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お金に困ったら読むブログ

みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



ヒーローインタビューと野々村元県議。

プロ野球なんかそうだが試合終了後のスポーツインタビューにおいて、インタビュアーが選手に平叙文で問いかけるという形式が一般的になって久しい。

 

Q「6回裏の投球はピンチでした」

A「そうッスね~。なんとか1点差を守りたかったんで、必死でした」

みたいなヤツ。

 

なにがいやってあの文法が嫌いである。インタビューする側は選手の代弁者ではない。疑問があってそれを聞くなら、辛口のものであってもハッキリ疑問形で聞くべきだし、いい質問でないなと自分で思うのなら、もっとマシな質問をするために事前にでも色々勉強すべきだろう。
そのいづれでもなく、ただ選手の身になって感想を述べて、それを当の本人に投げかけてインタビューの形式に仕立て上げたつもりでいる。あんな話法は卑怯である。発言主体が、発言の責を引き受けず、はじめから逃げをうっている。
ぼくはあれを「語尾あずけ話法」と呼んで、ひそかに軽蔑しているのだ。

 

ある疑問を呈することは、その疑問を発する主体にわずかながらではあるが責任が伴う。
(こんなこと尋ねたらバカだと思われやしないだろうか…)
などと考えるから、どの言語でも「つかぬことを伺いますが…」とか「素朴な疑問ですが…」などという類の枕詞が存在している。
その枕詞くらいだったら謙虚さも感じられるので別にいいのだが、問題はその「語尾あずけ話法」の、自分で結論を出さずに相手に考えさせるという、その姿勢である。

 

これは日本語にしかないような気がする。なぜかといえば、大変日本的な甘えが感じられるから。

 

インタビュアーとしての立ち位置を、選手と相対するものでなく、寄り添うもの同化するものとおそらくは一方的に措定して行われる、あらかじめ同意が織り込まれたヌルい空間。
にもかかわらず、その発言が質問かどうかというベクトル判断すら相手に依存したまま、ただ相手のリアクションを待っている。

 

なぜかくも卑怯な会話法が、普通に定着したのか。

 

それは先に挙げた日本的な甘え以外にもうひとつ、いわゆるマスコミ側(聞く側)に、ある種類の「思い込み」があるからではないだろうか。
何の思い込みかというと、スポーツ選手に聞けることなんかかなり限定されているから、質問も限られるんだっていう思い込みである。少なくともテレビレベルでは。

 

確かに一定のルールのもとに対戦し、ミスもうまくいったのも、全部ひっくるめて過程はしっかり全員に見えており、勝ち負け結果も明白である。選手にしか分からない、微妙なマインドの変化、身体の重心や使い方、用具や芝生の感触の変化が勝因や敗因なのだろう。
そのへんは、理論としてだけならスポーツ観戦側の共通理解である。

 

そしてその選手の感覚はそれとして分かるけれど、それはあいまいすぎて、もしくは属人的すぎて、もしくは特殊すぎて言語化になじまず、また試合直後の高揚感の流れの中での会話にも似つかわしくない、というのがインタビュー側の勝手な思い込みなのではないだろうか。

 

したがってヒーローインタビューでは感情的な部分だとか、試合の流れみたいな、抽象的な部分しか話題がない(と思ってる)。
抽象的な部分だから、自分(インタビュアー)の「観測」部分の告白を、繰り返し尺を埋めるまで選手にぶつけるしかない(と自動的に思ってる)

 

そして、紋切り型の質問(いまこの喜びをいちばん誰に伝えたいですか?とか)で〆るというパターンである。

 

十年一日のごとくずっとこのパターンであって、しかも近年はコピペカルチャーの蔓延が人から思考力を奪って久しいからなのか、サラリーパーソンの画一化が極まったってことなのか、この金太郎飴のような質問ぶりは最近ますます、いよいよ、ひどくなる一方だ。
いつも同じような質問ばかりしてますから、今回は違った角度から尋ねます、なんていう、少しホネのあるインタビュアーすら、ほとんどいない。
こうなるともはやスポーツ「ジャーナリズム」などと名乗る資格なんかない、とすらいえる。

 

ヒーローインタビューなんぞは形骸化してるから、同じ様式で繰り返されていくだけだ、と思ってるならそれは大間違いだよね。

 

はっきりいって大の大人が、ましてや職業取材人が、本当にそんな程度の質問力で落着してていいのだろうか?
よくないのである。まずそこを自覚してもらわないと困る。
テクニカルなことを分かりやすく、努力して自分なりに言い換えるだとか、野球とは何か、プロスポーツの本質って何だろうっていつも考えて言葉を組み立ててないと、とっさに言葉なんか出ないだろう。そしてそこを研いでおくのがマスコミ人の矜持じゃないのかね。

 

さて話のステージをスポーツから社会に上げてみると、記者会見というのが一応この国際社会ではオフィシャルな見解の場ということになっている。
ひとつの問題が起きると、その業界は何であれ記者会見での釈明・説明がひとつの区切りになる、と考えられている。

 

ところがその会見とは、あのヒーローインタビューのように、単なるアリバイ工作に感じられることがないだろうか。なんかいい例が思いつかないんだけれど、つまり、(規模や主催はどうあれ)会見を開催したというポーズだけで終わってしまうような場合である。

 

会見なら何であっても、大切なのは会見の体裁ではなくその中身であるし、もっというと、質疑応答部分が最も核心である。そこをヒーローインタビューのような流しの感覚の延長で乗り切られると、釈然としないのである。

 

こういう割と目に付くところで、イージーなレベルでコピペというかテンプレ的流しリアクションを繰り返し発動していると、会見ってのはこの程度の突っ込みでいいんだという免罪符になって、やがてそれは暗黙の基準になっていく。


暗黙となればそれは見えない呪縛となって会見の場の雰囲気を支配するようになる。そしてみんながみんな、隣の記者の顔色や、会見場の主催人の反応を気にして、ありもしない空気に左右されるようになってしまうんではないかな。特にこの国では。日本人を46年もやってるとぼくからすると、納得できる光景だ。

 

一足飛びに結論だけど、これが滅びに至る道なんだね。なぜならこの傾向こそが、自分が本当は何を欲し、何をしたいのかを自問自答する、その主体的で根源的な力を根こそぎ吹き飛ばしてしまうから。

 

野々村元県議の話題が久しぶりに数日前に出て、あの号泣会見を再見したけど、あれが滅びに至る人の崩壊場面だ。
何度見ても、背筋に冷たいものが走る映像だよね。

 

ヒーローインタビューの空虚さと、同じものを感じた次第です。

 

<了>