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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



流動性のある社会とは何か。

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*サンドイッチも思いつきだが偉大な発明だった。

 

 

流動性のある社会とは何か。

 

仕事は100%資質で行うものだ。民進党所属の蓮舫の二重国籍が話題だが、いったい何の話をしておるのか。仕事に国籍は関係ない。身分固定社会からは脱皮したんではなかったのか。逆進するのか。

 

仕事は上位概念である。それが本来目指すべきなのは、次世代のための基礎固め、人柱になることだ。それが人の仕事の本体であり、もっと言えば人や社会の本当の営為である。

 

そのステージに到達するためには、今の自分の仕事の根本を疑い、場合によっては見限る必要がある。極論すれば「自分の現在の仕事が次世代にとっては不要になる、その領域を目指す」ために、人はその仕事をするのだ。

 

例えば弁護士。依頼事案を受け取り、調査精査し法廷に立ち、弁論を展開する、そんな通常の弁護業務は、弁護士のホントの仕事でない。そんなものはあとかたづけの作業だ。それはそれで必要だが本当に弁護士が注力すべきは、いさかいや裁判沙汰が起こりにくい、もしくは起こっても簡易に和解に到達できる社会を、大元から目指すことだ。弁護士の存在が少なくなっても円滑に回る世の中を目指すことだ。

 

同様に、警察官も官僚も政治家も、医者も役所の窓口職員も、方向性は全部同じである。自分の業務をなくしていく、自分の出番を減らしていくことが、その仕事のひとつの大きな目的なのだ。

 

公務員的な仕事だけではない。業態でざっくり言うなら、流通も小売も建築も(食べ物の生産を除いた)生産も、IT関連も、その点でなんら変わりはない。だから無論、いい仕事を追及すると金にならない。収入の低さは、民度の高さに正確に比例するのだ。

 

仕事とは、今ある不具合や不便、非円滑を是正するものなのだから、その仕事の推進により不具合が少なくなったら、テレビの登場後に紙芝居屋が廃業して別の職に就いたように、次のステージに変わっていこうじゃないか。そのとき参照にしたり、頼りにするのは先人たちの仕事の成果だ。つまり、ぼくたち自身も、みんなからの共有遺産で暮らせている。

 

だから終身雇用とか職の安定政策、失業率の改善なんていうマクロ的な経済学や議論は最初から画餅であり、仕事の矮小な捉えかたである。したがって経済界はいつまでたっても同じ軌跡を描く現象(為替の変動とか好景気と不景気の波とか)を繰り延べてるだけで、そこに納得のいく次世代のための解は出てこない。いや答えがないからこそ、そこが現役組の新たな食い扶持や言い訳の起点、要するに怠けた不毛にスリ替わっていくのだ。「本当の仕事」は怠惰由来の連続というものを拒否する姿勢である。人や生命と同じことである。そこがちっとも分かっちょらんことの愚昧が、マクロ経済を支えている。これぞホントの「バブル経済」。というか現行の経済そのものがバブルなり。ひぇ~ッ、王様はハダカだったのか。

 

いま、非連続ということに関しとりいそぎわかりやすいのは、「新」の開発による旧の併走的刷新や、暫時の消滅である。モデルチェンジとかアップデートにはじまり、旧来からあるプラットフォームを利用した、電子書籍やIoTの登場などがその例として提示できる(これも先達からの贈り物、「共有遺産」を下敷きにしている)

 

「時代の変化が早くて、ついていくのが大変だ」などという嘆きはよく聞くが、そりゃいままではホントの仕事が少なかったから、変化が遅かっただけだ。それで上に書いたような「新」の登場は、わかりやすい分、数はかなり多いから、それによって現代の変化スピードが速く見えるだけだ。

 

でもこの国土には一億人以上も人口がいるんだから、本当はこれでも変化は遅いんだ。もっともっとコロコロと毎日毎日、変化しててもおかしくはない。というか、みんな変化は毎秒毎秒してるので、その変化の見える「歩幅」がもっと大きくなっても如くはない。

 

