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お金に困ったら読むブログ

みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



その言葉遣いに用がある~若者の言う「おとうさんおかあさん」

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チキンラーメンに卵を落とす。刻みネギを添えて(本文とは関係ありません)


<肉親をどう呼ぶのか>

若い人の言葉遣いで、おとうさんおかあさん、おじいちゃんおばあちゃんという呼称が普通になって久しい(気がする)。

この前、色んな聴衆が入り混じったある業界セミナーを聞きに行ったら、講師の人が30歳の若い人だったけど、自分の話をするときにやはり「ぼくのおかあさんが…」などとやりだしたのでビックリしてしまった。

ああいう場では「母」っていうものなんですよ。

そのセミナーは全国巡回型で、同じ講師が日本各地(といっても4都市だが)で同じ話をしてるはずであって、しかも僕の参加した仙台は最終日だったのだ。途中で誰か注意する人はいなかったのだろうか。
というわけで出しゃばりな僕は、講演後、こっそり本人に注意させて頂きましたがキョトンとしてたとさw

僕の常識だとそうしたちゃん付き言葉は、自分の独り言か家庭内でしか遣わず、公的な場所では「父」「母」、また、「祖父」「祖母」などと言うものだが、若い人はなぜかのべつまくなしでちゃん付き呼称を遣う。

当の若者たちにすればこれにはいわゆるTPOは関係ないようで、彼らは公の場のトークだけでなく、気心の知れた仲間同士でもそう言うのだ。

僕は仲間内だったらおやじおふくろ、じいさんが、ばあさんが、ってぶっきらぼうに言うだけなのだが、しかし今やおふくろは死語だし、親父(オヤジ)は今では別の意味になってしまったw

で、そういう若者に「父」「母」「祖父」「祖母」を遣わない理由を聞いてみると、それだとなんか堅苦しくてヤダと答えるのだな。
そしてその目は「それで何か問題でも?」と語るのだなコレが。
つまり漢字だと血が通ってない、よそよそしく冷たい響きの言葉だと思われて敬遠されているらしい(当社調べw)。

ということは逆に言うと、30代前半より若い世代は、親しみの持てる、柔らかな響きの表現にもっとも高い価値を置いている、ということらしい。ここでは公私の区別は価値を置かれていない。社会人でもそうなのだ。(でもそれでいて「尊敬する人は?」って聞くと「親」とか、冷たい言葉を平気で言うよな。どうも僕には分からない分水嶺があるみたい)

リアルな人間関係では周囲の空気を読むことに細心の注意を払い、そしてしゃちほこばった、形式ばった言い方を控えて結果的に公私を混同する…
僕のようなアラフィフのおじさん(ホントの叔父さんって意味じゃないよw)には、若い人のそんな心象風景が浮かんでくる。

で、ここがちょっと驚きなのだが、話してる当人は、公私混同の意識はまったくないのである。
誰に対してもソフトな響きの言葉を遣っていれば万事OKとしか思ってない(と言ってた)。
「おとうさんおかあさん」が、オフィシャルな場でも適切な表現であることを信じて疑わず、いつでもどこでもそれ一辺倒なんである。女子における「カワイイ」「おいしい」みたいな、符丁・記号の音声万能薬といったところか。

この肉親呼称の公私混同現象は、直接的には、友達感覚の親子が多くなったせいなんだなきっと。
違う世代(子供)の持つ理解できない部分を、物分りの良さという、一見問題なさそうな親側の怠慢で隠してしまい、子ども側でも何となくそれに同調させられ、長じてからも後天的に修正されてこなかった、その名残りっていう気がする。親子であっても異人同士なのだから、相手の言うことが分からないときはその”分からなさ”を伝えるべきだ。理解できようとできまいと、お互い対峙すべきだ。



<ありふれた表現に埋没したままだとまずい>

言葉の意味は時代によって変わるけれど、公私の境界線がぼやけたこの肉親呼称は、オジサンは違和感があってダメだなぁ。
おとうさんおかあさんという言葉が、どの社会属性の相手に対しても、公式に丁寧さを伝えるに違いないという、この感覚のオメデタさがまず、好ましくないなぁ。
なにか大事なものを吟味せずにナアナアでやりすごしてきた、そんなごまかしを感じる。

