お金に困ったら読むブログ

みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



小学校でお金の教育をしようじゃないか

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「暗黙の了解」といえば、なんかこう閉鎖的、日本の因循固陋な、悪しき習性の代表格って感じだが、これはこれで知的な動態ってところがある。富山市議員の詐欺体質、改ざん容認体質が話題だが、一般サラリーマンだって会社で出る宿泊費上限内の宿泊費の改ざん、会社の備品を量販店で購入しそのポイント貯蓄、その補填の私物化など、同様の「不正」は広く行われている。

 

だから、経費専用クレジットカードなどを法人として所有し、経費支払いはその1枚で完結させるなど、制度面での整理が必要だろうし、じっさいそれは普及してるのではないか。カネに関してだけは、性悪説に立った用水路造りが必要なんだろうと思う。

 

さて現代の初等学校教育が抱える弊害はいろいろあるが、そのひとつにお金の教育をどう扱ってるのか?ってのがある。

 

いまは、そんなもの見て見ぬフリして理科だ算数だと教育は勝手に始まり続き、また金のハナシを抜きにして一足飛びに、次は働くことや初歩経済の授業に移っていくわけだが、教育制度はどの段階でも、金銭の本質を子供らにきっちり植え付けることをしない。そりゃお金の知識くらいは教えるが、たとえば貨幣のエグいダークサイドには触れない。ダークサイドとは具体的に言えば雇用者の給料のからくり、金利や高利貸しやクレジットカードという吸血鬼、物品に値段が付いてることのイヤラシさとごまかし、根抵当権というザル的目くらまし制度、借金の際の保証人と「連帯」保証人とでは、いざトンだ時の立場は雲泥の差であること、夜逃げの悲惨さ、等々にはほおかむりだ。その逃げが、子供たちが長じてからの今の世が、これだけひずんでる大きな原因となっている。なにしろ、30年くらいはアッという間に経ってしまうものだから。

 

金銭の本質を教えるとは、カネなんざ資本のモノサシ、基準や差異を計測するだけの記号・単位、マボロシやツチノコの類にすぎない、という概念を幼い頭にネジ込むことである。まちがってもカネを持ち上げてはならない。「金はあるにこしたことはない」だとか、「必要悪」とかといった消極的な肯定もダメ。さらに甚だしくは「金稼ぎは正義」「金持ちこそが人生の成功者」などの教えはもってのほかである。現世に主流の、多少なりとも肯定的な態度は全部否定し、人間はそんなものに縛られてたらどこにもいけない、という感性を育てることだ。ニュートラルを超えてネガティヴな文脈で金を定義してあげることである。カネは、ひとの愚劣さの拡大鏡、擬態にすぎないということの念押しである。この点だけは、教育は強烈なファシズム、ゴリ押しくらいの塩梅でちょうどよい。こどもを貧困の当事者にしてはいけない。

 

稼ぐだけで、造れないのがお金

 

世間を巡ってるだけの流通記号がゼニカネ

 

買い物とは、投票や寄付のような行為

 

貯金や投資なんか、大の大人がマジに取り組むことでない


仮想通貨への投機なぞ、自慰行為と変わらない


いままでの金銭に対する教育のスタンス、すなわち腫れ物に触るかのような、もしくはシカトをキメ込むような教育態度は、ほかならぬ教育の内容設定者が、お金のことについて知らない、考えたことない、慣れてない、教育にとっては不純で扱うにはふさわしくない題材であるものと、あらかじめ規定してしまってるから、起きるのである。

 

こういう銭の虫ならぬ無視が「暗黙の了解」になる社会は、お金への執着が傍流に貶められ、人はそこではじめて、誰はばかることなく大きく呼吸できるだろう。自由の実現は、かくも簡単である。

 