あなたが必要とされる別の不具合の是正や、新規の価値観の構築などはかならずどこかに別に、いつだって存在している。そこを順次見つけて、自分の立場をスライドさせていこうじゃないか。その中身のしっかり詰まった動態こそが、社会の流動性や活性化の本当の正体であるべきだ。転職する人はイマドキ多いが、それが個人の単なるキャリア志向、給与の上昇欲の流れだけで決められているのなら、熱に浮かされてるのと変わりはない。それは次世代への継承が極貧な「檻」の中で、永遠に「経済」の捕虜に甘んじる態度だ。

 

大事なことなので繰り返すと、ホントの仕事は次代の人によってぜんぶ乗り越えられるために、飛躍の踏み台になるためにある。この文もそうである。ぼくらは自分の生の消滅と、いのちのバトンタッチを織り込み済みで生活してるではないか。それと同じことだ。

 

 P.S.こう考えていくと、社会的な、つまり現状の公務員的なソーシャルワークで道徳的な要素を含むものは、高次元の人格者の育成という教育的な分野への取り組みに帰結するわけだが、この話題は大きいので、いずれ、また。

 

<了>

 

 

いじめと北朝鮮

 

北朝鮮は日本にばかりミサイルを撃ってくる。中国に対してはもちろん、韓国に対しても、(陸地に対しては)撃たない。なぜか。それは自国と海によって隔てられている外国(しかもいちおう仮想敵国)は、近隣では日本だけだから。

 

それではなぜ海(日本海)なのか。それは日本の国土に届く途中で、ミサイルには墜落してもらわないと困るからだ。そして墜落の痕跡を詳しく調べられると困るから、残骸だかが残ってしまう陸地はダメで、海上に落とすしかないからだ。たとえ日本の領海内でも墜落現場が海なら、紛争勃発回避の言い訳も(かろうじてだが)立つ、そんな計算をしてるのではないだろうか。

 

北朝鮮は、純粋な国威発揚のためにミサイル発射を繰り返してるのではないんではないか。いやそもそも本当に「発射」してるのだろうか。

 

国際社会の緊縛の中で、自国のみで成立していける限界、今世紀における「鎖国」の無効性は、かの国は全部ご承知だろう。

 

そして「鎖国」の悲惨もギャップも、「支配下」の人民にすべて累積していく。この下降構造はいじめそのものだ。

 

(了)

 

情報と情報化の段差がぼくらの居場所だ ~ちがいをみつめることの方法論提示~

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*これ、フレンチトースト。パンの独創的な食べ方のひとつだと思う。味気の抜けた固い古いパンを、タマゴや牛乳で栄養補助しつつ、いかにおやつみたいに食べこなすか、そこら辺の発想がフレンチトーストの原点ではないかと。(本文とは少し関係あり)

 

 

「情報」と「情報化」に違いってあるの?

 

よく聞く言葉に情報と情報化ってのがある。毎日耳にしたり読んだりしてるこれらの言葉だが、その違いは?と改まって考えると何となくボンヤリしてて不思議だ。だいたい「情報」の意味も多様だし、辞書をみてもWikiで調べても「情報」と「情報化」の2つの言葉の定義はバラついている。でもひとつだけはっきりしてるのは、その2つの言葉は同じ意味ではないってことだ。「化」の有無ひとつで、カガミを隔てたような意味の境界線が感じられるのである。

 

情報そのものの意味というか具体例はあとで述べるとして、ここではまず「情報」と「情報化」の2つの言葉の意味合いを比較対照してみよう。ここでいつものように持論をブチ上げると、「情報」は、ものごとの様態それそのものであるのに対して、「情報化」とは、情報の対象化作業およびその結果である。つまり原初には情報があるが、それが文字化や映像化などの対象化を経、媒体に載って流布されるなどしてはじめて人に認識される。この一連の過程が情報化であり、それがめちゃくちゃ多いどころかそればっかりだから現代は高度情報化社会などと呼ばれるのである(例えばクラブDJなんかも、情報化社会でしかありえない職業、技能である)。したがって「化」を抜いた「情報社会」という言葉を想起してみると、これはなにか大事な点が抜け落ちてる欠陥単語のようであり、じっさいあまり聞かない。

