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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



納税する前に知っておくべき軽減税率のこと。

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サンドウィッチを食べよう。

 

<税金なんて公平にできるわけない>

 

軽減税率が話題だ。


2017年4月より消費税率が8→10%に上がるのを受けて、食料品など生活必需品にかかる消費税の割合を8%のまま据え置いて、そのほかのは10%にするという、例のお騒がせなヤツだ。


ほんで何を10%にして、何を8%のままにしておくのかという、じつにアホくさい部分で紛糾しているのはみなさんご存知の通り。例えば鮮魚1尾なら8%のままだが、さばいて刺身パックの状態に(加工して)売ると税は10%に上がる(案)など、線引きが不透明、かつエラい複雑。
現在は素案段階だが、オペレーションの課題も山積しており、メッチャ問題化。麻生太郎まで「財務省はやりたくないっていってる」なんて言って、フランクな振りしやがってその実テメーの立場を棚に上げたヒトゴト発言等のおかげで、カオス状態にますます拍車がかかっている今日このごろ。


さらに消費税のありかた、またさらにそもそも課税というシステムの根幹問題にまで議論は膨れ上がり(当然だが)、(不)公平性、累進性と逆進性などの、「課税そもそも話」にまで論議は及び、例によっていったい何が問題なのか、論点すら埋没してしまうような事態に陥っている。


租税とは何なのか、消費や消費者の実体は何なのか、価格というものの恣意性、人が生活することへの真摯な考察、俗に言う「衣食住」領域に貨幣制度を当てはめるというムリヤリさかげんへの懐疑…こうした本質への考察をなおざりにしたまま、何はOKで何はNGみたいな線引き部分や、税徴収のオペレーションみたいな末節部分への没頭…

 

これでは順番がまるっきりあべこべであって、こういうのを称して茶番という。茶番というのは、ああだこうだやってるそのこっけいな姿のみを指すのではない。
目的が手段の議論のかなたにかすんでいるという、俯瞰したときの構図が不毛そのものだから茶番なのである。しかもこの茶番が、当の税金を使って繰り広げられているというパラドックス付きだ。どんな喜劇もかなわないほど、笑える構造ではないか。


大人社会でいうところの俯瞰した制度とは政治のことだが、そもそも政治とはなにか。民主主義を一応のベースに考えれば、それはこの国を含めた、世界全体を、どういう方向、国是コンセプトで、例えば10年先50年先100年先に導いて形にしていくのか、その部分のそのレベルの規定、推進、効果測定、修正。これが政治の一番根っこの仕事である。


そしてその国是を決めるため、2年も3年も喧々諤々の真剣な議論を経た上で制定し、いったん決めたなら、そのコンセプトの実現に向かってたゆまなく、迷い無く、官僚も国会も地方行政も、全組織が一枚岩となって、本気でまい進していくこと。その旗振りが国会であり政党であり、議員の仕事である。


そして逐時成果測定し、公平に評価し透明に広報し、国民とそれらを共有し、場合によっては部分修正なども行うことを主導する。途中で総理大臣が変わっても、内閣や官僚組成に人事変更があっても、そうしたキャラクターやプレーヤーの変更に左右されない、CPDのシステムが強力にかつしなやかに推進される。


それが政治主導というものの本丸であろう。


国内外問わず、絶えず起こる問題については、対処療法的に都度対応を迫られる問題も多々ある。


それはそれで応対していく、もしくは応対せざるをえないわけだが、あえていうとそうした「枝葉末節」にとらわれず、いつも大元の幹(=国是コンセプト)は、王道として不断に推進していかねばならない。


また逆に言うと元の幹がしっかりしたものでなければ、その枝葉末節への対応すらも、おぼつかないものに終始してしまうことは疑いがない。TPP、隣国対応、新技術への取り組み、原発問題、復興支援、テロ対策…ぜんぶに関わってるのは同じプリンシプルである。

 

こうして述べてきたことが市民主義や集団制の本来の順番ではないのか。この順番をしっかりやっていくことしか、もう日本には、いや世界には、いや人類には残されていない。


「そんなこといったって現実には…」とか「やろうと思っても現体制ではなかなか…」という逡巡や諦念が、戦後の、今の日本の、思考停止社会、人任せ社会、刹那社会、空洞社会というていたらくを招いた。
本質的なことは見えにくいし、効果もすぐには出ないし、出たとしてもいまいち分らないし、後回しにされてきて、誰も手をつけない。だが、何事もはじめなければ、はじまらないままだ。


例えばぼくが国是を決めるならそれは「個人が個人のままで十分に拡張しきって生きることを、いっさい阻害しない社会」だ。
その実現のためには、まず衣食住の生活基盤の分野から貨幣の影響を一掃せねばならないと考える。
なぜならおかねこそが、人を何かワケの分からないモノに隷属化させる、もっとも強力な制度だからである。


(もうひとつ、宗教という制度もあるが、こちらは日本の場合影響力は比較的少ないので、まだ傷は浅いといえる)


この貨幣制、近代歴史上でいうとかつてカンボジアのポル・ポトが通貨の廃止を試みて失敗してから、まだ40年くらいしか経ってない。

(ポル・ポトは原始共産主義への思想統一とそれに伴う大々虐殺、都市から地方農村への強制人口移動などのムチャぶりと同時進行で、貨幣制度廃止をもくろみ、失敗したというが、なんとまぁつい昨日まで、同じアジア圏内でとんでもない地獄絵図があったものだ。
しかし翻れば今のわれわれも、ただ緩慢な事態なだけで本質的には同じ、何かに幽閉された身、あるいは何らかの強制執行の悪影響下にさらされた、あわれな存在であることには、変わりがないのである)

 

共産制…ポルポト派は退陣し、マルクスはとっくに過去の人であり、ソ連は崩壊して久しいではないかという声が聞こえてきそうだ。
また、人民を抑圧する時代に逆行する可能性だってあるじゃないかとも批判されそうだ。


しかし共産主義や社会主義といった旧来のイデオロギー(の言説)に惑わされて、言葉主導の頭でっかちになってはいけない。
むしろ先に挙げた「個人が個人のままで十分に拡張しきって生きることを、いっさい阻害しない社会」で、刷新した人民主義を人類の未来に対し打ち出していく、そんな新鮮な方法論がほしい。そのために日本が礎となり、起点となるのだ。逆説になるがこれにまさる根本的な景気対策はない。ただし歴史に学び、自身があたらしい抑圧の起点にならぬよう十分配慮しながら、という条件が付くけれども。


このスローガンの実現および、それに沿った教育、医療、福祉、官僚組成、国会運営etcを整備してゆくことがまつりごとの本道である。


したがって「社会保障と税の一体改革」議論や、「一億総活躍」などような、いっけん包括的で全体を見張らしているかのような立場でなされた会議ですら、この大枠の前では各論にすぎないのである。


軽減税率のような小さな小さーな問題などお話にならないという概念が、あたりまえのコンセンサスになってくれよ。

 

役人さんたちよ、頼むぜ。

 

<了>