ワールドカップの日本対ポーランド戦を見た。
後半15分の試合放棄で日本は見事にヨゴレ役となった。かつてないほどに。
安全パイを選んだのではなかったと聞く。あれはあれで賭けであったと。賭けの度合の少ない方を選んだ戦術だった。結果、試合に負けて、中身でも負けて、しかしチームは前進した。
すべてのスポーツがそうだけれど、サッカーはとりわけプレーヤーにムリを強いる競技だ。ハンドを禁じ、オフサイドを厳格に取り締まる。人の運動能力に関する禁忌と抑制がルールの根底にある。GKなど、ハナからムリなポジションだろう。だから、サッカーは何が起こるか分からないといわれるし、そこに麻薬性がある。
さらに競技の大枠・根底であるトーナメントという恣意的な制度が、運という名の理不尽さを最初から含んでる。1次リーグの場合対戦相手が抽選で決まるのもそうだし、試合が進めば他チームの勝敗状況が自分たちのそれに大きく影響するのもそう。W杯ともなればそこにナショナリズムが絡むからさらにややこしい。
したがって大事な試合が複数のスタジアムで同時に開催されている場合、その勝敗情報が逐一伝えられ、それが戦術に影響するのも当然。自力で戦うにはあまりに運やムリが多すぎる中にあっては、信じられるのはむしろ大いなる他力や現況である。こうした周囲の状況によって90分の中身が総合的・複合的に変わる。
また今回のワールドカップではカメラ技術の進歩で、微妙な判定にはことごとくビデオが参照されるようになったのがまた、「運」を大きく左右する。
サッカーはもともと曖昧さが身上で、ギターのように「割り切れなさ」に人間臭い魅力があるスポーツなのだが、判定技術はそこをデジタルに、ドライに、上位者的に、切り分けてゆく。そしてその部分の技術革新は、選手を審判を、要するに人を、置き去りにして発展してゆく。誰のための進歩なのかも問われぬままに。
目の前の相手ゴールを揺らすだけで喜べる段階は牧歌であり部分最適にすぎない。がむしゃらさや粘り強さが正義の親善試合とはわけが違う。サッカーのムリの中身は、時代と舞台とテクノロジーによって変容していく。また試合の最中にも刻一刻と変化していく、変化していかざるを得ない。
こうした大枠全貌の中にあっては、紳士的なフェアプレーも正々堂々のスポーツマンシップも、わざと大げさに倒れるファウルも相手のミスを誘うトラップも、すべて同じ泥の中の濃淡の差にすぎない。身体的制約の中で相手の裏をかく、それがサッカーの本質であり全てだからだ。フェアプレーポイントっていうのは、その「裏をかく度合」に量的な指標を与えて少ない方から評価し、かろうじて正気さを保とうとする、せめてものおためごかしだ。
今回日本は茶番のプレーを見せたと批判を浴びているが、国別対抗のサッカー勝ち抜き合戦というW杯の閉鎖的設定自体が、人種も国籍も情報もクロスオーバーしまくってる現代の中では幾重にも重層的な茶番なのだから、もうワールドカップなんて卒業しない?国別の代理戦争という性格を完全に払拭した、次世代の明るい世界大会というものを組み立てるというミッションに、FIFAはすでに取り組んでしかるべきなんじゃない?(もうやってるかもしれんけど)。W杯を円滑に運営するなんて手段レベルは、もうビデオやAIに任せてさ。
なんというか、蹴球の野蛮さと素朴さに目覚めないと、今回の西野ジャパンのモヤモヤさはずっと晴れないと思う。世界的にも。
<了>