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縄文人Jとの架空インタビュー ~いまでも縄文は生きている~

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*縄文時代の暮らし(想像図)

 

縄文人Jと現代人との架空インタビュー

どうも縄文中期から来たJです(といって握手)


―お、意外と現代的ですね。


当たり前だ。他者をまず感知する行為の端緒として、目線を合わせた握手ほど有効なものはないよね。
こうすればすぐに、相手が自分とどれくらい違ってるのか「分かる」じゃない。
ただし形骸化した作法としての握手なら、しないほうがマシだ。キミの時代はそんなのばっかだと聞いてるぞ。


―これまたのっけから、意外に知的な発言ですね。


われわれの祖先原人は、ウホウホ威嚇しあって死ぬだけの存在だったが、そうしたなりの知性は当時から存在してたわけで、誰もが生の当事者って意味じゃ知性体だ。
われわれだってそれ以前の歴史から学んでいるのだよ。


―日本人の原型ですね縄文さんは


ニホンジンだなんて、そんなレッテルなんか近代幻想でしょ?
キミたちとは1万年くらいの隔たりがあるってことになってるけど、人間が、自分の存在を噛み締めてさえいれば、時間や暦なんてものの意味はじつはないんだ。「ご先祖様」っていう考えは警戒しなきゃ。純粋に謙虚さのあらわれなのか、謙虚に名を借りた判断停止なのかっていうこと。


―縄文時代って、他の部族との抗争に明け暮れてたなんてイメージもあるんですが


ぜんぜん違うね。われわれのテーゼは"差異の受容"だ。あるものは大陸から渡来し、あるものは土着で何世代か経て現存し、それらがひとつの共同体で暮らしていた。全員が違ってて当然で、他者を研究するなんて無意味なことは一切しなかった。
また野性世界では、他者を護ってこそ、己が護られる。これが摂理というものだよ。いまだってそうだろ?


―そんなもんかなぁ。でもま、こんにちの情報化社会に生きてると疲れるのは確かですね。その点素朴でいいよなぁー縄文時代は。


情報化社会?例えば毒キノコの分類を情報というのなら、そんなものはたしかに情報だ。
問題は、その知識という情報への関わり方だろう。
情報から何を学ぼうとしてるのか?情報からの学習とは、どんだけ多くの毒キノコ情報を知ってるかではなく、毒キノコを最初に毒見したニンゲンの気持ちに想いを馳せて「自分だったらどうするか」ってじっくり考えてみるとか、毒キノコを無毒化するにはどうしたらいいのか、ってことを主体的に引き受けて考えてくことじゃないのかい。
疲れると言ってるがどうせ疲れるなら、そっちの方面で疲れなさいよ。
いま疲れてるのは毒キノコという情報の多さに、キミの目が回らされてるだけなんだから。
そんなの疲れるって言わないさ。


―しかし縄文さんは、なんで弥生人にその地位を奪われたんですかね


奪われたのではなく、譲ったのだ。謙譲と継承と贈与こそ、縄文人唯一の憲法である。
弥生人はあきらかに当時のニューウェーブだった。なぜかといえば、本格農耕と組織的定住をはじめたのだ。そこが、環境の収奪範囲でしかそれらを実施しなかったわれわれとは違っていた。だから席を譲ったのだが、それが今のキミたちにしてみれば、ボタンの掛け違いの始まりだったな。


―え?どういうことですか?


弥生人は農耕と定住に「安定」を求めて縄文人の徒然性を過小評価&排除しようとした。これが間違いの始まりだ。
安定を求めるその気持ちは、皮肉にも人心に差異を生んだ。その差異は必然として身分を生み出した。そしてその一部はやがて権威となった。集権制のはじまりだ。


他方、農耕で計画栽培された作物とその富の備蓄が所有の概念に結びつき、そうした身分ヒエラルキーの発生を物質面からアシストした。
権威は宗教に変容し、農耕や狩猟の交換経済はやがて貨幣らしきものを生んだ。


そして決定的なのが本格的で計画的、かつ組織的な稲作の開始だ。その一連の発達が、弥生人の定住をいよいよ固定化し、集団の権威付けと貨幣の原型、国家的なるものへの一極集中を促進した。かくして部族同士の血で血を洗う抗争が始まるまで、あと1歩という段階にまで至った。


どれもこれも元々世界には存在しない制度で、人の視覚錯覚に乗じた、悪質な客観を助長するだけだったのさ。だから弥生人は500年ぐらいで潰えてしまった。しかし残った悪手は次代に引き継がれつづけた。


知ってるかい?ニンゲンの飢餓は、農耕時代以前にはなかったんだ。
計画的に、大量に、祭事なんかも含めて素朴なある種の科学的手法に則って、集団によかれと思ってせっせと推進された農耕が、結果として逆に人を飢えにまで追い詰めたんだ。豊かさの志向が、富の偏在を生み、弱い部分にひずみが溜まるようになる。
この論理の飛躍みたいなのと類型のパラドックスなら、ITの発達とブラック企業の増長の相互矛盾など、今でもいっぱいあるだろ?
稲作へ執着するあたりから、そうした人類の不幸が顕在化してくるのさ。


歴史のイメージだと縄文人は原人に近く野蛮な存在で、弥生人まで時代が下ると、文明が発祥して現代人に近くなってくるなんて勝手に親近感を抱いてると、実像がぜんぜん違うことに驚くんじゃないの。
人類歴史では進歩が退化。1歩進んで2歩下がる。
前進してるようで後退するムーンウォークに、全員がまい進してるってなもんよ。


