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「ムリ」という言葉にひそむ甘えについて~「ムリ」はおまえの拒否責任をなくすために開発された用語ではない~

「ムリ」という言葉が、相手との会話の中でよく遣われるようになって久しい。

 

例1)俺と付き合ってくれない?

はぁ?無理なんですけど

例2)これ夕方までにやっといてくんない?

ムリだから。ぜってームリ


ムリ…まったく気に入らない拒否表現だ。この言葉を投げつけられた方は結構しんどいぜ。拒否されたからしんどいってのも少しあるけど、「ムリ」って用語はこれから書くように卑怯な言葉遣いだから、その分こちらの消耗度も倍増する。


人によっては「無理無理無理」と連発し、そういうのに限ってヒステリックにわめきたててまことに見苦しい。

 

「ムリ!」とこれみよがしに叫ぶヤツは例外なくあさましい。自分の都合だけで相手が見えていないからだ。それでいて、いやだからこそのネガティヴ・アピール。わがままな他者不在、その粗暴な押し付けである。

 

自分でできない、あるいは積極的にはしたくない行為があるとしたら、それは正直に「できない」「したくない」と、己の責任に紐づけて粛々と正確に表現すべきである。

 

こうしたシンプルな言葉には、自分の責任において不可能への免罪符をしょい込む主体性がある。ダメならダメで、そのダメさをきちんと位置づけて、責を引き受ける度量がある。言葉と自己の焦点が、同時的にピタリ一致している。

 

ところが、昨今の「ムリ」に内包される意味は正反対である。

 

この「ムリ」は、できない/しない根本理由を、ありもしない自分以外の要因に放り投げて知らんぷりするような大人げない表現である。それは無責任、甘え、卑怯さの発露でしかない。


すなわちイマドキの「ムリ」は幼児語である。未熟な気分をひたすら社会に相手に押し付けて、垂れ流しつづける公害ワードだ。

 

本来的ムリとは、別のところにある人物や事象が、不可抗力的にお前に強いている、その状況下においてのみ遣う。だからムリは、本来受け身で純粋で客観的な言葉だし、超克や飛躍の踏み台にもなりうる(例:自分に無理を加えていって成長する等)

 

ところが外部からの課題に「ムリ!」と、鬼の首でも取ったかのように騒ぐヤツは、その透明なムリという言葉を主情的に勝手に拝借してきて省みもしない手合いだ。ムリの価値観の尻馬に乗って、功利的に「ムリムリ!」と乱用しているだけだ。まったく勘違いも甚だしい。

 

「ムリ」は、お前の拒否責任を無化するために開発された単語ではない。ただ不能状態を描写するだけの、控えめで謙虚な言葉だ。たいていのことはやりゃ出来んだよ愚か者どもが、何が「ムリ」じゃ。やらない言い訳くらいは自分で編み出して引き受けてみろ。ムリと叫ぶことによって簡単に壁を作って許してもらおうとすんな。お前がそれをしないだけであって、その「やらないこと」には、本来の無理が意味する公理性も客観性も含まれていない。かってに外部に委託するな。

 

前も書いたが、言葉には自分の内面に対して折りたたむように使用するものと、公的に外的に表現するためのことばと、2種類あるんだ。ムリは前者である。

 

お前がそれをやるにせよやらないにせよ、おのれの自発性を封印するための「ムリ」をカンタンに言い放ってしまっては、その安易さは他ならぬお前の目を、かならず曇らせる。

 

お前自身がお前の正義に関し盲目となり貧しくなる。つまりそれはお前が自身を貫けなくなることだ。

 

自分の行為に関してはムリって言葉を追放せよ。それは外部への甘えだ。周りで当たり前に使われる表現だからって簡単に採用するな。言葉のひずんだ運用は、使う人に復讐をする。


言葉は誰に対しての表現なのか、その方向性をわきまえて正確に遣いなさい。でないと自分にムリがくる。

 

もっともそれでもなおムリが自覚できない自分なら、閉じすぎてて救いようがないが。

 

<了>