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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



こんな趣味はヤダもん宣言。

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ピザトーストでお昼のひととき。

 

<無趣味のススメ>

自分の学生時代を振り返ると、趣味などに熱中できたことがほとんどない。
いつも白けていた。

これはいまでもそうなので、何に対しても本気になれない性格のようである。
なにかに夢中になるのが学生時代の特権であるならば、ぼくはそこらへんはかなり怠惰であって、趣味などに没頭できないというこの自分の性格には、空虚さを感じなくもない。

ただ、ぼくはこの趣味というヤツのほうも、十分クセモノだと思っている。
趣味という言葉を遣うとき、ほんの少しだけ自分を欺いてる気がするのである。
どうも「趣味」にはごまかしが潜んでいるように思われてならないのだ。

クセモノ?あざむき?ごまかし?趣味が?

いったい何のことかとお思いだろう。それはこういうことである。


<趣味の思想が人をゆるやかに疎外する>

「趣味はなんですか?」「コレが趣味でしてね…」こうした通常まったく問題にされない会話の中に、またまさにその何気なさの中にこそ、何か意識へのささくれが見え隠れしている。この文をお読みの皆さんも、過去を振り返ってみればなぜあんなものに熱中していたのだろうかと思われるような趣味のひとつやふたつ、あったのではないだろうか?ずっと好きでいつづけられるものなんて、ほんに少数だ。


この現象をじっと見つめていると、大げさに言えば今の世の病理が見えてくるのは自分だけだろうか。

趣味とは、ウィキぺディアによれば、

1、人間が自由時間(生理的必要時間と労働時間を除いた時間、余暇)に、好んで習慣的に繰り返しおこなう行為、事柄やその対象のこと。道楽。
2、物の持つ味わい・おもむき(情趣)を指し、それを観賞しうる能力(美しいものや面白いものについての好みや嗜好)のこと(英: taste)。

とある。用があるのは1の意味の方である。

趣味という言葉で象徴される世界観は、上記のwiki辞典のように余裕の産物である。がしかし、この余裕とは、「とりあえず」という名で自己を棚上げしておいて、別立ての自分にわざわざアクセスにすることにほかならない。


自分をいったんどこか無関係の平野において、傍観態度を決め込むような表現。
ここに何か第三者的なものに自分をいったん仮託してしまうような、妙な無責任さを感じるのである。


公の(例えば仕事中の)自分、家庭人としての自分、ときには夫や妻。ときには男女、親子、兄弟、友人、先輩後輩etc。
人には関係する位相によって変化する属性部分があるが、すべては同じ人のイチ要素が発露、対応したものである。
近代~現代では、この個人を取り巻く位相が、ネットやSNSなどのインフラ発達と、スマホ等デバイスの進化によって複雑多岐に渡る一方なので、個人の対応が煩雑になってしまって処理がオーバーフローしつつあるのは周知の通りである。


だが、どんなに忙しかろうとも、結局は自分の外部のものに自分が急かされてることが、日常の大部分である。
大切な家族や肉親も他者という外部存在だし、自分すらも自身を欺くときは、自己の外部の存在なのである。
この構図の中で、自分と向き合う、ぼくなりにいい替えれば、自分の内的変化に意識的でありつづけることには「別立ての自分」ではない、ほんとうの自己を見つめなきゃいけない。そうでなければ、生きてることにならない。


ところが趣味はその別立ての自分のほうに伴う余禄なのである。したがって休暇の際などに、特別な手段と過程と時間を割いて趣味に没頭することは、ほんとうの自分からの逃避に容易にすり替わるのである。その証拠に、いまわのきわに趣味のことを想いつつあの世へ旅立つ人は、(たぶん)おりますまい。


<趣味のほかにもどっさりある、目くらまし>

関係を自己の外に転嫁し、自らを逃避という名のぬるま湯に向かわせる契機となる行為、それが近代に普及した余暇活動、レクリエーション、アマチュア、サークル、趣味、ペット、愛車、(ぼんやりとした)夢、リフレッシュ、「自分へのご褒美」「自分で自分を褒めてあげたい」といったエクスキューズ領域である。

 

まぁいいじゃない、そんくらい。とお思いになる方は、その時点でエクスキューズに取り込まれている。


趣味という言葉が、本気の仕事に対比して軽んじられ、時として侮蔑のニュアンスを含むことがあるのも、こういうわけであるし、だいたい「余暇」や「休暇」という概念そのものが、別立ての発想で、真剣味がぜんぜんない。本格的な食事に対する、ちっぽけなおやつみたいなものである。