われわれ縄文人は環境という連鎖の中での自分の立ち位置、限界をわきまえていた。ここらへんでよしておくか、ってのが重大な意味を持つってことが、いつでも分かっていた。
いくらでも採れるから、取れるだけ採っちまえってのこそ、野蛮じゃないんかね。


―縄文人の自我について


ぼくらの縄文時代においては、周囲と自分との関係相の成り立ちが、キミたちとはぜんぜん違っていたことに留意すべきだ。
まず共同体はいまみたいに分業制ではなかった。仕事は全員がそれぞれの技能を、出し惜しみ無く100%持ち寄ってはじめて成立した。所有や私有の概念なんかなかったし、全体でひとつ、ひとつはぜんたい。それが暗黙の了解だったんだ。


そこではひとりひとりが1ミリのヨソ見もスキもなく全体であり、かつ、全体が個人に奉仕した。それは共同体の規模に関係なく、軽くて平明で、風通しの良い、拡大しきった世界だったよ、じっさい。
竪穴式住居は、外をいっさい拒まない構造になってるだろ?それが証さ。


いまの仕事風景ってのはパーテーションに仕切られた分業オフィスで、スマートに自分の仕事だけやって定時でスパッと帰るなんてのがあるって聞いてるけど、信じられないね。
そんなんじゃ、内実は牢獄とどうちがうのさって思っちゃう。仕事ってのは全人格の放射じゃん。区切りなんか、それが物理的なものであれ時間的なものであれ、障害でしかないよ。


あとね、狩猟がメインだった縄文ライフの特徴はもうひとつあって、それは世界で存在しないとされてること、微弱すぎて無いも同然なもの、小さきもの、弱きもの、異なるもの、そうした微弱なパルスをあるがままに受け止めるってことなんだ。
微弱だから、違うからこそ実はつよく、しなやかでゆたかだ。そこをあらかじめ知ってるから、希少性をかさにきた逆ファシズムにも陥らない。
自然との共存や原始共産制、素朴な組織論みたいなお題目なぞ不要の、フレキシブルで共生共有、分かち合いの境地。それが縄文ライフだ。


―自己完結型なんですね


自己完結?ああまだわかってないようだね。いかにも近代的な解釈だが違うね。これは自分は自分でなく、またはじめっから他者なんていない。「誰もいないけど、全員が揃ってる」のが本当の世界であるという広~い認識なのであって、自身から惹起してエゴに収束してゆくような、そんな狭いものではないんだよね。


―縄文人の一日について


自分の集団を生存させるに足る食料の確保、そして子供の養育。
そして狩猟用具の改良、調理方法の開発、竪穴式住居の修繕といった生活様式の革新。これだけで1日どころか人生30数年ですら、あっという間だったさ。冒頭に言ったように、時間や暦自体には意味はないんだ。そんなの目盛りのメモリーみたいなもんさ。
だって共同体の全員が等しく家族であり、子供という子供は全員が自分の子供だったからね。
狩に帯同させる犬ですら、家族同様の扱いだったんだから、自分のことなんて一番最後よ。

 

「縄文時代はテレビもネットもなく、ましてや本すらなくて退屈だったよね?」って聞かれるときもあるけど、毎日が自前の祝福に100%満ちた日々だったぼくらからすれば、祝祭日や娯楽を暦や制度から与えられてるだけの操り人形ちゃんみたいな現代人にそんなこと言われても、唖然とするしかないよね。


約8千年続いたといわれるぼくらの縄文時代は、日本の歴史の中では破格なまでに長く続いた時代であったらしいね(ま、こんな充実した暮らしなら、当事者にとっては1万年でもアッという間だったさ)
で、そのように長期間続いたワケ。それはめちゃめちゃ簡単に言えばムリをしなかった、余計なことに欲目を出さなかったってことに尽きるのさ。これは明示的な言語を持たなかったため、とも言えるね。言葉がなかったから意味そのものに絡めとられることから無縁でいられた。なにしろ意味ってのは「枠」そのものだからね。
それからそのことに付随して、いわゆる歴史上の「人物」を輩出してこなかったこともわれわれの誇りなのよ。
ヒーローやスターを必要とするのは、人の差別心の裏返しであって、それは人類にとって不幸だからね。


だからわれわれ縄文人の、人生への取り組み姿勢は、キミたち現代にも生きている。
進化とは、1回性のもので、さかのぼったり、一時停止したり、逆進したりしない。
人類は永遠にかけがえのない過程的存在であり、過渡期であり、完成形はない。
しかしその進化の歩む軌跡は直線的ではない。また新規の登場による旧の単なる刷新でもない。進化とは、らせん状にすすむものであるようだね。さっき言ったように1歩進んで2歩下がるのが進化の常態という気がする。すぐに理解しやすいものにはロクなものはないということさ。


戦い、いさかい、争いのほとんどなかった縄文人の人生と、現代の技術とを止揚するのが、後戻りできないサガを持つ人類の、次代の知恵になってくるだろう。たとえばそれはこんにちでも漁業や林業、やきものなどの中に、わずかながら連綿と引き継がれているなにか伝統めいたもの、継承めいたものに含まれているはずだ。縄文貝塚や縄文土器こそ、その具体メッセージさ。


われわれを遺跡や考古学、歴史学や民俗史学的な狭い学問範疇に押し込めておくなら、いったん到達した人類の偉大な指標もまた、希薄化のかなたに見失っちまう、そう思わないかい?


―なんとなく分かったような分からなかったようなお話でした。だけど西暦も2016年まで進んだし、これからも人類は進歩するってことで、今日はありがとうございました。

もうさ、暦なんか自分をしばるだけなんだから、捨てちゃえば?笑

(了)