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選挙を「戦う」という発想が、死を招く。

戦うって言葉を、今回の選挙候補者がさかんにワメいてるが、いったいどういうつもりなのだろうか。選挙は争いではなく、テストのような評価の場である。対立候補やおのれの支持地盤しか見えてないと敵味方・勝ち負けの発想になるが、その背後には評価主体となる、支持層でもなんでもない国民がいるのを忘れないでもらいたい。

 

選挙は候補者に対する評価結果が(本当に公正なものかどうかは別として)たまたま得票数で出るから、終わってみれば競争のように見えるだけのものである。戦う相手がもしいるとすれば、それは自分自身だろう。

 

(政治家だって普通の人だから、本当は「評価」って言葉を当てはめるのもしっくりこないのだが、ほかに適切な表現が思い浮かばないので、使う。選挙自体が乱暴な制度だから、どうしてもこうなってしまう)

 

有権者は政党に対しては、いままでの実績に対して票を投じ、候補者に対しては未来の志向性に「賭け」て投票する。それだけであって、彼我の違いを際立たせたガナリ合いなど選挙の本筋ではない。また、選挙のあとには政治の本番がくるわけだが、政治の王道とは「違い」の希薄化であろう。いろんな社会的差異をなくしていくのがまつりごとの大きな役割の一つであって、それは「勝者」にできることではない。いわゆる政治問題の根源は、全部コレである。

 

確かに選挙は、「枠がひとつしかない椅子取りゲーム」である。得票数というカタチで勝敗はある。けれどもそれはまた、評価優劣の差でしかない。ゲームや合戦に勝ち負けはあるが、政治にも人間にも勝ち負けはない。その基本の考えを念頭に置いたとき、選挙を戦うとのたまう人は不遜にすら映る。

 

戦うって叫ぶのは、競争を前に自分に気合を入れてるだけって意見もあるだろう。気合はたしかに大切だ。だけど気合いは内向きの態度でもあるから、戦うなんて言葉で外部に出されては、外野はしらけるばかりである。他人に見せるために行われる、リキんでガンバる姿というパフォーマンスは、かなり世にはびこっていて、それは滑稽でバカらしいものだ。

 

だから制度としての選挙には期待しない方がいい。候補者は淡々と、粛々と、声も大して張り上げないで、マニュフェストもサイトで読んでくださいぐらいの淡白さで、自分を評価してねと皆の衆に開示する。選挙など、その程度でいいではないか。勝っても負けても単なるスタート地点に過ぎないではないか。たとえ「負けて」も、そこから地道にやっていくことが、その候補者にしてみたら本番とも言えるんじゃないかな。

 

選挙ごときで「戦う」なんて言葉をカンタンに言い放つ候補者を当選させると、戦争に一歩近づくことになるよ。

 

<了>