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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



無駄を省くという「ムダ」

「みなさん、よく考えてください。毎回○×をやっててそれに3秒かかるとして、またそれを1日に何回もやってるとした場合、年間で計算すると○×分ものムダじゃないですか。これでは貴重な時間をどぶに捨てるようなもの。その悪癖をやめ空き時間を生みだし、自分にしかできないことに、その分注力しましょう!」

 

こういうたわごとを、したり顔で述べる輩が後を絶たなくて、ハタ迷惑極まりない。時間を累積の算数次元に落とし込め、それで損か得かなんてやってると、自分の本分を見失うことになる。「ムダだから」なんだというのだ。ひとはみな、「ムダ」の落とし子ではないか。考えるおまえはムダそのものである。

 

いまは、流れつづける瞬間連続のピンポイントである。前の瞬間は、次の瞬間の母胎であり、連続という現象は必然である。生命に、無駄は過程はなにもない。ムダの概念すらない。人は自分一人で生まれてきて、ひとりで育ったのでないのと同じである。

 

無駄を省く、か。人は有史以来、だれしもムダ省きに懸命だった。現代だけそうなのではなかった。しかしそうやって爪の垢に火をともすがごとき思いで貯めたその「貴重な時間」で、人は本当に価値ある何かを生みだせた試しはない。そのかわり生みだしてきたのは、せいぜい賃労働への従事やカネ儲け、出世や殺人くらいである。ムダつぶしはプチプチつぶしに似て、ヒマつぶしに伍たる自由への没入。むしろ、不随への跳躍。

 

自由か。本物の自由は不自由の中にあるに決まってる。自由を定義づけるのは不自由だし、本当の自由は、自由など考えたこともない境地に存する。無為無策の中に本当の自由がある。

 

<了>

【書評】「箸の持ち方―人間の価値はどこで決まるのか?」 適菜収 (著)

「箸の持ち方―人間の価値はどこで決まるのか?」 適菜収 (著) 2014年

 

人間の価値を言うのなら、目の前の作法でなく、 目に見えない真理の方に。

 

ひどく勘違いした本である。

 

箸の持ち方が変なことを悪として、あれこれあげつらっている内容だが、正しくない箸の持ち方はなぜ良くないのか?という根源の分析は、文明だとか型などと言ってるだけで食い足りない。あれは分析と呼べるようなものでない。自分の言葉でないからである。
よそからかっぱらってきて、後付けでもっともらしく言ってるだけである。

 

箸の持ち方をタイトルにしながらも、分析をこのようにほぼ放棄してるから、この本全体においては、ただ嫌いなものをクサすだけの、感情の堂々巡りパートが際立ってしまう。著者のオリジナルな言葉は、こきおろす部分にのみ発揮されている。
で、感情で流して書いてるから反発にしろ共感にせよ、読み手には響く。それだけだ。

 

著者は先人の言葉を多数引用する人で、本書でもそうしているが、引用はボリュームアップの体裁作りに動員されているだけのコピペだ。
人の書いたものは、その人の書いたものである。それだけだ。
筆者は読書経験を豊富に持つ人のようだが、人間は、本をどれだけ読んできたかで形成されるのでない。ましてや、適切な引用を適切な箇所で出来ることなど、テトリスが上手なことと同じで、単なるマッチング・テクニックである。

 

で、不肖ながら私メが、なぜ変な箸の持ち方が悪なのかを考えたので、ここで教えてしんぜよう。

 

それは、自分の命はみんなのものだからである。
「自分の人生は自分のモノ」というのは間違った幻想だからである。

 

自分の人生は自分のモノという幻想に人は染まりやすいので、食事の度にそいつを打ち砕き、是正するために、正しい箸の持ち方、ひいては品のいい食事作法は存在するのである。

 

テーブルマナーはあんたのため(だけ)じゃない。あんたの周りで食事するみんなを優先する思想の現れであり、あんたを含めたみんなで形成してきた共生確認の知恵である。
法律なんかよりも厳密に服従せねばばらない義務である。

 

人間形成にいちばん身近で一番重要な「食べること」。
そこに私とあなたの大宇宙が出来るのが、食事の場である。
それは個別の欲求で乱してはならん聖域なんだ。
この聖域において、箸の使い方などというチンケな分野で勘違いの独自性を持ち込む人は、個性や自由を単にハキ違えてるだけである。だから醜いのだ。

 

これが私の考えだ。したがって筆者にこの考えは通用しない。なぜか?適菜収はマボロシだからだ。

 

著者名の適菜収というのはペンネームである。ペンネームと言えば聞こえはいいが要するに適菜収というのは偽名である。著者近影はイラスト、それもテキトーすぎて読者に失礼な、ちきりん品質以下のイラスト自画像だ。著作は多い。多いが内容はかなり重複している。コピペ量産である。このように自己をなるべく隠し、安住の隠遁部屋の陰から、ドヤ顔で馬糞を投げつけてるだけの透明人間が適菜収だ。私の話が通じるわけがない。