最近のはやり言葉でいうと「リア充」(「リアル充実」の略)なども、揶揄の方向性は同じである。


(「リア充」は、自虐のニュアンスをすでに含んでいるので、ネガティヴな意味で遣われる場合の「趣味」ほど皮肉の度合いは高くなく、ずいぶんスケールの小さい言葉であるけれども)


こう考えると余暇に意味合い的に付随する上記の言葉(アマチュア、サークルなど)はみんな、趣味と同様に、他人事のような、甘チャンな、腰掛け的な雰囲気をまとっている。

(例えば本物の野営露営のもつサバイバル的非情な厳しさと、市販品で囲まれたアウトドア趣味の、郊外のキャンプ場での、ヌクヌクとした余裕を保証された中でのアドベンチャー的甘っちょろさは、同じ「アウトドア」であっても異次元なほど違う。これなどは誰でも想起できる対比であろう)


「楽しんでいってください」「試合を楽しむ」などのときの「楽しむ」というのも、なにやら欺瞞くさくてわざとらしいのである。


趣味や余暇が、自分や対象と向き合う時間を削っている。いや時間のように計量化できる領域だけの侵食ではない。
それらは、その怠慢にフタをして愚鈍の中に人を安住させる、そんな心理的副作用も持ち合わせている。

ツールや道具(を買わせること)から入る類の趣味分野は、モノに依存する傾向が強いので、特に警戒すべきである。また、趣味といわれるもの以外にも、有形無形問わず、この種のものは世の中に転がってるのも留意すべき点であろう(例えば、アイドルやタレント、音楽グループにテレビ番組など)


没頭してる熱中してるハマってると感じる趣味をお持ちであればあるほど、まっさきに疑うべきは、その趣味が他ならぬご自分を向上させているのか?という着眼である(その観点から評価に値する趣味はほとんどない、というかそうなるともはやそれは「趣味」ではない)
人が目いっぱい対象を捉え、十全に暮らそうとすればするほど、安易な趣味などにかまけている余裕はない。
しかしそこをごまかしながら、いやごまかすからこそ、趣味産業やアイドル産業は成長する一方なのである。

 

 

<いまいちど、無趣味のススメ>


ではどうすればいいのか?


それは今すぐ趣味領域などお捨てになり、自分の時間を自分を輝かせる方向にしっかり使っていくことが本筋だ(その輝く方法は、教える必要はないし、そもそも伝える教わる次元のものではない)


逆説だが、すぐにおサラバできる趣味など、自分の人生にとってしょせんその程度のものだったということも、のちに判明するだろう。

 

それか、本気で好きならマジで取り組んで、「趣味」の範囲を超越してしまうかだろう。


だが例えば子供の遊びも兼ねている、自分の思索時間と直結してる(読書や釣りなど)など、すぐにおサラバするのが難しいものなら、これからはそれに対して趣味という言葉は遣わず、「(こんなのは)ヒマつぶし」とか「(しょせん)お遊びでね」などとという、みずからの首を侮蔑の前に差し出すような、カラッカラに対象化されきった言葉を遣うのがいい。「たんなる道楽だよ」とか「ウサ晴らし」なんてのもいいですね。要は自虐のニュアンスが感じられること。
さっき言及した「リア充」も、自称で遣う限りは自分を冷めて見つめる視点が感じられて、いいと思う。日本語の豊富な語彙はありがたいね。英語だと多分こうはいかないよ。


こうした対象化されきった、ナメたような言葉遣いの蓄積が、自分を透明化させていくコツだ。
透明化すると軽くなる、軽くなると生きやすくなる。生きやすくなればシャンとしてくる。
一度その境地に立って、存分に呼吸してみよう。
人は言葉で、意味で、規定されうるから、この催眠術のような効果は大きいのである。日本人でよかったね。


自分を軽くするとなると、世間では「断・捨・離」思想などが謳われて久しいが、モノという、自分にとって外様的な付属部品の整理など、本当は大した問題ではない。


いつでも自分にとっては自分自身の処遇が、唯一の大問題なのである。余暇や趣味など、外部があらかじめ用意した制度に漬かるだけでは、その大問題への対処は遠ざかる一方であること。ここに気づくのが、成人へのはじめの一歩ではないか。


…なんてことを考えるのが、ぼくの趣味ですwww

 

<了>