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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



過去のものには福残る。泥船状態の民進党へのレクイエム。

一方的に発散するように、前のめりにイケイケ・ドンドンで、仕事を推進することは、たとえば新製品の拡販などを考えれば分かるように、ある意味カンタンなことである。良く言えば熱意、悪く言えばノリで、一気呵成にやってしまう方がラクに決まっている。

  

え?カンタン?ラクチン?何を言ってるんだ。お前は仕事の苦労もリアルも、まるで分かってない!というお叱りはありそうだ。

 

でも、じっさいラクなのだその方が。なぜなら新規なものへの没頭は「細かさ」を必要としないから。何に対する細かさが不要かというと、既存の客や事物に対するそれである。

 

いうまでもないが戦争でも紛争でも選挙でも、ムズカしいのは撤退戦やあと始末の方である。音楽におけるベースの役割や、野球におけるキャッチャーの意義が超大事なのと、まったく同じことである。

 

新製品の例でいえば、前機種の終了フォローをきっちりやり遂げることである。つまり過去の顧客へのサービス「店じまい」である。それをうまく終了させられもしないで、いつの間にかあいまいに、なぁなぁに、もしくは一方的に高圧的に、事態を終わらせてしまうことが世には多い。つまり、終わらせ方に理がないし、終わり方の検証もないから、修正もない。何かが終わる、そのときには外部から指摘されなくても、撤退のための部署なり担当をつくって、そこで後始末に専念させるのが、自社製品への本当の誇り、愛着、ユーザーへの感謝であろう。それは巡り巡って自社のためにもなろう。後始末でケリをつけねば次への飛躍はさらにむずかしい。

 

だからこれはセンスの問題でもある。センスとは、他者への配慮である、すなわち今までの顧客への礼節である。そしてそうした地味な作業の中に、意外と新しいものへの契機が含まれているものだ。

 

終らせ方にスジが通ってないというその末路は、いまは新規のモノも、やがてはそのように運用されることをも、暗に示している。過去のワープロがそうだったように。東芝のRupoもシャープの書院も、撤退してから十数年。今ではメーカー本体が苦しいという事態になっている。

 

このように生産終了製品を、その終わらせ方をコミコミでじっくり検証していくと、その法人や集団の特色、傾向が良くわかる。ヘタな企業研究や会社四季報なんかよりも、よく分かる。何かが終わったからと言って振り向きもせず、「行動力が大事」とか「改革!」などといって新しいものにホイホイ軽率に乗り移っていくのは、実は宝の山の放置に等しい。新規への没頭は怠慢であり、ダイヤモンドはゴミの中に落ちてるものだ。

 

さて民進党もいまや泥船。ぶざまな終わり方で沈没しそうだが、終わったらその検証をしないとな。

 

追記:都知事のように選挙で改革を訴えることは派手に見えるがその分陳腐である。ナゼならその前に、以前に施行された「改革」とやらの吟味や検証があるはずだからだ。それは地味な作業であろうがその効果測定をすっ飛ばして、新規の改革を謳うことなど、上に書いたように安直のきわみではないだろうか。「リセット」など、「セット」当事者の痛みを見ようとしない人がいう、軽率な言葉だ。

 

<了>

音楽でできること―Live From Daryl's House-「Say It Isn't So」


Live From Daryl's House- Say It Isn't So

 

すべての音楽は特有の温度圏を持つ。プロだろうがアマだろうが、自作だろうがカバーだろうがヒットしようがしまいが、曲はチューンは全部、個別の体温を有している。曲は人そのものであり、同時にメディア(媒介物)だから、そうなるのも当然だ。

 

ロックだと熱い方面の曲が多いが、「温度」を伝えることは、音楽の最も重要なメッセージのように思える。むしろ音楽は、温度(いいかえればヴァイヴレーション)の伝達しかできないといってもいい。それがゆえに音楽は偉大だ。著作権などは「温度」の前では単に言い訳に後退する。アガるテンションの前で制度は無意味だ。

 

リンクに貼ったこの「Say it isn't so」は80年代中期の洋楽ヒット曲だが、実は世の中の曲にはめったに聞かれない、微温帯の音である。そしてひんやりとクールな感触が土台になってはいるが、ヴォーカルや演奏次第でホットに変容する、自在な曲でもある。


ソングライターなら嫉妬を覚えるようなニュアンスを、元から秘めた曲だと思う。休符やミュート、音が絶える瞬間にすべてが凍り付いて定位される。音の宇宙はなにもないところにこそある。人生と同じである。

 

メガネもヒゲもハットも、すべてがスタイリッシュにキマったゲスト、ブッチ・ウォーカーの、聞かせどころをよくわきまえたパフォーマンスのおかげで、この曲の持つ、それこそ70年代後期のスティーリーダンくらいでしかお耳にかかれない、特上の微温圏がよく堪能できる名演である。

 

明日を淡々と、粛々とこなすのに申し分のない、微温系。


世の中に音楽はあふれてるが、こういうポップに覚醒したものは、ほとんどない。ぜひ聞いてほしい。

 

<了>

 

ひとから嫌われないコツ

やせましたね太りましたねハゲましたね

 

結婚してるの?結婚しないの?子供はいるの?

 

僕は会話でこういうタイプの言葉を相手に投げかけることは、極力しないようにしている。めったなことでは年齢も聞かない。どんなに親しい人でも、その人の属性や、不可抗力的な部分に言及することは、大きなお世話だからである。また、答えを聞いたところで、どうってことはないからである。

 

言葉を発するなら、

 

調子はどう?

元気だった?

