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情報と情報化の段差がぼくらの居場所だ ~ちがいをみつめることの方法論提示~

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*これ、フレンチトースト。パンの独創的な食べ方のひとつだと思う。味気の抜けた固い古いパンを、タマゴや牛乳で栄養補助しつつ、いかにおやつみたいに食べこなすか、そこら辺の発想がフレンチトーストの原点ではないかと。(本文とは少し関係あり)

 

 

「情報」と「情報化」に違いってあるの?

 

よく聞く言葉に情報と情報化ってのがある。毎日耳にしたり読んだりしてるこれらの言葉だが、その違いは?と改まって考えると何となくボンヤリしてて不思議だ。だいたい「情報」の意味も多様だし、辞書をみてもWikiで調べても「情報」と「情報化」の2つの言葉の定義はバラついている。でもひとつだけはっきりしてるのは、その2つの言葉は同じ意味ではないってことだ。「化」の有無ひとつで、カガミを隔てたような意味の境界線が感じられるのである。

 

情報そのものの意味というか具体例はあとで述べるとして、ここではまず「情報」と「情報化」の2つの言葉の意味合いを比較対照してみよう。ここでいつものように持論をブチ上げると、「情報」は、ものごとの様態それそのものであるのに対して、「情報化」とは、情報の対象化作業およびその結果である。つまり原初には情報があるが、それが文字化や映像化などの対象化を経、媒体に載って流布されるなどしてはじめて人に認識される。この一連の過程が情報化であり、それがめちゃくちゃ多いどころかそればっかりだから現代は高度情報化社会などと呼ばれるのである(例えばクラブDJなんかも、情報化社会でしかありえない職業、技能である)。したがって「化」を抜いた「情報社会」という言葉を想起してみると、これはなにか大事な点が抜け落ちてる欠陥単語のようであり、じっさいあまり聞かない。

 

ここまで述べてきたこの情報および「化」をめぐる考察は、言葉の客体化の議論をしたいわけではない。これは情報化の、人への対置や遠近を指摘したかったのである。つまり情報は真のオリジンであり、情報化は合わせ鏡のその相似形、(本体あっての)影だという指摘である。情報は本質で、情報化は傀儡(かいらい)ということもできる。言葉上での話にはなるが、これは真相なるものが情報化社会には実はな~んにも含まれてないことの端的な説明になろう。「高度情報化社会」なんて聞くと、高級で一流でスマートなハイソサイエティのように思えるが、実際にぼくらの周囲を取り巻くものは、ずいぶん前から空振り、スカ、虚無ばっかりになっているし、またそれらに伴う徒労ばかりに四苦八苦させられてもいるのである。これはまるで虹のたもとを追いかけてはつかみ損ねてばかりの所業である。現代社会とは、情報化というぺらっぺらのコピペ傀儡の渦の中で、正解のない伝言ゲームにアップアップさせられてる環境であるので、こうなるのは必定だ。

 

(余談だがこの意味において、情報化という言葉の発明は快挙である。以前も書いたがこの言葉は林雄二郎という人が1969年発刊の『情報化社会』という著書ではじめて提唱し、使われはじめたものらしい。情報そのものとは違う位相に、情報と似たような別ものがあって、それを認識し、かつそれに「情報化」という名称を与えたことで二項の説明がつくようになった。この意義は大きい。何にせよ言葉のワッカをかぶせないと、思考の輪は回り始めない。それも二輪でないと効力が出ないのです。まぁもっとも情報化という定義は、ぼくがここで勝手に主張してるに過ぎないのだが)

 

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さて、ここまで「情報じゃ、情報が大事なんじゃ」と言ってきたが、今度はその正体に関して考察してみよう。思うに情報とは、一般にイメージされる数式だとか文字列ではない。またプログラムやコマンド、アルゴリズムやプロファイルなんかでもない。それらは情報が情報化されたあとに生じたカケラとか余禄である。では大元の情報とは何か。それは真にオリジナルな「事態」を示唆する言葉であろう。そう考えると具体例としての情報の最もたるものは生命体、なかんずく人の「存在」「遺伝」「真理」「魂」等々・・・という考えに行き着く。これこそがコア中のコア、すべての発生と変化の源流たる究極の事態、そのカタマリであるからだ。情報は、人である。

 

それに対して、対象化された相似形としての情報化、その権化はなにか?それは言語や宗教、学術に制度、法律や貨幣といった、人と人との間を取り持つモロモロの、そしてのちには人を乗っ取り支配・操作してしまう勢いの、後付け影のことである。

 

だがむしろこの「影」の方を「情報」と取り違え、疑いもなく信じ込むところから、人と社会の間に異和や軋轢が発生してくるのではないか。

 

(余談だがこの構図こそは、傑作アニメ映画「攻殻機動隊」(1995)の底流をなす世界観、監督押井守の生涯テーマである。現実と虚構の差をあいまいにする押井独自の映画話法は、本質をあぶり出したい彼の想念がかろうじて産み落とした「ひずみ」「よどみ」のようなものに感じられるのだ)

 