ときたまテレビや雑誌などで借金○億円を10年で返した人なんかが、逆境をはね返したヒーローのようにおもしろおかしく取り上げられるが、そんな多額の負債などハッキリいって正体不明である。借金が借金を呼んで膨らんだだけの幻の集積である。友達から借りた金なら不履行ではまずいが、借金とは額がデカくなればなるほど、返済しないことで困る具体人はいなくなる性質があるのだ。カネは自己増殖する蜃気楼であり、したがって額が増大すればするほど借金を扱う担当は具体的当事者から遠のいて、代理人や金融機関といった「制度」に希釈される。こうなると救済制度(自己破産など)が発動できる余地が生じるし、それを個人が行使しても、悪徳金融業者でない限りは「本当に」迷惑をかけてしまう相手はいない。こうしたことも現代社会の基礎知識であって、子供にまっさきに教育すべき内容である。

 

だいたい日本国政府が、ふだん金ばっかり勘定してるクセに、おのれ自身が巨額の「借金」繰り延べ(という名の実質的踏み倒し)や、さらなる借金体質の本家本元、総本山であり続けている。で、金額の帳尻合わせに苦労はしても、本気の債務返済でマジに悩み抜いてる人は閣僚にもいない。このことは子供にもじきバレるのであるからして。

 

<了>

 

 

「世界を旅する系」のひとからだけ、ぼくはやたらフォローされるんだ。

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どうも 石王イシオウ (@fotobiginesu) | Twitter です。得意なことは意識高い系と意識高い逆張り系への、両方にリーチするイヤミなモノマネです。

 

2005年あたりの川島(下の名前忘れたが思い出す価値もない)ブレイク以降、インターネットには自称成功者があふれた。世界を旅するフリーランサーとか、南の島で毎日サーフィン三昧の、パソコン1台で仕事する華麗な人々のことだ。この流行はずっと続いてるようで、この手の人たちはいまだによくtwitterで飛来してくる。よりによってぼくのアカウントに、だよ?よくもまぁ彼らそんな地球の果てから、しかも振幅の大きそうなfunで染まりきった生活の中から、東北の半引きこもりでしかない、しがない47歳のぼくを親切にも見つけてフォローしてくれるものだ。感心することしきりである、と皮肉のひとつも言いたくなる。たまごアイコンの人とかも。

 

↓例。クリックしなくていいです。

twitter.com

 

これってbotでアカウント集めて一括で自動フォローしたりするんでしょ?詳しく知らないけど小ざかしい仕組みだわね。しかも秒進分歩のネット界、いや、リアルワールドの中において、きゃつらの手法は十年一日の如く変わらない。ナンセンスなだけでなく、立派な公害。もうこれだけで片腹いたいわ。でも、笑わしてくれるのは仕組みに関してだけではないのであります。自称での肩書きがそう。もうひどいのなんの。

 

いうまでもないがフリーランスやノマドワーカー ー要するに自営業ー には、旅するも旅しないもない。好きにしたらいい。また、サーフィンしようがしまいがどちらでもよい。いづれにせよ他者に言うべきことではないからだ。例えば「恋する正社員」(笑)みたいな自己紹介の言葉がもしあったなら、そんなの映画のタイトルじゃあるまいし変でしょう?恋愛とその人の勤務上の名称は関係なんかあるわけない。たとえその人がブライダル産業に従事する社員であっても、関係ない。それと同じことだ。つまり要らない情報である。偉そうに言うがそうやって不要な情報を垂れ流すより、まず己の恥を知れ。

 

職業に言及するなら、内容を述べるだけで十分。さらに業務評価は仕事ができるかできないかだけに向けられるし、その評価は自己申告制ではない。身分を自己紹介するときに、無関係な旅行や遊びの形容をくっつけるのは、相手に対し自分を欺く、いわゆる「釣り」意図があるときだ。それか、本当に中身のない人間なのかの、どちらか、もしくは両方だ。

 

したがってそういう手合いに限って、tweetの内容はペラッぺラのコピペ受け売りだし、本当の業務内容は不明である。というよりそいつの正体は、まず間違いなく何もしてこなかったし、これからも何もできない輩である。世界を旅行どころか、なにがしかの規範や殻や枠から、意識も体も飛躍した経験などないに相違ない。

 

