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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



まだ日本語で消耗させられてるの?(←その「消耗」に意味があるって話)

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*きょうの昼にはピザトーストを食べよう(本文とは関係ないです)

 


<日本語の人称代名詞の怪>

日本では男性が自分を規定するとき、「僕」「おれ」「わし」「わたし」「わい」というような単語群の中から、時と状況に応じて最適な一人称を選択しなければならない、ということになっている。
それを決定するのは対話者との関係性や対人距離等であるが、会話の時間の経過と共に、常にそれに修正が加えられる。


すなわち、会話のスタートは「ぼく」でも、終わりには「オレ」、というのはまぁまぁあること。
帰着点はたいてい「おれ」「わし」等の、インフォーマルながらもっとも親近感が出た人称で会話は終わる。


この手続きがわずらわしいからなのか、自分を指して「自分」ということにキメてしまっている人も中にはいるが、これだと一人称の定義や手続きをサボり、責任を問われない安泰な場所に逃避しているという、ヤな感じが漂っちゃうんである。だからまた話はややこしくなる。
どの一人称を選択するかの問題は、まぁ男性がほぼメインだが女性にだって少しはある(「わたし」「あたし」「わたくし」「うち」等)


こんなやっかいな言語は(たぶん)日本語だけである。


かくいう僕なども、ずいぶんこの遣い分けに苦労させられてきている。性格としてはガサツな方だし、年も喰ってきたので、その意味からは「オレ」がしっくりくるが、外見は背が低く、痩せてもいる(が腹は出てる笑)し、家事も好きな方なので、その点からするとソフトな響きの「ぼく」の方が合ってるような気もしてて、ずーっと何かスッキリしない。


また例えば、初対面の人と旧知の人との混じった会合の際などで自分のことを「わたし」などと言ってると、その旧知の人から「ナニ気取ってやがる」というビームを感じることもあって、やりにくいことこの上ない。


さらに最近ではSNS等でも、仕事上と個人の付き合いがシームレスに繋がっており、そこでも「一人称にどう対処するのか問題」があって、これもなかなか窮屈だし気も遣うのだ。オープンなコメントするときとかね。
(SNSとのかかわりの話はまたテーマが大きいのでいつかの機会にまた)

 

こうなると、IとYouしかない英語、グローバル主義者がおめでたくも説く英語公用論を、うっかり肯定しそうになるんであります(←これ大反対なんです。理由は最後に)


で、現在一般的にもっとも無難な男性自称は「僕」だと思われる。これは幕末に長州藩あたりで限定的に遣われて来たことばが、明治以降全国に普及したものらしい。
ただこの「僕」も、フォーマルな意味というよりは未熟さの積極的表明みたいなニュアンスが感じられてイマイチ。
ある程度の年齢の男性が、公の場で「私」でなく「僕」と遣っているのを耳にすると、ちょっと違和感があるね。言葉の響きとしてもやや斜っぱな感じで、遣っててもどうもこそばゆい。


幕末といえば「拙者」という一人称が無色透明で、万能さにかけては最もふさわしいかもしれないけどやっぱり変。石川五右衛門とかじゃないんだから笑


ああそれと日本語だと二人称も遣いにくいよねー。相手に面と向かって「あなた」なんてハッキリ言うことってどのくらいありますか?ほとんどないでしょう?女性が自分の夫に対してだって、昨今じゃ「あなた」なんて呼びかけ、ほとんど言わないよね。「おまえ(御前)」や「貴様」のように、尊敬語から侮蔑語に180度意味の変わった人称代名詞もあるし。


この呼びかけ語にもバリエーションがあって、幼児に「ぼくちゃん」、長男に「お兄ちゃん」、自分のことを「パパ」「ママ」など、話者自身と相手が入れ替わるような位相転移もあって、子供相手に限定される遣われ方だが、これまたよく考えると不思議な現象だ。


こうして日本語の呼称におけるワンダーランドは続くのでした…


さてここまで書いてきたように、日本語における男性の自称代名詞のみならず、自分と相手の定位表現の多彩さに、ぼくは長い間どうも違和を感じてきた。今もこの文を打ちながらだって、「ぼく」という言葉にはしっくりこないものを感じている。どうあがいても最後のピースがはまらない、そんなジグソーパズルのようだ。


なぜ、こんなにしっくりいかないものを遣い続けなければならないのだろう。


それをずっと考えていたが、今のところぼくの中での結論は多少遣いにくくても「これ(日本語)でいいのだ」「これ(日本語)がいいのだ」である。話者に人称選択を迫るというストレスが、自分の現在位置の確認に寄与するということなんですが、どうですさっぱり分からないでしょう?笑


<英語はキャラ変換装置>

ではぼくが考える日本語の人称代名詞の良さを、以下に説明します。

まず、話をわかりやすくするために、日本語に比較するものとして英語を考えてみますわな。

さっきも書いたように英語には人称代名詞にまつわる齟齬は感じない。
誰が話しても「I」は「I」だし、「YOU」は「YOU」以外にない。水平だし、すっきりしてる。
相手が大統領でもそこらへんのおっさんでも、大人なら老若男女、この原則は変わらない(ミスタープレジデントとかサーとかマダムという言葉はマナーのようなものなので、ここでは除く)


しかしぼくが(下手だが)英語を話すとき、ぼくは別人格、別キャラを演じている気分になるときがあるのである。
そのときに英語の利点以上にぼくが感じるのは、英語を話すことは、自身をどこかに仮託して、いわばひとごとのように別人格に遊離することである、ということだ。自己と言語との「幽体離脱」である。