 

ここまで述べてきたこの情報および「化」をめぐる考察は、言葉の客体化の議論をしたいわけではない。これは情報化の、人への対置や遠近を指摘したかったのである。つまり情報は真のオリジンであり、情報化は合わせ鏡のその相似形、(本体あっての)影だという指摘である。情報は本質で、情報化は傀儡(かいらい)ということもできる。言葉上での話にはなるが、これは真相なるものが情報化社会には実はな~んにも含まれてないことの端的な説明になろう。「高度情報化社会」なんて聞くと、高級で一流でスマートなハイソサイエティのように思えるが、実際にぼくらの周囲を取り巻くものは、ずいぶん前から空振り、スカ、虚無ばっかりになっているし、またそれらに伴う徒労ばかりに四苦八苦させられてもいるのである。これはまるで虹のたもとを追いかけてはつかみ損ねてばかりの所業である。現代社会とは、情報化というぺらっぺらのコピペ傀儡の渦の中で、正解のない伝言ゲームにアップアップさせられてる環境であるので、こうなるのは必定だ。

 

(余談だがこの意味において、情報化という言葉の発明は快挙である。以前も書いたがこの言葉は林雄二郎という人が1969年発刊の『情報化社会』という著書ではじめて提唱し、使われはじめたものらしい。情報そのものとは違う位相に、情報と似たような別ものがあって、それを認識し、かつそれに「情報化」という名称を与えたことで二項の説明がつくようになった。この意義は大きい。何にせよ言葉のワッカをかぶせないと、思考の輪は回り始めない。それも二輪でないと効力が出ないのです。まぁもっとも情報化という定義は、ぼくがここで勝手に主張してるに過ぎないのだが)

 

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さて、ここまで「情報じゃ、情報が大事なんじゃ」と言ってきたが、今度はその正体に関して考察してみよう。思うに情報とは、一般にイメージされる数式だとか文字列ではない。またプログラムやコマンド、アルゴリズムやプロファイルなんかでもない。それらは情報が情報化されたあとに生じたカケラとか余禄である。では大元の情報とは何か。それは真にオリジナルな「事態」を示唆する言葉であろう。そう考えると具体例としての情報の最もたるものは生命体、なかんずく人の「存在」「遺伝」「真理」「魂」等々・・・という考えに行き着く。これこそがコア中のコア、すべての発生と変化の源流たる究極の事態、そのカタマリであるからだ。情報は、人である。

 

それに対して、対象化された相似形としての情報化、その権化はなにか?それは言語や宗教、学術に制度、法律や貨幣といった、人と人との間を取り持つモロモロの、そしてのちには人を乗っ取り支配・操作してしまう勢いの、後付け影のことである。

 

だがむしろこの「影」の方を「情報」と取り違え、疑いもなく信じ込むところから、人と社会の間に異和や軋轢が発生してくるのではないか。

 

(余談だがこの構図こそは、傑作アニメ映画「攻殻機動隊」(1995)の底流をなす世界観、監督押井守の生涯テーマである。現実と虚構の差をあいまいにする押井独自の映画話法は、本質をあぶり出したい彼の想念がかろうじて産み落とした「ひずみ」「よどみ」のようなものに感じられるのだ)

 

現代のようなコピペ全盛の時代においては、情報の真偽は一次情報にまでさかのぼって検証するようになどとよく言われるが、これは「情報化」の位相まで進んだあとの話であるから、一次つまりオリジナル(と思われてるが実は非オリジナル)までさかのぼったと思っても、まだ情報化の枠内であって本家本元には到達していない。一次とかソースだと思ってても、そこも傀儡やマボロシの領域なのである。しかもその領域は、すでに恣意性を含んでる可能性のあるゾーンである。対象化にはノイズが混じるものだからだ。

 