・・・とまぁ、ここまでは世によくありがちな文意。ぼくなりの見解が含まれてるとするなら、自己紹介に変な形容詞が付いてたらそれがだましの目印って指摘かな。で、これからは少し話がズレつつ、独断の領域に入っていきます。

 

だいたいにおいて旅行とは、趣味という名の余裕を嫌うアマノジャク(=ぼく)の持論だと、「自分をゴマカシの中に麻痺させていく」というロクでもない逃避の代表格である。人は、何かの用で、特定の場所に赴くか赴かないかの事実があるだけだ。「自分の現場」はいつだって自分の内面堀りにあると思ってるぼくに言わせれば、旅とはその分自分を見つめることをおろそかにしましたと公言するような行いだ。

 

近代社会での旅行や観光とは、絶景(何という思い上がった言葉か)や名勝など、すでに権威によってお墨付きの場所や何かを、ひとりか何人かで追認していくだけの行為である。それは見えない「レール」の上で振舞うだけであるから、楽しさもどことなくむなしい。

しかし旅行という契機でなく、いま、ここで、自分が「見るんだ」という意識さえ持てば、そこらへんの草木だって虫だって新たな自分だって、すべて唯一の絶体的な他者との出会いである。その「発見」こそが、ものすごく豊かな体験になるはずだ。

 

だからよく聞く決まり文句としての「自分を見つめる旅」「自分探しの旅行」など、鼻白むだけの言い草である。旅先や観光に本物の自分や真の自由、充実などが落ちてるわけがない。もしそんな大事なものが落ちてるなら、ポケモンGOどころではない。みんなキョンシー(知ってる?)のように勝手にピョンピョンと、仕事も学校も子育ても、全部放り出してうつろな目でその辺をさまよっていることだろう。「ほんものの自分」というとんでもない宝がどこかに本当にあるのなら、人はそのユートピアやガンダーラを探すためなら何だってするだろう。

 

ということでここでの旅行を地方移住とか開墾、オンラインセミナー、名言botなどと言い替えてもいい。外部へのあこがれであればみなおなじ、同類だ。ネトウヨやヘイトだって憧憬とは反対に見えるけれど、根っこは同じであって、みな、みにくい。

 

また別の角度から言うと、旅行したとしてもそれは自分の中だけのお話であり、無関係の人様にはとくだん吹聴するものではない。関係ある人たちへ話すときや関係する話題につなげる時のみ、つまり言う必要のある機会にだけ、旅行に触れるってのが好感の持てる会話だ。聞いてもいないのに言われたら、そんなの単なる自慢話である。この部分も、ネトウヨやヘイトに相通じてると言えよう。

 

だから自称「世界を旅するフリーランス」さんに話を戻すと、彼は二重の意味でカゲロウそのものである。旅行と仕事(笑)という無関係二項を結びつける発想も、上に述べたように自分を定位できてないおろかさを浮かび上がらせるだけだ。目的はどうせ情報商材売りのための創作サクセスストーリーなんだから、売る方のキャラをもっと立体的独創的なものにしておかないとお話にならない。また、繰り返しになるが旅という「お茶にごし」に依拠して自分を飾り立てたつもりになってることも、ぼくの意見ではギマン行為だ。しかもこれらをぜ~んぶ自分から言う(そうせざるを得ないわけだが)形式をとってるのが、また噴飯ものの全体構図である。

 

旅に限らずスイーツだとか幸せとか、いま話題の「人生のレール」とか気付きとか、後からでも解釈をいかようにも変えられる、玉虫色のものを前面に押し出して寄ってくる相手には、今の世の中いくら警戒をしてもしすぎることはない。というより、はじめからそんなものに時間を割く必要はない。だから、そいつらに近寄らせない態度でいることが必要だ。一度でも甘い顔して話に付き合うと、かなり長期間つきまとわれると考えた方がいい。だからどうでもいいものの勧誘は、断固として、瞬時に断るのが鉄則である。

 