現代のようなコピペ全盛の時代においては、情報の真偽は一次情報にまでさかのぼって検証するようになどとよく言われるが、これは「情報化」の位相まで進んだあとの話であるから、一次つまりオリジナル(と思われてるが実は非オリジナル)までさかのぼったと思っても、まだ情報化の枠内であって本家本元には到達していない。一次とかソースだと思ってても、そこも傀儡やマボロシの領域なのである。しかもその領域は、すでに恣意性を含んでる可能性のあるゾーンである。対象化にはノイズが混じるものだからだ。

 

例を挙げると例えば恋愛。恋愛の話を百万回聞いても、それは情報化の波に洗われてるだけであるのに対し、自分が経験するたった一回のリアルな恋愛は、それら事前の見聞をはるかに凌駕する。これが「情報の起源」である。で、そのリアルな恋愛を対象化し、例えば「大恋愛」「熱愛」などと安易にも名づけて5chなどに体験談をアップしたら、それが「情報化のはじまり」である。言うまでもないが恋愛には大も小も温度もない。だから、たった一文字「大」や「熱」という形容を追加しただけで、傀儡は本筋からわずかに逸脱し始める。さきほど「正解のない伝言ゲーム」と言ったが、それはこうしてスタートする。その後におけるこの種の錯誤の重層的積み重なりが、人に何をもたらすかはここで申し上げるまでもない。

映画「燃えよドラゴン」ラストシーンにおける「鏡の間での決闘」みたいなものである。敵だと思ったら鏡に映った姿だったという蜃気楼、その幾重にも連なった仮想のイメージ。

 

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さてここで情報と情報化の構図をひとしきり説明したところで、この図式は何かに似てるなと思った。つらつら考えるにどうもそれは音(サウンド)の概念とおなじなのではないだろうか。

 

だれもいない森林の奥で木が倒れたら音はするのか?という問いと同じ。つまり、木が倒れれば空気の振動(=情報)は生起するが、それを音と認識する(=情報化)のは人間だけである。従って誰もいない森林では「音」はない。いや正確に言えば、音を「音」と認識する主体が不在であるがゆえに、音は存在し得ない。

 

このことから察するに、情報は情報化とそれを等分に評価する主体があってはじめて存立する。ここで話はもう一段、上位階層に足を踏み入れるが、この評価にかかわる一連の考察過程を、知性と呼ぶのである。知性は磨いてなければならないが、磨かれ得ぬそれは現象体の情報化の方に、いとも簡単に引き寄せられて固化する習性があるようだ。まるで砂鉄と磁石のように。情報は希少な上に見えづらいが、情報化はきわめて多彩に存在する上に、いちいち目立つ。

 

しかしこのとき留意せねばならないのは、言葉(情報化村に所属する要素)でしか論理を構築できないことに象徴されるように、情報化を方法論として駆使せねば、人は何も見ることができないってことである。ぼくらは情報化の際にこぼれ落ちたカケラ(それを名付けるならば「情報化情報」!)をたんねんに拾い集め、ひとつひとつそのカケラの優劣を審議し、いいものだけたぐり寄せ、曲がりくねってでもブカッコウでも、とにかく自分なりの小道をこしらえてからでないと、情報の本丸にたどり着けない。つまり情報と情報化情報(笑)は、逆説的に相互依存しており、いうなれば情報なくしては情報化はなく、また逆に情報は、良質な情報化を通してしかその姿は見えない、そんな仕組みになっているのである。

 

「こんにちの高度情報化社会においては云々~」のような、いかにも既知既成の一般論には、詳しく検分すれば、実はこうした齟齬が隠れている。一般論は、聞かされればいちおうは納得して話は進むが、はて情報とは何ぞや?情報化に意味はあるのかと疑念を抱かば、とたんに停滞が訪れる。

 

だがその疑問による停滞が、自家薬籠のようだが、はからずもその情報の本元に歩み寄ることのできる、たったひとつの道なのだ。そこで道標になるのは、上に述べたように情報の蜃気楼の方である。知は疑からはじまる。疑とはすなわち人の営為である。まぼろしすらも栄養にしながら営為はすすむ。

 

情報と情報化のように、あるいは音の発生源と音という現象認知のように、いっけん同じように見える認識を腑分けすることで止揚し、そのひとつ上を行く本義に迫るのは、人の持つすぐれた能力の一高峰である。人は、ひとりひとりが異なる情報所有者であり、全宇宙の中で唯一のオリジンである。情報化の断片、ススだらけになってしまって極端に見通しの悪い世間を、フォグライトどころかスーパービームでスパーッと切り裂き、キリリと孤高に照らす真の情報と知性は、誰であろうあなたしかいない。

 

照らす光があれば影がある、作用があれば反作用がある、男と女がいる。そこを疑念し、隠れてる二項をかき出し分け入ったり、場合によっては二項のうち一方を仮設し見据え、等分に吟味すること。人の知性はそれだ。この文章もその試みのひとつであり、日本語では「分かる」と「分ける」と「別れる」が全部似ているのは、そういうわけだ。

 

<了>