筆者のこの逃げの姿勢は自分が大事だからこそであろう。本人だけがスマートだと思ってやっている。
攻撃的にふるまう人の豪気さの裏にはしかし、えてして小心さが漂うものだ。この筆者とて、例外ではない。


適菜収の醸し出す狡猾さは、ほかならぬその本人が指弾する、箸を正しく持たない人と同じ醜さを根っこに持つ。ペンネームを指摘されると「三島由紀夫もペンネーム。何が悪いの?」とイケハヤみたくシラ切って開き直る適菜収は、箸使いの変な人が「どう箸を持とうが自由だ!俺の権利を踏みにじるファシストが!」と反発する醜さと何ら変わりがない。

 

気付いてるよね?今の世は、免罪符があれば何にでも乗っかるあさましさが正義になっている。
このチャンスを逃すなとか言いちらかして、乗らねば損な「芸風」が、大手を振って世を支配している。
仮想通貨ブームなんかまさにそうである。自分で生きづらくしてる。

 

過去の偉人とやらの言葉は、自分が剽窃したり、なりすますための器でない。
それを糧として自分が別の何かを発見することで、乗り越えるためにあるのだ。
そのための媒介項(正しい意味でのメディア)として有益なのが、いわゆる名著なのだ。
参照元として言葉を蓄積するだけなら、AIに早晩越されるだけではないか。

 

AIと言えばこの筆者のように、言うに事欠いて人間の価値などと言いだすのは、独裁権力の系譜がスタートする地点である。
人間に価値などいっさい関係ない!人はだれしも無価値もしくは規格外なだけだ。

 

作者よ、もうおやめになったらいかがか。引用に熱中し、気に入らんもんへの罵倒コレクションにばかり自分の言葉を費やすのを。もっと別の展望を言葉に載せられないのかなと思う。たとえば自分の内なる醜さへの自覚と切込みこそが、他からの借り物でない、自分自身の言葉を獲得する契機になるではないか。それには世を忍ぶ仮象はジャマであり、限界でもある(ひどくハードルの低い限界)。

 

言葉とは、みんなで「捨てる」、みんなに「捨てられる」ためにあるのだ。
「それをしなくなっていく」「自然消滅していく」ためにあるのだ。
宝物みたいに後生大事に引き継ぐためではない。座右の銘など毎日コロコロ変えてしまえ。

 

もういまとなっては、とどめを刺すのはこれを読んでくれる貴方だけだ。正しい箸の持ち方がそれを担保する。
生きづらくしてるのは、私たちがせっせと築いてきたこの歪んだ個人性の反映だ。
箸のひどい持ち方を看過してきた、その姿勢の蓄積が、私たちを背後から撃つ。
筆者の主張を代弁すればこういうことだが、ほら、言ったとたんに霧散するような言葉でしょう?

 

日常の振る舞いに期待しないことが、あなたをみんなを救うんだ。

 

<了>

 

【書評】「悪魔とのおしゃべり」 さとうみつろう ~「忘れようとしても、おぼえてないから、忘れられないのだ」ー 天才バカボンのパパ

 「悪魔とのおしゃべり」 by さとうみつろう from サンマーク出版
 
 
「忘れようとしても、おぼえてないから、忘れられないのだ」ー 天才バカボンのパパ
 
かの有名な「悪魔の辞典」に似た書名。悪魔を語る書物はすべてそうであるが、自分でEvilを名乗るものはそれだけで知的であるが故に、内容はすべて正しい。
本書の中身すら疑えと読者に訴える点には、読み手への信頼さえうかがえる。
この本に書かれていることは、あんまりよそでは読めないが全部当たり前のことである。けだし当然のこととして、世に流通してほしいことばかりである。

錯覚のために生きる倒錯、それをもってして倒錯を制す、そうしたそもそも論が多いのがいい。
根源にさかのぼった思惟の跡がみられ、科学宗教哲学と考察の範囲も広いが、それらはあくまで素材としてのみ利用し、本分は自分の違和感力に求めている点も正しい。
よそよそしくない当事者意識がある点を高く評価する。

「人間スーツ」から「世はすべて幻想」に至るあたりは、香ばしい文面も多く、科学などぜんぶ大錯誤だと思ってる(た)私に、量子力学や素粒子物理学の、哲学に近いゾーンを紹介もしてくれた。