なにか面白いものないかなぁとか、誰かあたしに声かけてくれないかなぁなどといって、ものほしげにキョロキョロしてるからかえって危険を招き、カツアゲにあったりするのである(もしカツアゲにあったら撃退方法はこちら)。そう考えていくと、twitterで偽アカウントによく吸着されるぼくは相当にウカツなのか。この泡沫ブログでいくら偉そうなことを書いても、無効なようである。この記事の冒頭にアカウントを貼り付けるなど、その意味では愚行である。

 

だがブログのPVが、数としてはいくら泡沫でも、読んでくれる読者ひとりひとりを信じることからしか、ものごとは始まらない。このあたり、偽アカウントくんにゃ分かるまい。

 

以上、恋する正社員をめざす47歳独身オジサンの、たわごとでした。

 

(了)

 

ハーフタレントの人気は動物園の珍獣と同じ。

 

ハーフの芸能人は以前から人気だが、あれもずいぶん殺生なことだ。

 

まず人はひとり残らず誰かと誰かの混血児であって、つまりハーフである。だから、本当はハーフってことは特別なことではない。ハーフさんの容貌は確かに目に付くが、西洋人と日本人のハーフでも、一目で「ご愁傷様」って言いたくなるルックスも多い。

 

それと、外見があまりに秀でてる人の中には、しじゅう見られてしまうことや目立ってしまうこと、すなわち動物園の動物と同じ状態であることに耐えられない人もいるだろう。いわゆる有名税というやつだが、あんな無用で不幸なものに慣れる人など、いないような気がするし、慣れてしまったらそれはそれで真綿で出来た監獄だろうという考えも浮かぶ。

 

そうした考えを延長しながらハーフタレントにあこがれる側の心理を考えると、彼彼女に無反省にあこがれる一般人の態度は、実はその裏返しであるところの差別主義の始まりであろう。ハーフへの憧れは差別だ。あまりに普及しすぎてて、ヘイトスピーチなんかよりはるかにタチの悪い類の。そうしたいわれのない差別が良かろうはずもない。ベッキーがなかなか再起できない真の理由は、ここら辺にもあるのではないか。

 

したがってハーフに限らず憧憬とは、これ撲滅すべき悪感情の筆頭である。すべてのアイドル産業やテレビ、グラビアのたぐいは、思慮の浅い人々のあこがれを刺激して食い扶持にしてるという点で、動物園同様に愚鈍を助長する犯罪行為に日々加担するものである。また、それにうかうかと乗せられる方も罰する仕組みが必要だ。そうしたものにハマらないよう、警察や公安、議員や教育者がしっかり指導せねばならぬが、そいつらがまっさきにハマってるのが他ならぬハーフタレントであるのが今の日本である。公務の不正が後を絶たない本当の理由がここにある。

 

そして同様に人を評価する際、天才秀才努力の人を言い過ぎる手合いも同じ穴のムジナである。みずからの内なる天才性に怠慢なひとが、オリンピックのメダリストなどの外部にわぁーっと流れてゆくのは、ハーフに対するのと同型の、やみくもで醜い憧憬である。人はみな、同等の魂保持者なのだから、生存してるだけでおまえはおまえなりの、宇宙唯一の、天才なのである。それはヒーローやレジェンドやメダリストといった世俗的なものどころでない、キッカリとした類似性ゼロのそれである。他者への無意味な憧憬をなくす地点は、こうした認識からしか発生しない。

 

とにかく人を持ち上げるのもほどほどに。無意識のうちの「ホメ殺し」は、転じて高度の悪意に変貌することは先に述べた通りである。そしてこういう文を書く、他ならぬぼくも容易にその加担になりうるわけである。冒頭の「ご愁傷様」というイヤミが、その端緒である。用心用心。外見や見た目は欺きの元なり。自戒である。

 

***ところで、いわゆるハーフといえば母が日本人で父が西洋人ってパターンが多く、父母の性別が逆のことは少ないが、これがまたひとつの傾向、すなわち「ますらおによる女の蹂躙」を物語る。男なんざいわゆる草食系に限るし、他方、キャリア女性は男社会が生んだいびつなハイブリッドである。このひずんだ柔構造の話は前にも書いたが。

 

<了>

 

テレビ各局の社風を斬ってみた。

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地上波テレビ各局の社風を、番組から想像して独断で斬ったぞ

