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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



選挙を「戦う」という発想が、死を招く。

戦うって言葉を、今回の選挙候補者がさかんにワメいてるが、いったいどういうつもりなのだろうか。選挙は争いではなく、テストのような評価の場である。対立候補やおのれの支持地盤しか見えてないと敵味方・勝ち負けの発想になるが、その背後には評価主体となる、支持層でもなんでもない国民がいるのを忘れないでもらいたい。

 

選挙は候補者に対する評価結果が(本当に公正なものかどうかは別として)たまたま得票数で出るから、終わってみれば競争のように見えるだけのものである。戦う相手がもしいるとすれば、それは自分自身だろう。

 

(政治家だって普通の人だから、本当は「評価」って言葉を当てはめるのもしっくりこないのだが、ほかに適切な表現が思い浮かばないので、使う。選挙自体が乱暴な制度だから、どうしてもこうなってしまう)

 

有権者は政党に対しては、いままでの実績に対して票を投じ、候補者に対しては未来の志向性に「賭け」て投票する。それだけであって、彼我の違いを際立たせたガナリ合いなど選挙の本筋ではない。また、選挙のあとには政治の本番がくるわけだが、政治の王道とは「違い」の希薄化であろう。いろんな社会的差異をなくしていくのがまつりごとの大きな役割の一つであって、それは「勝者」にできることではない。いわゆる政治問題の根源は、全部コレである。

 

確かに選挙は、「枠がひとつしかない椅子取りゲーム」である。得票数というカタチで勝敗はある。けれどもそれはまた、評価優劣の差でしかない。ゲームや合戦に勝ち負けはあるが、政治にも人間にも勝ち負けはない。その基本の考えを念頭に置いたとき、選挙を戦うとのたまう人は不遜にすら映る。

 

戦うって叫ぶのは、競争を前に自分に気合を入れてるだけって意見もあるだろう。気合はたしかに大切だ。だけど気合いは内向きの態度でもあるから、戦うなんて言葉で外部に出されては、外野はしらけるばかりである。他人に見せるために行われる、リキんでガンバる姿というパフォーマンスは、かなり世にはびこっていて、それは滑稽でバカらしいものだ。

 

だから制度としての選挙には期待しない方がいい。候補者は淡々と、粛々と、声も大して張り上げないで、マニュフェストもサイトで読んでくださいぐらいの淡白さで、自分を評価してねと皆の衆に開示する。選挙など、その程度でいいではないか。勝っても負けても単なるスタート地点に過ぎないではないか。たとえ「負けて」も、そこから地道にやっていくことが、その候補者にしてみたら本番とも言えるんじゃないかな。

 

選挙ごときで「戦う」なんて言葉をカンタンに言い放つ候補者を当選させると、戦争に一歩近づくことになるよ。

 

<了>

女子会なるものの怪。略して女子怪。

美女というのは、いつの世も数少ない。モデル級の女が掃いて捨てるほどいる国など、東欧にはあるらしいが、日本では容姿がイマひとつな女性が多い。まぁ昔はもっとイモかったりみっともない顔が多かったので、その頃にくらべたら現代は洗練されてはきている。しかしそれでもメイクなどは、素の輝きを封じ込める、ツラ汚しのようなものばっかりなのである。非の打ちどころのない美人など、昔も今も、めったに見かけない。

 

それではそうした数少ない、恵まれた風貌の女性はもれなく結婚でき、幸せをつかんでるかというと、ご存じの通りそうでもない。むしろサエない女性の方に意外と伴侶がいる。そして満ち足りている。それどころか、こんなヒドイのによくダンナが付いてるな…と思うような不可解な現象にも、しばしば出くわす。昔からそのように、男女は禍福平等、機会均等になっている。むろん例外を省いた話であるが。

 

人類の繁殖的にとらえれば、これは当たり前である。容姿の整った人だけがサヴァイヴできるなら、人類はとっくに終わってる。ではなぜ、サエない風貌の女性が、いままで男をつかんでこれたのか。

 

昔はお見合いが多かったから…結婚が当り前の時代だったから…などでない。そのワケは男によってのみ、女の総合力が磨かれるためである。性行為などが象徴的で、男からすればヤッてればどんな女も見慣れてきて、色香が出来てきて、可愛く輝くのである。男は吸い込まれるだけ。女のつよさは「覆うこと」ができるってことだ。

 

その手前で男と知り合えない女はどうするか?夜に飲み屋に出向けばいい。その際にダメな店は、気軽に入れる大衆居酒屋みたいな大バコや、カフェの延長みたいなおしゃれ系内装店である。向かうべき店はそうではなくて、こじんまりとした、個人経営でマスターがひとりの、カウンター付きの飲み屋である。高級店でない、スナックの居抜きみたいな場末の店が、おしゃれ感は欠けていても、こなれてていい。敷居も価格も、そんなに高くないはずだ。

 

ひとりで行くに限る。週末の22時くらいに行き、カウンターにいるマスターと壁パスしながら、隣の人と語らうのだ。マスターなら話に付き合ってくれる。客だから。この壁パス・トークができるのが、小さい店における最大の利点だ。

