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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



日本語が乱れてるんじゃない。乱れてるのは人の方だ。

言葉には2種類ある。

 

自分(正しくは、内なる別の自分)に向かって発するひとりごとと、外に向かって発する外郭のある言葉だ。言葉の効能で言えば前者は内向、自省の契機であり、後者は対外的、公的な言葉である。

 

この2種類の言葉は、同じみかけをまとっている。効能、または使う方向が逆(「わたし→あなた」 or 「わたし→(内なる別の)わたし」)なだけだ。だからなのかここ最近は、この2種類の言葉の種別を区分せず、混合したり乱用することが多い。

 

いやなに、むずかしい話ではない。例を挙げよう。

 

たとえば「…っていうか」という言い回しがそうである。

 

会話の中に、この「…っていうか」という言葉がひんぱんに出てくるようになったのは、ここ30年くらいの事であったと思うが、この「…っていうか」は本来は、自分へのツッコミとして自分の中で処理するタイプの言葉であった。

 

ツッコミとは、要は反省の契機である。ぼくらは「…っていうか」を自らに切り出すことによって、大げさに言えば違う意見への検討、より適切なものへの指向性、異なるものの模索に対して、素直なへりくだり意識を確認する。

 

このように、もともと「っていうか」は、自分の中だけにしまっておくべき、内向的でつつましい表現であった。

 

しかし今の使われ方は違う。「というか」のほとんどが、相手の発言への対応として発せられている。何か言ったあと、相手から最初のリアクションが「…っていうか」ときて、頭ごなしの否定のように聞こえてカチンときた人は多いのではないか。

 

これでは言葉の効果はまるで逆になる。相手の発言にかぶせてもの申す場合、自分の言葉は、自分の責任において発言するのが、いさぎよく、また礼儀にもかなっていて当然の態度だからだ。

 

しかしここでキレてしまわないで立ちどまり、相手に向けた「というか」をとくと眺めると、この言葉は主語を固定していないのが分かる。ふわついてる天の声である。したがって言う方の責任を引き受けないでウヤムヤにできる。言いっぱなしのかくれみのにできる。相手に言葉を感想を一方的になすりつけておいて、なおかつ自らのケツを拭かない卑怯な話法をカンタンに構築できる、そんな魔法のような言葉である。

 

その他には「ついでに…」もそう。本来は自分の思考や行動範囲でのみ使うべきこの言葉を、そうせずに他者に対して発したとたん、相手をまるで見ていない、他者不在の不遜極まりない表現にスリ替わる。すると、エラそうに指図するニュアンスがそこに醸し出されるのだ。こういう言葉を安直に使うその心理から、権力は芽生えるのだと言ってもいい。

 

「っていうかどうせこっちに来るならついでにアレ持ってきてよ…」って、おのれは大名か。

 

メンドくさいもそうだ。内面に対してのみつかうべきこの言葉の、外部に放たれた時の暴力は大きい。ここ10年くらいは「お前、メンドくさいんだよッ!」的な言い回しも多いが、言われた方にしてみれば、全否定であって、これほど衝撃的な言葉はない。しかし言い放った方は大した了見もなく、存外涼しい顔である。これもドロんと発言主を消す「魔法」の話法である。

 

このように、(僕の考えにおける)本来は自分に向かうタイプの言葉をよぉく考えてみると、それらの特徴はまず基本的に主語を要求しないってこと。なぜなら発言主は自分ひとりに決まってるからだ。そして、より肝要なのは、それらの言葉は実ははじめから負荷や毒を含んでいるってことだ。それは自分を鍛えるために、言語野にあらかじめしつらえられた、ムキ身の、ヒリヒリするようなニュアンスである。自身の成長に欠かせないマイナス葛藤、ネガティヴ栄養は、こうした内向きの言葉の中にわずかながら含まれている。

 

上の例でいうと、「っていうか」は自分の意見への自分内反証、「ついでに」は能率への意欲、「めんどくさい」に関しては気分の表明であるが、自分への現状批判を少しだけ含んでいる…という感じである。

 

このように意識して、いづれの成句も独り言にとどめ、自分の内なる飛躍のためだけに使うべきである。少なくとも上に掲げた3つの用法は、今日からでも、自分の外に出さない、人に対して言いそうになってもグッと飲み込んでおきなさい。これだけでも人間関係が円満になること請け合いであり、また良薬は口に苦いものであります。

 

自分に向かって発する言葉と、外に向かって発する言葉。この2つは分けて使用すべきである。それには訓練がいる。公的なスピーチや、みんなの前で朝礼や発表をするのとはまた違う、それは微細なレベルでの分別であり、特に教科書にも載っていない。文法に正誤はあるが、用法にその厳格さはないのである。

 

しかし、だからこそこの分別訓練は大切だと思う。いままでそれと意識されてこなかったことにこそ、本質が潜んでるのが世の常だからである。同じ日本語でも肝心な使う際のベクトルが反対だってことを感取できる・意識できる・じっさいに使えるのが、本当の賢さであろう。

 

筆者は日本語研究家でも文法家でも何でもないが、言葉への取り組みはこうして効能面からとらえるのが正しいと信じている。日本語が乱れてる、とはよく言われるが、乱れてるのは言葉ではなく人心の方である。言葉は「乱れ」の様相を照らし出していくだけだ。

 

いま、職場などで人間関係に悩む人が多い。それも取るに足らない言葉のやりとりから関係がこじれることが、その原因の大多数を占める。うつ病や自殺、キレた挙句の衝動的な犯罪も多くなっている。被害者意識の肥大と自意識の過剰が多くなりすぎて氾濫し、社会のいろんなところで動脈硬化を発症させているかのようだ。自分に向かって発する言葉と、外に向かって発する言葉の混同・乱用は、その弊害の一番底の部分に渦巻いている。そう思えてならない。

 

2種類の言葉の一覧表でもつくろうかな。用法も添えて。お国のためになりそうだ笑

 

<了>

 

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