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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



虫はなんでも知っている。

私とはなんなのか

 

これをひとりで想ってるうちは「私」は出てこない。

 

自分がひとかわ剥けた、とか、成長できた前進した、という実感をもてたときは、脱皮したあとである。そのとき自分は「旧の自分からハミ出た、自分でないもの」になりかかってる。だから振り向けば過去。脱ぎ捨てた殻。

 

(いまはそうした脱皮が内発的自動的なものでなく、学生の身分推移や就職、出世などの、「社会的」すなわち外的志向での属性変化に100%依存しているから、人生はむなしい一方なのだ。)

 

自分が飛躍するとき、参照元になるのは他者だ、つまりあなただ。

 

自分以外の人に触発されて、自分は別の自分に発展する可能性を持つ。相手の表情を見る、肌がふれる、そんな何気ない瞬間にも、その可能性はひそんでいる。その可能性をつかんだとき、人はどうなるか。

 

鳥肌が立ったり、ピンときたり、ぞくぞくっとなるのである。福本伸行の描くところの「ざわ…」ってのの、本当の意味がコレだ。

 

また、こういう作用を引き出すのに必要な「あなた」は、具体的な存在でなくてもいい(このあたりが人間にしか備わってない感取能力だ)

 

つまりあなたの言葉が、あなたの書いたものが時空を超えて私を立たせるときがある。畢竟これが本来のメディアの機能である。これに比較したらいま世の中の100%を占めるいわゆるマスメディアなど、ひまつぶしに伍たるものだ。

 

そして「あなた」はわたしの中にもある。いわゆる内なる自分だ。

 

昆虫の変態ってあるでしょう。幼虫からサナギになって成虫するというアレ。その全行程で虫の形体がまるで違うこの驚異こそが、内なる自分が、あなたが、自分の中に埋まってるイメージだ。虫の変態は、サナギの状態なんかが特にそうだが、外殻は平静さを保っていながら中身はドロドロに溶解しててカオスのようになってる。しかしそれでいて、次の組成を秩序立てる「何か」が、とんでもなく超越的なアルゴリズムで内部進行している。というより次の段階の生命体に進むため、捕食されようが何しようが、じっと耐えながらじっくり時間をかけて一回「壊れている」。

 

これ、ぼくもあなたも同じなんだ。

 

人は内面に無数の自分、あるいは無数の他人を抱えている。これは突拍子もない意見に聞こえるだろう。だがぼくはそう確信している。かの偉大なるトーマス・マンも「魔の山」でそう書いてるし、何より人を含む生命は、海から、羊水から誕生したからだ。海には時間的にも空間的にも仕切りはない。ぜんぶつながっている。陸地でさえぎられてるように見えても、雲を発生させ、雨を降らして海は越境する。海とは、生みであり、膿みであり、倦みでもある。血液も羊水も、海水と同じ成分。つまり生物の内包する体液は、すべて海のもつ、非境界と越境性のシンボルだ。

 

だから要するに、あなたの個人性は、あなただけのものじゃない。虫のハナシをまたするならそれはアリと同じだ。アリは一匹一匹が個体であり、同時に個体が全体である。個体の集合で全体が織り成され、成立してる、そんな種の具現である。そしてそのことを一匹一匹が謙虚に受け止め、向き合い、そして充分に「無」意識している。

 

したがって個々の蟻に自己主張はカケラもない。2割の働きアリは、残り8割の働かないアリを非難しない。ねたむことに時間を費やさない。働きアリは、やるべきことをやるだけだ。残りの8割が意味する、「働かないことの役目」を知悉している。だから8割の働かない組にとっても、逆の意味での焦りはない。

 

繰り返しになるがこのように、あなたの個性はあなたに属するものじゃない。みんな知り合いであり親戚であり、どこかで必ず会ったことがある、あるいはこれから会うことになってるたぐいの。死は、また逢えたねの養分だ。

 

わたしも、大いなるあなたの一部である。一言も言葉を交わさなくても、あなたはわたしを踏みつけにして、その上でこそ真性のあなたは、本格的に大いに花開くのである。

 

人の誕生。受精に至るたったひとつの精子は、残りの1億ほどのライバル精子に勝利するのでない。その意味するところはまったく逆だ。現象がたとえ競争に見えても、それはひとかたまりの全体意志として、精子総体で受胎をうながしせしめたためであり、その結果があなたでありわたしの、偉大なる生誕である。最後の精子など、たまたまその役を仰せつかったにすぎない。その過程は「さっきまでのあなた」「過去の自分」を振り払う行為と、寸分違わない。

 

それが人の行うべき、感取すべき唯一のことであって、世間に蔓延する「やりたいこと」や「熱中できるもの」もしくは「ほんとうの自分」や、甚だしくは「世の中をより良くしたい」など、外部へのないものねだりのヒマつぶし考えである。ちゃちい。

 

身の程をわきまえるような謙虚さは以前より、儒学的礼節や日本人的価値観(和を尊ぶとか滅私奉公とか)の面から推奨されている。それは「自分の人生は自分のものなんかじゃない」ってことを戒めるのに、大変効き目のある態度だからである。

 

いつまで小さなわたしにとどまっているおつもりか。サナギならさなぎらしく、変態を待て。

 

<了>