 

酒が飲めない人はウーロン茶でいい。茶を置いてない飲み屋などない。また、飲み屋街が近くに無い人は、近隣の都市に、宿泊してでも出向くべきだ。

 

話す内容はなにがいいのかを、ここで云々する必要はないだろう。そういう小さな飲み屋のドアを、ひとりで開ける気概のある人なら。

 

3~5回ほどそうやってソロ活動すれば男をつかめるだろう。世の中のすべては夜闇が育てる。恋愛もそうである。そのためには自分から売っていく/打っていく/撃っていくことだ。

 

独身同士の女子会など、男をつかめぬ敗残どもの集いである。傷口をナメあい、見栄を競い、表面的なカワイさや当り障りのない話題に溺れる。インスタグラマーやリア充女子には、片肺飛行の危なっかしさや、むなしい貧弱さを感じる。内実のない色香、痩せたフェロモン、捨てる直前のサワデーである。女子会なるものは、すべての男にとって苦々しいものだ。そのことを忘れてはならない。

 

女性の輝きは女子会にない。あっても、外(男)にアピールしなければ、それは便所の100ワットである。女子力磨きの前に人間力だろう。隣の初対面さんと快活におしゃべりできる、素直でおおらかで開放的な心持ちの方が上だろう。それでこそ、結婚後も充実していけるのではないか。

 

なんだか伊集院静みたいな語り口になったな。

 

<了>

最近の、なんとかファーストって言い方、やめにしない?

順列とか優先順位とか、すぐ言い出すヤツや、「ファースト」と位置付けられない方にこそ、目を向ける意識がないひとは、ぼくは信じない。

 

なんとかファースト(選民意識)とか、あとオールなんとか(選民意識の裏ver)って言い方もあるけど、そんな閉じたスローガンを言い出す手合いは、テメーのことしか考えてないヤツだ。

 

<了>

過去のものには福残る。泥船状態の民進党へのレクイエム。

一方的に発散するように、前のめりにイケイケ・ドンドンで、仕事を推進することは、たとえば新製品の拡販などを考えれば分かるように、ある意味カンタンなことである。良く言えば熱意、悪く言えばノリで、一気呵成にやってしまう方がラクに決まっている。

  

え?カンタン?ラクチン?何を言ってるんだ。お前は仕事の苦労もリアルも、まるで分かってない!というお叱りはありそうだ。

 

でも、じっさいラクなのだその方が。なぜなら新規なものへの没頭は「細かさ」を必要としないから。何に対する細かさが不要かというと、既存の客や事物に対するそれである。

 

いうまでもないが戦争でも紛争でも選挙でも、ムズカしいのは撤退戦やあと始末の方である。音楽におけるベースの役割や、野球におけるキャッチャーの意義が超大事なのと、まったく同じことである。

 

新製品の例でいえば、前機種の終了フォローをきっちりやり遂げることである。つまり過去の顧客へのサービス「店じまい」である。それをうまく終了させられもしないで、いつの間にかあいまいに、なぁなぁに、もしくは一方的に高圧的に、事態を終わらせてしまうことが世には多い。つまり、終わらせ方に理がないし、終わり方の検証もないから、修正もない。何かが終わる、そのときには外部から指摘されなくても、撤退のための部署なり担当をつくって、そこで後始末に専念させるのが、自社製品への本当の誇り、愛着、ユーザーへの感謝であろう。それは巡り巡って自社のためにもなろう。後始末でケリをつけねば次への飛躍はさらにむずかしい。

 

だからこれはセンスの問題でもある。センスとは、他者への配慮である、すなわち今までの顧客への礼節である。そしてそうした地味な作業の中に、意外と新しいものへの契機が含まれているものだ。

 

終らせ方にスジが通ってないというその末路は、いまは新規のモノも、やがてはそのように運用されることをも、暗に示している。過去のワープロがそうだったように。東芝のRupoもシャープの書院も、撤退してから十数年。今ではメーカー本体が苦しいという事態になっている。

 

このように生産終了製品を、その終わらせ方をコミコミでじっくり検証していくと、その法人や集団の特色、傾向が良くわかる。ヘタな企業研究や会社四季報なんかよりも、よく分かる。何かが終わったからと言って振り向きもせず、「行動力が大事」とか「改革!」などといって新しいものにホイホイ軽率に乗り移っていくのは、実は宝の山の放置に等しい。新規への没頭は怠慢であり、ダイヤモンドはゴミの中に落ちてるものだ。

 

さて民進党もいまや泥船。ぶざまな終わり方で沈没しそうだが、終わったらその検証をしないとな。

 

追記:都知事のように選挙で改革を訴えることは派手に見えるがその分陳腐である。ナゼならその前に、以前に施行された「改革」とやらの吟味や検証があるはずだからだ。それは地味な作業であろうがその効果測定をすっ飛ばして、新規の改革を謳うことなど、上に書いたように安直のきわみではないだろうか。「リセット」など、「セット」当事者の痛みを見ようとしない人がいう、軽率な言葉だ。

 

<了>