 

物心ついたときからいつのまにか世に存在してるテレビ。ふと気が付くと、どんな友達よりも仲良しで、親兄弟よりも付き合いが長い、そんな存在です。

 

いくらインターネットが発達しても、スマホやソシャゲが隆盛を誇っても、だらだらスタイルにはやっぱテレビであります。そんなテレビを番組単位でなく局単位で、人にたとえて語るという、尊大で大きなお世話的記事を書きました。

 

題して「地上波テレビ各局の社風を、番組から想像して独断で斬ったぞ」。

 

読者諸氏には内容に関しどのくらい共感して頂けるか拙者には分からぬが、まずはTBSから斬ってしんぜましょう。

 

 

TBS…孤独な都会人のひきこもり自画像

 

www.tbs.co.jp

たとえタレントを多数集結させて華やかに番組をつくったつもりでも、どうも全体に寒々しく空々しい、そんな雰囲気を感じる局である。スタジオのセットも民放キー局の中では一番書き割りっぽい、よそよそしい風情がある。むかし「8時だョ全員集合」はセットを回転させてコーナー転換したが、ああやって舞台裏を全国に晒して恥ずかしげもなく堂々としてる「合理性」が、TBSの論理という気がする。緑山スタジオの多用とか、収録スタジオの電気が夜には落ちるとか(「うたばん」)、セット豪華主義かつ内輪にしか通じない楽屋落ち傾向があるのだ。

 

同局が好んで取り上げる番組テーマには、ここ20年ほど観察できるひとつの特徴がある。それは熱血路線やスポーツに偏重してるという点だ。古くは「風雲たけし城」あたりに源流を持つ、炎の体育会系とか筋肉番付のようなスポーツバラエティ番組が、その例である。それは自分の雰囲気が寒々しいから、熱き情熱とか熱血のストーリーを扱うという、 一種の自覚に基づいたバランス感覚からの対応なのではないか。だとしたら熱血も、かの局には素材でしかなく、その、足りない栄養素をサプリメントで補うがごときピンポイント補填主義は、やはりそれも冷めた合理姿勢からくる発想だと感じる次第である。

 

自作自演(ヤラセ)を交えてでもホットであるのが宿命のテレビ界において、TBSの、この独自ではあるが冷ややかなスタンス。「ザベストテン」も「金八」も「うたばん」も、なにか孤独でさびしかった。ワーワー賑やかしで盛り上げようとすればするほど、むなしさを感じたものだ。私見ながらこれが同局のポジションがハンパである理由であろう。

 

この冷たさは、大都会のスマートでクールな体温に由来していると思っている。だからつまり、東京なのである。TBSとはその名のとおり、東京のみを見つめ続けている放送局である。なんとはなしに閉鎖的で孤独。人を描くのは、あまり得意でない局だ。

 

ところで単なる偏見かつ大きなお世話だが、かの局は、社内人事なんかも冷淡なような気がするな。

 

 

フジテレビ…家族でわいわいやって低脳へまっしぐら

 

www.fujitv.co.j

「たのしくなけりゃテレビじゃない」のキャッチフレーズのもと、楽しさや軽薄さで80年代から世をリードしてきた同局だが、それも含めてこの局の根幹をなすものは「ファミリー」演出だと思う。フジに出る時は自局の若手アナもベテランアナも外部タレントも、要するに社内外問わず、出演者はみな平等の扱いである。 まさに和気あいあいといった感じで、みんなで番組をつくっているんだぞ、という雰囲気を色濃く感じる(めざましテレビ等)。したがって最終回のカタルシス や、出演者が卒業する際のオーラス感はとても大きい。

 

番組編成も50年くらい前から家族ムード推しだ。思い返せば70年代、日曜夜の「オールスター家族対抗歌合戦」とか、アニメの世界名作劇場(「フランダースの犬」とか)などの牧歌路線が、その最もたるものだった。言わずもがなの「サザエさん」や「ちびまる子ちゃん」も。

 