「父母」と「お父さんお母さん」は、語源的にどっちが先に生まれた言葉なのかは知らない。言葉の正当性も分からないしそれは大した問題ではない。
ただ後者は内輪に閉じた思考から出てきた言葉だと思う。
閉じたというと言い方は厳しいが、言葉に「甘さ」が感じられる。鋭利な響きは、ない。


言葉狩りではないので別に甘くてもいいが、公衆の面前では自己と対象との関係(この場合、親子関係)をいったん留保して(抑制して)、距離感を保ちつつ話すということに、価値があんまり置かれていないんではないか。そこが気になる。

友達感覚で運営された親子関係から生み出された、あいまいな私感覚の、ダラーっとしたスライムみたいなのを、キリッとした社会的立場や、身の引き締まるような緊張感を前提とした公の場にまで、膨張させるべきではない。公の場の自分は、基本的には共有されるべき「みんなのもの」なのだ。タイムカードを押した後の自分が、会社に従属する身分にチェンジする(とみなされている)のと同じように。

そしてその「みんなのもの」とは、言い換えれば受け手、相手のものであるという意味であり、公的表現の使用とは、大げさに言えば話の判断主体を自分から受け手に受けわたすことの表明であり、主客の転節を受容することへの契機だ。

言葉を発することだけでいうと、「僕はアタシは、こんなことを世に言いたいんだ!」で済むが、対話となるとキャッチボールなのでそれだけでは済まないわけで。

自分のエゴを抑えて、階段のように順序だてて話をつなげていく、階段をバケツリレーしながらバケツを運ぶように。
それが対話という形式を踏まえた、自分側からの発語だと思う。
そしてそれはなんと言ってもまずは聞き手を意識することから始まる。相手の立場に自分を置き換える想像力だ。

その思考連鎖のことを論理というのだ。

この文章だって、まぁ駄文だが、僕なりに目に見えないあなたを想定しながら、「ああ書くと分かりやすいかな」「こういう順番で書くと論旨が掴みにくいだろうから、こういう風にパラグラフを変えよう」とか、それなりに考えてるつもりだ。

このように、文章でも何でも、表現や活動はぜんぶ相手を想像して行う。相手でなければ内なる自分を相手と仮定し、表現や活動を想定する。
日本語の男性の一人称は「僕」「私」「俺」「わい」「おいら」etc…と多彩だが、それは相手の存在と、その相手と話者との関係性・距離によって選択される。
女性の場合も少しはある「アタシ」「わたし」「ウチ」など。それと同じだ。

 

このあたりの自己と異者との線引きをおろそかにすると、例えば「知っておいてほしいナントカのこと」とか、「忘れないでほしい、ほにゃららのこと」などという、僕の意見では聞き手に妙に寄りかかった、居心地の悪い表現の温床になる。言葉だけではなく、こういう類のは、世にいっぱいあるだろう。そしてそれは多分さらなる痴呆化にエクスキューズを与え、招く。だから当然だけれども若い人ばかりの話ではないのだ。

この「お父さんお母さん問題(笑)」だって公私の線引き。血を分けてもらった肉親をも「異」として相対化・対象化し、「父母」という、言葉の響きだけだとそっけない(かもしれない)単ワードに還元し、障壁のようにコミュニケーションの空間にポンと置く。

このドライな客観性を担保するところ、つまり相手との壁を意図して立てるようなヨソヨソしさが、初対面の人もしくは不特定複数の人との会話をまずはとり行なっていくための知的な術だと思う。それには「甘さ」をそぎ落とした堅苦しい表現(父母)がふさわしい。そうした言葉を、聞き手とのあいだの俎上に、いったんニュートラルな形で載せることから、対話の手続きが始まる。

なんでもフランクに話せばいいってものじゃない。独りよがりの率直さは、聞こえの平易さとは逆に、対話上あまり解放的とは思えないのだ。

 

<了>