はむしろ長持ちするわな。それもはるかに。

 

これは永続性の話だけでもなくて、女優や嬢の方がハダカを開示するだけの根性があるし、職業がら、相手と歩調をあわせた、柔軟なコミュニケーションが求められるし。これは下手な「インフルエンサー」よりよっぽど高度でマトモじゃないかな。少なくとも、オトコにとってその存在には、大きな「意味」があるしね。

 

<了>

 

イベントとは、ジャマなクソアプリみたいなもの。スマホの初期設定に織り込まれ済みで、アンインストールの選択肢がない。

「ハロウィーンはここ10年くらいで、完全に日本に定着した」

 

このような浅薄な定型文をこのまえ見かけたけど、まったく違うよ。正しくは定着「させられた」だ。その2つの意味するところは、ぜんぜん異なる。

 

秋はイベント(つか、バレンタインデーみたいな大消費喚起契機)が少ないと考えた誰かが、たまたまその時期のアメリカで行われる伝統行事を引っ張ってきて、さらに経済効果を上げるため、オリジナルにあるつつましい精神なんかを蹂躙し、物欲をソソるような仕掛けを注入し、成人式的バカ騒ぎの契機に仕立てて並行輸入した、と。ハロウィーンはこういう経過を経て、日本に、そして渋谷にやってきた(たぶん)

 

そして鳴り物入りの目新しさに考えなしで飛びつくような層が、寄ってたかってイベントにくっつき回る、その繰り返しで年毎に定着「させられた」。「人気が出るとは、バカに見つかること」(だったかな?)という有吉の名言を思い出す。

 

ハロウィンのプランナー本人は当初、アイディアマンとしてイベントプロデューサーとして、手腕は高く評価されただろう。ウン億円の経済効果をもたらした・・・とか、新たな文化を創ったとか云々。でも私的な評価では、日本における空っぽ精神の蔓延にまたひとつ、貢献してくれたってことになる。

 

ハロウィンの日本定着は、たしかに見た目にはアイディアの勝利であり、高度なマーケットプロデュースであるだろう。でもそれは人々の要望から出たのではなく、経済的要請から出たものだ。その中には個性も想いも、なーんも入ってない。あるのはおためごかしの娯楽と、誰のほうにも向いてない「仕事こなした感」だけ。そんなのはすべてがおしきせの、官製の、「~させられている」式になるに決まってる。それも可視化できないタイプのそれであって、人にとって大変にやっかいなシロモノだ。まるでスマホの初期設定に織り込まれ済みで、アンインストールや設定変更の選択肢がない、邪魔で仕方がないアプリのようなもの。ユーザーより企業側の意向を優先させる仕様。しかもそういうアプリは必ず何かを買わせる選択を表示するようになっているし。

 

ハナシは飛躍するけれども、こうした傾向は太平洋戦争前の国内雰囲気と同質の空気だ(体験してないけど、そうに決まってる)。今の日本におけるハロウィンやバレンタインは、この2019年という、政治経済風俗すべてが煮詰まってきている現代においては、出発点からして発想が間違ってる。人と人をつなぐのに外部的契機に頼ってた時代は第一次大阪万博(1970年)あたりで終焉し、いまの人は内部的な自発性でしかつながれないってことに、まだお気づきでない。というか、それはそれ、コレはコレとか思ってる。区別なんかないから、ぜんぶつながってるから。東京オリンピックだって盛り上がってるんじゃなくて、盛り上げさせられてるだけなんだからね、ホントは。

 

さてイベントは経済的要請が出発点と書いたけど、そのもっと根っこには、「チキンなハート」(コラムニスト小田嶋隆)がある。なにか仕事らしきことや発案でもしないと給料をもらうに値しないからムリヤリ企画を絞り出すとか、「汗は努力の結晶なんだ」とか「行動力こそ人生を変える」などと念じながら、歯を食いしばって無駄な努力を周囲に撒き散らすとか、そんな外部の目をバリバリ意識した、鏡の中のナルシストごっこは、もう全部止めにしませんか。仕事ってのは、粛々と作業するだけですよ。精神は介在させないもんです。いやこれマジで。

 

昨日の街でも、ハロウィーンの衣装を着せられて、パレードさせられてる幼稚園児の集団を見かけたけど、トイプードルに人間みたいな衣装を着せて連れ歩くセレブの意識が垣間見えて、ぞっとしたわ。子供という崇高な命の結晶体が、単なる集金イベントの奴隷にさせられてる。親の監視下で。

 

ここで本日のマイ格言。「慣れとは恐ろしい、慣らされるのはもっと恐ろしい。そして自覚なく慣らされるのは、怖さをも通り越して麻痺になる」

 

<了>

自分への約束

自分の行動に関することは言い切ってほしい。

予断も誤解も甘えもなく、スッキリ明確に、断言しよう

言い切ったなら、それが「約束」になる、自分への

 

「約束」以上に人を動かす動因はない。自分から自分への約束。いま、これを設定していない人が圧倒的に多い。

 

行動力が~実行力を~のビジネス書的ウンチクよりも、こうした内的「約束」が、もっとも大きな行動の動機付けとなる。

 

これを繰り返して生活に自律性を与えていく、ひいてはそれが人生のリズムとなる

 

会社員は勤務時間という形で、リズムを制度から与えられている

だから退職したとたんにリズムも自分も見失う

 

毎週何曜日は掃除する日、次の日はあたらしい作業に取り組む日、今日の午前中は友達に連絡してみる日、毎日30分早く起きる、などなど。

 

やったからといって達成感やカタルシスは少ない。けれど「自分」という容器は、この約束の履行によって、かならず変わっていく。

 

そのちょっぴりした変化を、内なる別の自分が見届ける。それが生きるということの正体だ。

 

行動を設定して、自分に言い切ろう。これがコツだ。

 

<了>