またバラエティーも一貫して血の通ったにぎわいを感じる。芸能人のともだちに電話をかけさせて、それをそのまま次回のトーク人選にしてしまう(初期の「いい とも」)発想のはんなりさ。この点が先述した「東京ローカル局」としてのクールなTBSと対照的だ。フジは、だからややドンくささも残る「地方」「田舎」 である。新宿区河田町にあった時代の旧本社は、まるで雑居ビルのような外観を呈していたのだった。

 

ただフジテレビのほんわかさは、人の良さが出てるだけなのが弱みといえば弱みだと思う。だから世間をうまく乗り切る戦略とか、多少ズルしてでも相手を出し抜くとかいった狡猾さや鋭利さは、あるようで実はない。フジの凋落はよく喧伝されてきたが、自局の地位が下がっても、ほんわかファミリー基調に特に変更はないようである。戦略がなく、資質だけでやってきたから当然だ。後述する日本テレビのように、自分の特色を対象化して捉え、うまく切り取って成長させて新しいフレームをつくる、といったことがどうも苦手、どころかそれを意識したこともないのではないか。

 

いっときはバブルの絶頂、時代の寵児だったが、いまでも当然、一定の(そして相当の)収益はあるんだろうね。フジテレビの話に限らないが、儲かることは鈍することでもあると知らしめてくれる。地方には案外金持ちも多く、その姿は悠々自適の好々爺、しかも思考停止ぎみのそれというキャラが少なくない。フジはそれだ。たぶんずっとこのまま続いてゆく。

 

 

テレビ朝日…ぜんぶ上滑り。たとえれば、マズいレトルト食品。

 

www.tv-asahi.co.j

タイアップ大好きでメディアミックス命。特に、別にそんなに面白くもない自社放映ドラマにゲタをはかせて映画化し、なにかというと「大ヒット上映中」と大風呂敷を広げるのが、お得意のワンパターン。 十年以上に渡ってそれ一辺倒の持ち上げ方法論にはもう飽きた。自局の番宣が他局にくらべても目立ち、かつ自前でのヨイショぶりが大仰。この傾向は日本人の控えめな国民性を超越しており、ほとんどステマレベルである。

 

また、親分である朝日新聞仕込みの底の浅い正義感を振り回したり、これまた同社刊の週刊誌「AERA」のように、ジャーナリズムを気取っていながらその実、単に世相をはやし立てるだけの番組(「TVタックル」「朝まで生テレビ」など)を長く続けるなど、たぶんキー局のなかで一番うぬぼれ感度が高い。常にエエとこ取りだけをしてテメーだけこざかしく世間を渡っていきたいという、虫のいい社風が透けて見え、浅薄な啓蒙主義をその絶好のかくれみのとして使う。深夜帯の番組が妙にユルいが、それはそこら辺の裏返し現象であろう。

 

勉強はできるが知恵はなく、言動も人格も奥行きが浅い。しかしその欠点を隠して金儲けだけはうまい。そんな似非インテリが巣食う伏魔殿。まるでパッケージは豪華で値段もそこそこするのに味わいは薄い、そんなレトルト食品のような局だ。ちなみにわたしはライバル局の回し者ではないぞ(笑)

 

 

日本テレビ…超安定チーママ。その磐石ぶりには死角なし。

 

www.ntv.co.j

国内テレビ業の王道、象徴、保守本流。産業でいえばゼネコン、鉄鋼、自動車メーカー。重厚にして長大なる長期安定政権。同局のバラエティー番組における大箱感、それこそ大船に乗ったような安定感は、長年ゆるぎない同社の特徴を照射してあまりある。例:笑点

 

あまりに保守すぎて、同局は愛で地球を何度も救ってるし、そのたびに自分で自分に感激、号泣してるが、さすが本道、善意の裏でゼニ回収はキッチリ完遂。泣くフリも最初から上手である。このあたりのサジ加減は水商売業のセンスと紙一重。

 