「わたしは宇宙の座標にすぎない」など金言も多く、個的に分断された世界観と価値観と幻想が、ついには人を疎外するという、いいところに気づいた本である。

筆者の他の本もブログも講演会も、私は一切触れたことが無いが、傾聴に値するホンモノである。

本書で言ってるのは、人間は普遍の出先機関だということだ。
すべてのひとに人類の来歴が詰まっていてハナから勝利者だということだ。
それはこの本で言えば「真のブランコ乗り」だ。通俗的にいえば全員が神である。

修辞のウマさが光る。悪魔の問いの立て方が秀逸である。加えて構成が読ませることに徹している。
小説のような起伏もあるし、このあたり本文にも言及があるが筆者の講演会の成果なのではないだろうか。

でも論旨にはひとつだけ難点。この本には「あなた」がいないyouがない。
自分の周りの誤解を解いてあげる視点がほぼ9割だが、言うまでもなくそうした人生指南書などクソくらえなんである(この本は違うが)

Youは(深読みすれば)「One」という包括概念で言われてはいる。I&Youがひとまとめになった形で。
「体験」への言及は中途であるのだが、実はその先がある。I&Iの先がある。コミュニケーションだ。
そこら辺は次回作あたりに持ち越されるのではないかな。巻末(「デビる仲間を増やせ」)にそれらしき予感も漂うし、何といっても、大切なことはそんなにありはしないのだし。

ちなみにこの本は対談形式を模しているが、対談とは一人称に鏡を設置することだから、すべての文は対談でなくても対談である。内なる自分との会話がメディアの本体である。
本書での対話者は悪魔だけでない。話者の娘や息子、大学教授などを招来して、時間も立場も繰り延べながら論を進めてて上手だ。登場人物間での展開もあるし。
 
架空の上位者を設定して対談形式にするのは、書きやすいのでわたしもこのブログでたまにやる ~裁判官縄文人(!)、悪魔(!!)~

何が書きやすいのかというと、啓蒙だ。説教だ。誘導だ。イヤミがあったりトゲトゲしいことほど、仮設の人格にゆだねることで劇薬を飲み下しやすくできるのだ。

ただしこの手法は注意がいる。エア人物の仮設が照れ隠しの免罪符にならないよう、細心の注意が必要なんだ。長編であればあるほどそう。
本書はシリアスさをオブラートに包んで照れ隠しするその一歩手前で、なんとか踏みとどまってるが、それでも第9章「この世は、勘違い合戦」は予定調和なビジネス書になりかかってる。つまり世俗的な蛇足に少し染まってる。
自分の文が自分を「裏切っていく」その断層が少ない。だから読後感は淡白。
「楽しむ」なんてわりとライトな言葉も、あんまり詰めないまま全編で使ってしまっている。寓話形式の限界だろうか。

(ちなみにこの「楽しむ」は、私なりに言えば「飽きる」ことと理解している)

性善説の本である。罵倒や見下し、否定は少ししか出てこないし、出ててもギャグめいたおちゃらけで塗りつぶされてもいる。その分安心して読めるが、同時に上に書いたように淡白だ。

本書評のタイトルにバカボンパパの「忘れようとしても、おぼえてないから、忘れられないのだ」という名ギャグを持ってきたが、ここで再度マンガを引き合いに出せば、この本は「AKIRA」や「エヴァンゲリオン」である。ひとつは全体であり、宇宙にはその原理しかない。

世にはびこる目くらましで全体が見えなくなってるのは、円満な死にとってはむしろ回収面で幸いである。

立場も思想もない!あるのは煩悩とその取りまきだけである。
違いを見つめるのでない、同じポイントをみてゆくのだ。

気分や感情は捨てねば始まらないという私の誤解をやや緩めてくれた、この点も本書の私的功績だ。
外で石にコケてつまづくのにもセカイを観取する。「これでいいのだ」
<了>

日本語が乱れてるんじゃない。乱れてるのは人の方だ。

言葉には2種類ある。

 

自分(正しくは、内なる別の自分)に向かって発するひとりごとと、外に向かって発する外郭のある言葉だ。言葉の効能で言えば前者は内向、自省の契機であり、後者は対外的、公的な言葉である。

 

この2種類の言葉は、同じみかけをまとっている。効能、または使う方向が逆(「わたし→あなた」 or 「わたし→(内なる別の)わたし」)なだけだ。だからなのかここ最近は、この2種類の言葉の種別を区分せず、混合したり乱用することが多い。

 

いやなに、むずかしい話ではない。例を挙げよう。

 

たとえば「…っていうか」という言い回しがそうである。

 

会話の中に、この「…っていうか」という言葉がひんぱんに出てくるようになったのは、ここ30年くらいの事であったと思うが、この「…っていうか」は本来は、自分へのツッコミとして自分の中で処理するタイプの言葉であった。

 

ツッコミとは、要は反省の契機である。ぼくらは「…っていうか」を自らに切り出すことによって、大げさに言えば違う意見への検討、より適切なものへの指向性、異なるものの模索に対して、素直なへりくだり意識を確認する。