例を挙げると例えば恋愛。恋愛の話を百万回聞いても、それは情報化の波に洗われてるだけであるのに対し、自分が経験するたった一回のリアルな恋愛は、それら事前の見聞をはるかに凌駕する。これが「情報の起源」である。で、そのリアルな恋愛を対象化し、例えば「大恋愛」「熱愛」などと安易にも名づけて5chなどに体験談をアップしたら、それが「情報化のはじまり」である。言うまでもないが恋愛には大も小も温度もない。だから、たった一文字「大」や「熱」という形容を追加しただけで、傀儡は本筋からわずかに逸脱し始める。さきほど「正解のない伝言ゲーム」と言ったが、それはこうしてスタートする。その後におけるこの種の錯誤の重層的積み重なりが、人に何をもたらすかはここで申し上げるまでもない。

映画「燃えよドラゴン」ラストシーンにおける「鏡の間での決闘」みたいなものである。敵だと思ったら鏡に映った姿だったという蜃気楼、その幾重にも連なった仮想のイメージ。

 

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さてここで情報と情報化の構図をひとしきり説明したところで、この図式は何かに似てるなと思った。つらつら考えるにどうもそれは音(サウンド)の概念とおなじなのではないだろうか。

 

だれもいない森林の奥で木が倒れたら音はするのか?という問いと同じ。つまり、木が倒れれば空気の振動(=情報)は生起するが、それを音と認識する(=情報化)のは人間だけである。従って誰もいない森林では「音」はない。いや正確に言えば、音を「音」と認識する主体が不在であるがゆえに、音は存在し得ない。

 

このことから察するに、情報は情報化とそれを等分に評価する主体があってはじめて存立する。ここで話はもう一段、上位階層に足を踏み入れるが、この評価にかかわる一連の考察過程を、知性と呼ぶのである。知性は磨いてなければならないが、磨かれ得ぬそれは現象体の情報化の方に、いとも簡単に引き寄せられて固化する習性があるようだ。まるで砂鉄と磁石のように。情報は希少な上に見えづらいが、情報化はきわめて多彩に存在する上に、いちいち目立つ。

 

しかしこのとき留意せねばならないのは、言葉(情報化村に所属する要素)でしか論理を構築できないことに象徴されるように、情報化を方法論として駆使せねば、人は何も見ることができないってことである。ぼくらは情報化の際にこぼれ落ちたカケラ(それを名付けるならば「情報化情報」!)をたんねんに拾い集め、ひとつひとつそのカケラの優劣を審議し、いいものだけたぐり寄せ、曲がりくねってでもブカッコウでも、とにかく自分なりの小道をこしらえてからでないと、情報の本丸にたどり着けない。つまり情報と情報化情報(笑)は、逆説的に相互依存しており、いうなれば情報なくしては情報化はなく、また逆に情報は、良質な情報化を通してしかその姿は見えない、そんな仕組みになっているのである。

 

「こんにちの高度情報化社会においては云々~」のような、いかにも既知既成の一般論には、詳しく検分すれば、実はこうした齟齬が隠れている。一般論は、聞かされればいちおうは納得して話は進むが、はて情報とは何ぞや?情報化に意味はあるのかと疑念を抱かば、とたんに停滞が訪れる。

 

だがその疑問による停滞が、自家薬籠のようだが、はからずもその情報の本元に歩み寄ることのできる、たったひとつの道なのだ。そこで道標になるのは、上に述べたように情報の蜃気楼の方である。知は疑からはじまる。疑とはすなわち人の営為である。まぼろしすらも栄養にしながら営為はすすむ。

 

情報と情報化のように、あるいは音の発生源と音という現象認知のように、いっけん同じように見える認識を腑分けすることで止揚し、そのひとつ上を行く本義に迫るのは、人の持つすぐれた能力の一高峰である。人は、ひとりひとりが異なる情報所有者であり、全宇宙の中で唯一のオリジンである。情報化の断片、ススだらけになってしまって極端に見通しの悪い世間を、フォグライトどころかスーパービームでスパーッと切り裂き、キリリと孤高に照らす真の情報と知性は、誰であろうあなたしかいない。

