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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



英語は対話者に向いてるようで向いてない。いっぽう日本語は対話の当事者同士を越え、普遍を目指す言葉だ。

Didn't you go to that place yesterday?

A)No,Ididn't.

B)Yes,I didn't.

 

当然答えはAである。しかし日本語訳だとBである。

 

この正反対の隔たりは、英語と日本語の隔たりそのものだ。

 

Noを遣うときの英語話者は、あくまでも否定や無を指示するのみである。それは問いかけに対して限定された否定であって、広がりもなく一方的に終わる。「ないものはナイ」と、対話を話者の中にのみ封じ込め、冷たく閉じる。

 

対して日本語は、いったん対話者に沿い疑問文脈に則って肯定し、そのあと事実に即して否定する。こうした二段階承認の中に、次の会話転移への期待・猶予がある。含みがあってぬくもりがある。

 

つまり、「No」と「いいえ」は違う。正確に言うと、文脈の中で機能する機序が違う。あくまで「ないものはない」で終わるだけの英語世界観と、「ないとされてる中にも、もしかしてあるかもしれないじゃん。少なくとも、あなた(対話者)は目の前に居てくれるじゃん」と、会話対象を大きく切り取り余白を持たせる日本語。同じ否定し終わった後に提示される地平は、英語よりも日本語表現の方がはるかに豊潤だ。余白は全部ムダなものでしかないと切り詰める英語のテキスト文化と、余白もコンテンツの一部として、ブログの一行空け改行などに大きな意味を見出す日本語。

 

俳句を英訳すると、途端に味気なくなるのは、こうした違いによる。

 

<了>