ひまつぶしの意味変化
70年代の若者を振り返ると、室内遊びの光景は牧歌的であった。仲間うちであつまって何かして遊ぶとなると、当時のメインゲームは「トランプ」だった。
覚えておいでか?トランプゲーム。地味である。
「トランプ」、これは大統領候補の名ではない。神経衰弱やババぬき、大貧民といったカードゲームの方のトランプである。70年代当時も、もちろんほかにゲームがあったが(マージャンや花札、大掛かりなものはビリヤードなど)、なんと言っても娯楽の王道はトランプだった。大した道具もお金も要らず、場所も選ばず電源も不要。誰かが一組用意すればそれでみんながワイワイ参加でき、勝ち負けは偶然に依存するのでストレスは強くなく、プチ充実的に健康的に老若男女みんなが興じることができ、遊ぶたたずまいはつつましく、微笑ましい。それがトランプの大きな特徴であった(ポーカーのようなギャンブル要素の強い遊び方は除く)
トランプゲームのルールをひとわたり知ってることは、当時の若者の基礎知識、一般常識であった。また知らない人に対しては、ゲームに参加させながらルールを説明することが、人に物事を教える過程の相互教育にもなっていた。時には教育者がおらず、ゲーム進行の観察等から自らルールを学ぶ必然に迫られることもあったが、それはそれでいい素養になったものだ。
また、遊び方も伝統的な手法に固定化するだけでなく、新手の遊び方も開発され、そうしたものは時間をかけて全国に浸透していった。みんなを受け容れる開放性と、新手の遊び方も採り入れる進取の精神との、過密すぎない、人間らしいリズムとバランスが、トランプ界(そんなものがあるか!笑)にはあった。
…しかしいまは2016年。隔世の感じがする。現代はそんなかっタルいトランプ・ゲームなど誰も見向きもしない。大富豪など、ゲーム名称で通じる方がマレである。
1969年生まれの当方は、そりゃトランプは少しはやったが、特に没頭もしなかった程度であり、トランプで遊んだ最後の世代であっただろう。中学生のころには、遊びとは、もうテレビゲーム、ゼビウスなどのアーケードゲームにお金を投じることにスリ替わっていた。いまならそう、課金のあるソシャゲなど。とりわけ「ポケGO」である。
近代日本の娯楽は、このように、ほぼ無銭から有貨への変遷であり、お金の巻き上げられ方(?)も巧妙に、多額に、重層的になる一方である。これが「経済」とやらの要請結果であるが、そんなひまつぶし経済など、当方まっぴらゴメンである。
いまの光景、つまり仲間で集まりながらもゾロゾロとほっつき歩き個々にスマホの画面に釘付けになり、せっかく外にいるのに見ざる聞かざる状態で、それでいて「なつかしのキャラ」と会えるとかぬかして目の前のあなたには目もくれず(自分以外のものとそんなにかんたんに「出会える」ものか!)、ただヘラヘラしてるだけの空疎な笑顔でテメエの端末世界に強制没頭するポケモンGOの流行を見るにつけ、一方でトランプの持つ平易性、ノンビリまったり感、かけひき性、コミュニケーション性、ライブ感などなどといったアナログ的価値観にオジサンは想いを馳せ、黙ってうつむくのである。
みんながポケモンGOに飽きたとき、新手のアプリに疲れたとき、そのときこそ、トランプゲームの復権はあるかもしれないと感じる。70年代もいまも、人は変わりがないし、手段を踏んだタルさの先にある「共に体験する」価値観は、野外フェスやキャンプに参加するのと同質のものだからだ。
<了>