 

このように、もともと「っていうか」は、自分の中だけにしまっておくべき、内向的でつつましい表現であった。

 

しかし今の使われ方は違う。「というか」のほとんどが、相手の発言への対応として発せられている。何か言ったあと、相手から最初のリアクションが「…っていうか」ときて、頭ごなしの否定のように聞こえてカチンときた人は多いのではないか。

 

これでは言葉の効果はまるで逆になる。相手の発言にかぶせてもの申す場合、自分の言葉は、自分の責任において発言するのが、いさぎよく、また礼儀にもかなっていて当然の態度だからだ。

 

しかしここでキレてしまわないで立ちどまり、相手に向けた「というか」をとくと眺めると、この言葉は主語を固定していないのが分かる。ふわついてる天の声である。したがって言う方の責任を引き受けないでウヤムヤにできる。言いっぱなしのかくれみのにできる。相手に言葉を感想を一方的になすりつけておいて、なおかつ自らのケツを拭かない卑怯な話法をカンタンに構築できる、そんな魔法のような言葉である。

 

その他には「ついでに…」もそう。本来は自分の思考や行動範囲でのみ使うべきこの言葉を、そうせずに他者に対して発したとたん、相手をまるで見ていない、他者不在の不遜極まりない表現にスリ替わる。すると、エラそうに指図するニュアンスがそこに醸し出されるのだ。こういう言葉を安直に使うその心理から、権力は芽生えるのだと言ってもいい。

 

「っていうかどうせこっちに来るならついでにアレ持ってきてよ…」って、おのれは大名か。

 

メンドくさいもそうだ。内面に対してのみつかうべきこの言葉の、外部に放たれた時の暴力は大きい。ここ10年くらいは「お前、メンドくさいんだよッ!」的な言い回しも多いが、言われた方にしてみれば、全否定であって、これほど衝撃的な言葉はない。しかし言い放った方は大した了見もなく、存外涼しい顔である。これもドロんと発言主を消す「魔法」の話法である。

 

このように、(僕の考えにおける)本来は自分に向かうタイプの言葉をよぉく考えてみると、それらの特徴はまず基本的に主語を要求しないってこと。なぜなら発言主は自分ひとりに決まってるからだ。そして、より肝要なのは、それらの言葉は実ははじめから負荷や毒を含んでいるってことだ。それは自分を鍛えるために、言語野にあらかじめしつらえられた、ムキ身の、ヒリヒリするようなニュアンスである。自身の成長に欠かせないマイナス葛藤、ネガティヴ栄養は、こうした内向きの言葉の中にわずかながら含まれている。

 

上の例でいうと、「っていうか」は自分の意見への自分内反証、「ついでに」は能率への意欲、「めんどくさい」に関しては気分の表明であるが、自分への現状批判を少しだけ含んでいる…という感じである。

 

このように意識して、いづれの成句も独り言にとどめ、自分の内なる飛躍のためだけに使うべきである。少なくとも上に掲げた3つの用法は、今日からでも、自分の外に出さない、人に対して言いそうになってもグッと飲み込んでおきなさい。これだけでも人間関係が円満になること請け合いであり、また良薬は口に苦いものであります。

 

自分に向かって発する言葉と、外に向かって発する言葉。この2つは分けて使用すべきである。それには訓練がいる。公的なスピーチや、みんなの前で朝礼や発表をするのとはまた違う、それは微細なレベルでの分別であり、特に教科書にも載っていない。文法に正誤はあるが、用法にその厳格さはないのである。

 

しかし、だからこそこの分別訓練は大切だと思う。いままでそれと意識されてこなかったことにこそ、本質が潜んでるのが世の常だからである。同じ日本語でも肝心な使う際のベクトルが反対だってことを感取できる・意識できる・じっさいに使えるのが、本当の賢さであろう。

 

筆者は日本語研究家でも文法家でも何でもないが、言葉への取り組みはこうして効能面からとらえるのが正しいと信じている。日本語が乱れてる、とはよく言われるが、乱れてるのは言葉ではなく人心の方である。言葉は「乱れ」の様相を照らし出していくだけだ。

 

いま、職場などで人間関係に悩む人が多い。それも取るに足らない言葉のやりとりから関係がこじれることが、その原因の大多数を占める。うつ病や自殺、キレた挙句の衝動的な犯罪も多くなっている。被害者意識の肥大と自意識の過剰が多くなりすぎて氾濫し、社会のいろんなところで動脈硬化を発症させているかのようだ。自分に向かって発する言葉と、外に向かって発する言葉の混同・乱用は、その弊害の一番底の部分に渦巻いている。そう思えてならない。

 

2種類の言葉の一覧表でもつくろうかな。用法も添えて。お国のためになりそうだ笑

 

<了>

 

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