だから英語なら強めのことがストレートに、ためらいなく言える。たとえ日本語では婉曲さを周到に用いるような場面であっても。
例えば対談や議論で相手の言葉に対して(日本語で)「違うな」と言うと角が立つときも、英語なら「You have no idea.」「You thought wrong.」「I don't think so.because~」などとズバリやれて、しかも言われた相手もなぜか痛痒を感じていない。
相手も英語を遣っていて別人に遊離してるからである。
日本語の場合はそうはいかない。日本語では、話者と言葉は一心同体である。


ここらへん、バイリンガルの人は自分の中でどう決着をつけてるのか、スイッチを切り替えてるのかと思う。それはぼくのような後天的英語学習者とは異なるはずだ。ぜひ聞いてみたい。


宇多田ヒカルはその昔「英語だとおちゃらけられない」と言ったそうだが、確かにひとときものんべんだらりんとした弛緩を許されてない、人が言語野から単独で監視下・配属下に置かれてるのが英語話者の宿命という気がする。その点では自分も他人も同じ・平等であるのだが、しかし監視の「あやつり糸」は隣のそれとは交差しない。そのため人間相互の魂レベルのつながりは希薄である。すなわち英語を話すとは、自己と他者を激しく峻別する、厳しい世界に身を投じること、なのではないだろうか。これは西洋の宗教にも似てる構造である。神と信者が孤独に垂直統合されてるだけで、信者同士の結束はほとんどないという、この構図に。

 


英語の具体例だとたとえば「眠い」。英語だと「I want to sleep」なのか「I feel sleepy」なのか、いづれにせよ「眠い」にあるユルさ、気分感がどうも出ない(後者の表現ならfeelがあるのでまだマシだが)
ほかにも「寒い」「あったかい」といった体感表現は特にそうで、英語だとどうしても主語が出てきて(=ジャマして)、説明的になる。日本語のように自分を希釈して環境に溶け込ませて、自己を含めたまるごと世界観を表明することができない。
アルファベット語は英語に限らず、スペイン語もフランス語もロシア語(これはキリル文字だが)もみんなそう。

 


余談だがアニメファンが海外にも多く居るのは、どうもその辺の西洋語ニュアンス欠落事情に原因があるんじゃないかといぶかったりする。つまり「キャラクターの世界観まるごと」呑み込むのが彼らからすると新鮮なのかも、とも思うのである。



<ぼくもあなたも、ニンゲンという種の出先機関>


さてここで日本語の人称代名詞の不可解さ、複雑さに話を戻す。


ぼくらは話すたびに自分をどう呼称するのかで心の奥にほんの少しだがひっかかりを日々感じている。
その「引っかかり」は、自分の中に元々ある、他者領域の亀裂である。自我の中には自分だけでなく常に内なる他者が同居してる。日本語で話すたびにその内なる他者への亀裂を意識させられることが、つねに自分の位置を問うていることになるのだ。
こう考えていくと、日本語のこの不可解さ複雑さは、日本語からのあなたへの問いかけなのではないだろうか。日本語とは、話者への問いの体系を抱えているのではないか。

 

そこで問われているのはあなたと、以下に述べる意味での「他者」とのかかわりである。


さっきも述べたようにぼくは日本語というのは大きな、包括概念がその根元にあると思っている。
人は、外見上はひとりひとり物理的に途切れていて、個人であり、孤独人である。
しかし本当の存在としてはバラバラで別個ではない。視覚では捉えられないが、テレパシーのようにみんなの魂はつながっていて、みずみずしくひろがっているのである。
その中で「他者」は、実は自分の中にだけ存在してるヨソ者である。心の壁、エヴァでいうATフィールドこそが、自分と他者を分かつ限界であって、その壁がほとんどない関係性が、本当の「世界」である。
昨今グローバル化などという言葉で簡単に示されるものは、この「本当の世界」にくらべれば屁のようなものである。そして日本語は何にも主張せず静かにしかし常に、そのレベルで「世界」を指向している。


ぼくたちひとりひとりは、この「本当の世界」の中の住人である。ニンゲンという種の本質を、DNAよりもっと微細、かつ初源のレベルで抱えながらも有限の肉体を持つ。そんないわば本物の世界の「出先機関」なのである。
この、目に見えないが人と人がつながってる本当の奥底の本質部分を、世界へのかかわりを問いかけ、切り開き、そしてその先に的確に、豊かに表現できるのが日本語であり、いっぽう出先機関の先にある可視化できる実務面で重宝するのが、英語その他である。


出先機関の言語は機能優先型であり、仕事には向く。いわゆる客観表現もしやすいし、ドライで、文法構造も単純で取り回しが利く。つまりこれはプログラミング言語である。


そう、英語はそのレベルなのである。それはそれでいいけれど日本における英語公用論なるものはさっき書いたように肯定するわけにはいかない。ことばの構成を手段と目的にたとえると、英語は手段要素が8で目的要素が2くらいの言語であり、日本語はそれとは逆に手段成分が2で目的成分が8といった感じである。そして人生においては対象が何であっても、手段なんかより目的の方がはるかに上位概念なのである。英語公用論を否定するのは、僕なりにこうした理由があってのことだ。


日本語は不思議だ。主語を必要としないわりには、対話上は「ぼく」「おれ」など、自身を規定する単語が複雑であり、話者と相手が入れ替わるような位相転移も多くある。そんな日本語は、意識の中に亀裂を生じさせる、そんなやさしいワナなのである。遣いづらいし不思議なのだが逆にそれがいいのである。

 

ここにぼくは、日本語が有するすさまじい知性を読み取るわけです。


そんなわけで「これ(日本語)でいいのだ」「これ(日本語)がいいのだ」


<了>