他局とは趣を異にし、あまり自我を出さない。黒子役に徹することが多いのも保守を感じさせる要因である。「電波少年」のようにバラエティー分野でときどき破綻、というか破天荒な番組を出してくるのは、はぐれ因子も社内に擁せる余裕のなせるわざか。このはぐれ因子が、さっきもフジのところで書いたが、自社の毒見役でありまして、実験的なことや非難を浴びるような噛ませ犬みたいな役目を割り振られている。まるで中国における北朝鮮のようなものであるが、それでいてこの分野でもヒットも飛ばす。さすが保守、長期政権の運営術に長けている。伊達にボスとして読売を据えてるわけではなさそうだ。

 

これからも日本テレビの時代は続くだろう。そして次代の日テレの変容度合いは、戦後ニッポンのレジームが完全に崩壊するときの、社内異分子の飛び出し方如何で決まるだろう。

 

 

NHK…官僚と政治機構が放送してるようなもの。

 

www.nhk.or.j

教育はあのままでいい。かずかずの実験的な取り組みが見られ、語学番組などは世界でもまれにみる丁寧な番組づくりではないだろうか。長年のノウハウの蓄積があり、かつ再放送でお茶をにごしたり、マンネリに陥ったりは最小限。だからときどき番組を見ると目を見張らされる。というか、「ときどきだけ見ればいいや」という気にしかならないことの方が問題。

 

そしてNHK総合はというと、これが教育よりはるかに問題。全体に頭のてっぺんからつま先まで迎合主義に染まっており、全方位にウケようとムリにムリを重ね、紅白のように結果はスベッてばかりという、なんともお寒い方向の中にある。NHKさんは準官僚組織なんだから、民放の模倣もほどほどにしてもっとムスッとしてていいのではないか。むしろムッツリした雰囲気が支配する時代の重さを、いまに伝える唯一メディアとしての自覚を高めてほしい。いまのままでは「生活の心配のない人は余裕があっていいな」としか言えない。

 

ただ「伝えてピカッチ」という新感覚のクイズ番組は、人選も含め他局にはない発想とテンポの良さがあった。しかし3月の改編で終息。なぜあの路線を広げないのか理解に苦しむほどの良質さであった。思い起こせば「連想ゲーム」など、総合はたまに目の付け所が良くて品もある娯楽作を出してくる。本物の知性が社内にいるのだな連綿と。そのあたりもいい意味で官僚機構的である。人材が引きもきらずに揃ってるという意味で。

 

 

テレビ東京…見なくて七癖。うめ草、みちくさ、根なし草。

 

www.tv-tokyo.co.j

みんなのガス抜きのための局。テレビ界の排気弁の役割を担う。だがそれが同局の自虐点となり、「世界でひとつだけの花」の腑抜けた歌詞と共に、日本を代表する逃げのエクスキューズにもなってる。

 

ただ皆さんとうにご承知のように、テレ東はそれだけに得意技も冴えている。なんでも鑑定団やバス旅、モヤさまなどに見られるように、放浪系の、根無し草的な ニッチフィールドに絞り込ませたら、テレ朝の深夜枠に勝っても劣らぬユルい妙味を醸し出す。消極性、タルさ、仕方のなさと憎めなさ。そうした価値観があってもいい。そんな気分をバックアップする、テレビ界のヘタレ「しんがり」。どんな境遇になってもどっこい生きてるシャツの中といったおおらかさには、勇気付けられることもしばしばだ。

 

こうした独自視点の番組を頻度高く放り込んでくるあたりに、 他局には感じられない柔軟な企画力を確認できる。つまりアウトロー的なのが特色。それも寅さんのように、安心できる逸脱なのが鉄板だ。まさに庶民のための安全弁である。同じ「東京」でも言うなれば多摩地区。TBSのようなお高くとまってる感はゼロ。

 

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以上、テレビもとうの昔から多チャンネル(これは地上波だけでないって意味であって、本当に多様化したわけではないけれど)時代に突入し、リモコンも操作ボタンがやたら増えた形状になってから久しい。パッとつけた番組の雰囲気でチャンネルをなんとなく当てるという芸を磨いてるうちに、このような記事となりました。

 

やっぱり、なんだかんだでテレビにツッコミ入れるのは好き。笑

 

<了>