 

照らす光があれば影がある、作用があれば反作用がある、男と女がいる。そこを疑念し、隠れてる二項をかき出し分け入ったり、場合によっては二項のうち一方を仮設し見据え、等分に吟味すること。人の知性はそれだ。この文章もその試みのひとつであり、日本語では「分かる」と「分ける」と「別れる」が全部似ているのは、そういうわけだ。

 

<了>

 

自分が社会の歯車としか思えないときに読む文

 

ぼくの本業、プロ撮影業や街の写真館業界でここ15年ほど巻き起こった大変化は、フィルムからデジタルへの移行である。それもプロカメラマン自らの意思による移行ではなく、時代にせかされてやむなくフィルムを手放し、デジタルに切り替えざるを得なかったという消極的なパターンが多かった。

 

ポートレイト撮影や集合写真という「なかなか一般人には撮れない」と思わせておける「聖域」の既得利権は、自らを「写真師」と敬称で持ちあげるクセのある業界人にとって、なかなか簡単には手離したくないものだ。だからまだ「写真師」の中には、オワコン(意味合ってる?)にもかかわらず、フィルムや銀塩プリントに未練を残す人がいる。

 

だが写真自体は見た目に変わらなくても、それの持つ意味合いは変わっているのだ。だから写真に供せられる設備も、淘汰という形でも何でも、変化していってしかるべきだ。写真館は上にチラと書いたように出版界などと同様、よく言えば伝統、悪く言えば過去の遺産にあぐらをかく悪癖が元々ある業界だが、その習性からいまだ完全には抜け切れていないのである(最近は世代交代やデジタルの洗礼でリセットされてきてるので、その悪癖からだいぶ脱皮できつつあるが)

 

 さてとここまでは前段であります。この狭い業界話に、いましばらくお付き合い願いたい。

 

というわけでデジタル撮影時代の到来と相成ったワケだが、カメラマンにとってデジタルになって解放されたものがひとつある。撮影数の上限だ。フィルム時代には考えられなかったメディア大容量時代が、シャッター数の膨大な増加の後ろ盾になった。これは大きな違いだ。音楽でいえばレコード時代からCD時代を飛び越えて、いきなりiTunesへ飛躍したくらいの違いである。

 

ところがこの撮影数の上限撤廃が、いっけん恩恵のようにみえて実はそうでもないのである。下手なフォトグラファーほど許容度が上がったと勘違いし、安心してバシャバシャ撮るが、そういうのに限ってたくさん撮るわりには、いやだからこそ、しっかりとした品格ある、キリリとした写真はほとんど残せてない。あるのはライトでカジュアルな、すなわち誰でも撮れるような、ただシャッターを切っただけの内実のないフォトばっかりである。

 

すなわち「(アルバムなどに素材として)使える」とか「(顧客に)買っていただける」画像がないのである。

 

これは問題も問題、プロの死活問題であるが、「カメラマンによって良し悪しがある」などといって社長にはスルーされるだけで問題視はされておらず、したがって業界内の誰も警戒していない。そして下手っぴカメラマンは写真を見る目も育ててないのであとで画像を自己検証することもない。だから自分たちのひどさは改善されないままだ。下手な鉄砲も数撃ちゃ式は、ここではっきりと悪傾向であり、かつそれは年々顕著になってくるばかりなのだ。これは写真館にとってはクオリティー面での緩慢な自殺に値するできごとであり、大手資本のライバル写真館の攻勢なんかよりも、はるかに大きな内的課題だ。なぜなら写真館自体が写真を撮影を、てんで分かっていない(「伝統」に対してあぐらをかきすぎた)といわざるを得ないからだ。

 

プロ撮影とは何かというと、それは瞬間との勝負である。研ぎ澄まされた1シャッターに気合いも魂も技術も、すべて投入するものである。したがって何でも撮っとけという雑な態度は、逆に真の、びしっとキマって焦点の定まった、まさにそこ以外ではありえないくらいの濃密な時、いわゆるシャッターチャンスを、ことごとく逃すことに実は直結している。弾きまくるギターは、優れた1音をセンスよく鳴らすギタリストにかなわないのである。

