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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



なんにもしないことへの、忍耐を養う。

<想いを馳せながらたたずむこと>

 

好きな人に会えなくて、SNSとかLINEでつながってても、ものたりない。


風呂にでもつかりながら、その人のことをぼんやり思ってしまう。暮れなずむ。


それが「想い」であり、それは人の情感の正体であり、根っこでもある。

 

人が人を「想う」とき、その対象者は必ずしも現場にいなくていい。
いや、こう言ってもいいかもしれない。「想い」の熟成には、可視化できる対象者は不要、いやむしろ「見えない」方がよい、と。
はるかかなたに、ぼんやりとかげろうのようにたたずんでるあのひとに、思いを馳せる。もう逝ってしまったあの人、一度会ったきりで名前もしらず、従ってもう二度と会えないであろうあの人。
こうした一見受け身で弱々しそうな態度が、人の可能性を切り開く。
ぶざまでウジウジしててさまよってて、明快でなくて混沌とした中に、答えめいたものがある。


どんなに医学が進歩しても不治の病は残るし、新手の不治の病は現出してくる。
どんなに生命の解明がすすんでも、いのちをクリエイトすることはできない(クローンというのはコピーであり、創造とは違う)
どんなに文学が書き連ねられようと、人工知能AIが進歩しようと、それらは外濠のもので、本丸である人の生は不可解なままであり、掘り下げれば掘り下げるほど、正体不明感が増すばかりである。


国会図書館がどんなに蔵書で埋まっても、また本屋がどんなに大型化しても、ネットコンテンツが兆の単位を超えても、本当の知の源泉はその巨大迷路の中で散逸したままだ。
「想い」が人類にとって正体不明である限り。

 

人が、その生にその感性に足かせをハメていくことが「社会化」の正体なら、人の生は、足かせ以前の未分化、未固定化の領域にこそ、隠されている。
だから、たとえばうつ病などは、その2つの世界の「引き裂かれ」具合に、繊細なハートが耐えられないことからくる、精神の悲鳴なのではないか?などと勝手に考えてもみる。
「うつ」に関しその考えに立てば、うつ病に対して薬やカウンセリングなどの、外部から与える系の処方箋は、お門違いもはなはだしい。正しく途方に暮れることが、唯一の対応のような気がしてならない。

 

人は、生まれてからこの方、1秒1秒老いていくが、それは同時に、剥けてきてる鈍化していってることと、おそらく同意である。

 

ただただ「想う」。そのヒーリングパワーの前には、どんなパワーストーンもパワースポットも問題にならない。

 

なんにもしないことへの、忍耐が問われているなう。

 

<了>