 

撮影業の従事者が現場でいまあえいでいるのは、そうやってデジタルの恩恵に依存しっぱなしでシャッター数ばかり増え、その結果後処理の作業領域が際限なく増加、パソコンの前に座っている時間の方が撮影本体よりもはるかに長いという皮肉。それに対する苦慮である。

 

ああ、ここでやっと本題だ。

 

このほどさように、情報の氾濫、テクノロジーのむやみな発展は諸刃の剣どころではなく、はっきりと「実害」をもたらす。それも見えない「悪手」で使用者をゆさぶるタイプの、根の深い本当の実害だ。その引き金となる悪手とは何か?それは人に飽和を与えるということである。プロ静止画撮影の話をしてきたが、ソフトウェアも含めた撮影テクノロジーの発達がスペック向上にのみ向いているのは、使用者の充実を約束しない。いやそれどころか「それ(業務)はそれ、これ(ブツ)はこれ」と、両者に冷たい乖離を宣言し、分断するかのような空気すら感じられる。こう考えていくとメーカー主導の業界(写真館業界がまさにそうであった)とは、なんと大ブロシキ拡散型の、大雑把な世界把握であろう。

 

世がこういう方向にだけ変化していく一方だと、どうなるか。

 

感性の世界には、じっと辛抱強く待ち構えて何かが光臨したり成長したりするのを受け止めたその先に、やっと獲得した希少性が燦然と輝く価値を持つ、という順序がある。そしてこれは感性だけでなく植物の成長や人生のプロセスもまったく同じことなのだ。飽和を導入し量を保証した方が、イマドキは手っ取り早くてわかりやすい・・・これが錯誤の一里塚、短絡という名の破滅に至る門である。それにまんまとひっかかって乗せられたまま自制が効かないと、例えばせっかく芽吹いた作物に、肥料も水もじゃんじゃんやって根元から腐らせてしまうといったことを起こす。

 

そう、飽和はかならず人を狭窄せしめ、枯らしめる方向にいく。飽食で栄養が足りたら、今度はその多食が、他ならぬ健康を損なっていくのと同じ理屈である。飽和の本丸とは、擬似安心・エセ納得の獲得だけである。その前提にある大元の「不安」と対峙しないと、飽和には奉仕しても、かんじんの生きることがぜんぶ元のもくあみに帰してしまう。

 

プロカメラマンでなくても、今ぼくらに必要なのは、自分の感度にピン!ときたことを、点でライブにしっかりつかまえることである。ひらめきで自分をドライブさせていくことである。その態度を貫くためにむしろ大事なのは日々をフリーハンドでぶらついてることだ。おなかをすかしていることだ。ごたいそうな態度から無縁でいることだ。

 

これは一般に言われてることと逆の態度である。いま世間で推奨されてるのは、少しでもお得な情報はないか嗅ぎまわるとか、他人よりもほんの少し情報を先取りしなきゃという、情報のアンテナを常に広げる態度であるが、それはさっき書いた「飽和」の前で敗走する生き方だ。ダブルポイントデーでお得だからといってポイントカード基準額を満たすためだけに余計な買い物をする、なんてェのが飽和への敗北だ。あなたの生きる姿勢は、生活態度のすみずみに、はしばしに現れている。必要なものはいつでも目の前にあるのだから、気付くか気付かないかだけなんである。外部から後天的に付与されるもの(たとえばもうけ話や宗教の勧誘とか)にロクなものはない。

 

むしろ、しないことの方に真髄が宿ってる。ひ弱、しんみり、たよりのなさ、心細さには、かならずバイタルな豊潤が隠れてる。のっぴきならない瞬間瞬間の中に、次の飛躍のタネはある。あなたは、ニンゲン種という大きな想念にとってだけ、一片の素材や歯車であるのだから、それを堀りにいこう、探しに行こう。ポケモンなんか探してないでさ。

 

<了>