久しぶりだね

 

これだけだ。

 

あとは相手の言葉を待ち、沈黙の試練に耐え、それを受け止めるだけでいい。これだけで、あなたは周囲から「感じのいいひと」という評価が得られること請け合いである。

 

相手に関心を持ち、積極的にかかわろうと質問をする、この磁力から逃れることは難しい。だがそのひとことは相手にとって、たいへん高い確率で「よけいな一言」である。テーマが何もない会話や、くだけたおしゃべり、とりつくろうような言葉が必要な会話ほど、そうした「よけい」が出やすく、したがって災いの元となる。

 

「なにか話したいと口がムズムズするときは…明日のことを話せ」-映画「レザボア・ドッグス」(1992年)より

 

これが秘訣だ。

 

<了>

 

 

曜日の感覚を疑う。ハウンドドッグとジョントラボルタをネタに。

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陶酔しきったヴォーカルの顏、セルフパロディーとしか思えない。1985年、西武ライオンズ球場でのライブより。

Hound Dog「嵐の金曜日」(オリジナルは1980年リリース)

 

 

曜日の感覚を疑う。

なくなったら生きやすくなるもの、そのひとつは曜日感覚だと思う。

 

普通は逆に思うだろう。曜日感覚が薄らぐことは、大げさに言えば社会からのドロップアウトを意味するからだ。

 

でも、やっぱし違う。曜日感覚は、曜日という覆いを時間にかぶせてるだけだと思う。

 

毎日、というのは巡る日々であるだけで、それ以上でも以下でもない。「曜日」は後付けで生成されて、西洋という外部から付与された公準だけど、宗教由来だけあって日の本質をあいまいにする覆いだ(宗教はぜんぶ目くらましだと、ぼくは思ってるんだ)。日に意味を持たせるのは、曜日ではなくぼくらである。日々の違いを充実によって際立たせるのは人間にしかできない。それが僕ら一人一人に託された、本来的な「仕事」だ。

 

こないだあるところでハウンドドッグ(という昔のバンド)の「嵐の金曜日」というヒット曲(上のYouTube参照)を聞いたが、まったく聴くに堪えなかった。情緒べったべたの、聞き手に甘えきった歌で、体裁はムダにドラマチックなロックバラードだが、内実は演歌だと思った。

 

どこが甘ったれた歌かというと、サビにもなってる「Friday night」という部分に象徴される、おそらくは無意識の、「金曜」への依拠である。金曜という単語の持つ、いつもと違う週末感とか、ちょっとした冒険への淡い期待などといった記号性、情緒性によりかかって気分的に世界観を出している。しかも「きんよー」と日本語で直接言わず、Fridayなどと外来語を使って迂回してるのがまた小ズルい。ライブなんかだと大熱唱になって、暑苦しいことこのうえない。

 

うたで自分の実感を吐露するなら、なんにも頼らないで、自分の編み出した歌詞で歌うべきだ。単語についても「嵐」くらいなら修辞法として分かるけど(「嵐」なら情緒も記号性も付随してないから)、「金曜」を出してはダメだな。だから、僕が作詞するなら「嵐の日」とかになるな笑

 

記号性に奉仕する発想が曲の根元にあるから、曲調もバラードのイメージを忠実にトレースしてて安全圏内での曲作りって感じだし、太い音のフレーズであいまいに流しながら空疎なドラマをおっ建てるしかないんだな。

 

ぼくらに必要なのはなぐさめあう情緒ではなく、ドライに対象化された冷徹な意識である。

 

曲に罪はなく、好みもひとそれぞれだが、それだけにあの曲の持つ甘えた幻想はあいまいさゆえに拡散しやすく、その麻薬のような連鎖構図はほとんど犯罪的だ。

 

ハウンドドッグなぞ、最初から歌謡曲バンドだと思ってればいいのかもしれないが、「嵐の金曜日」以外のヒット曲にもロクなものがない。甘えた幻想を垂れ流し、ロックの衣で商売してたそのやり口は、パフォーマンス本来の品格をひずめてて、過去のバンドながら賛成しかねる。この、偽物に語らせるようなエセ・ロックスタイルは、誰が始祖なのか知らないが、商売するには便利なのでB'zなんかに連綿と受け継がれている。

 

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曜日に関して言えば、別の日に見た「サタデーナイト・フィーバー」という映画もゴミだった(これも40年くらい前の大ヒット映画)

 

ストーリーは、平日は単純で面白みのない労働に束縛された若者が、週末のディスコでは開放され華麗に踊り舞い、限定された空間の中だけでヒーローになる。そこで主人公にハプニングの数々が降りかかりそして…といったもので、いうなれば陳腐。「嵐の金曜日」と変わりない。

 

どちらも要は、金曜とか土曜とかの曜日に、意味や根拠を求めてるのである。「サタデーナイト・フィーバー」だと、平日の工場なんか自分のいるところじゃない・週末にしか自分の居場所はないと思い込むその短絡。ディスコとか週末とか、外部が用意してくれた環境の中でだけが、自分の輝く場所だというその根性。

 

まったく気に入らないね。いつどこに逃げたって、おんなじにきまってるじゃないか、自分が空虚である限りは。だから僕の感覚だとそうした現実逃避のむなしさに向き合って、丁寧に作劇していくのが、ほんとうに実感のこもった、優れた映画表現になりうると思う。

 

「嵐の金曜日」とか「サタデーナイト・フィーバー」をやり玉に挙げたけど、曜日はたんなる区別記号だと気が付けば、同じようなものは世間にいっぱいあることに気づく。「一服の清涼剤」とか「純文学」とかね。

 

こうしてぼくらは、催眠術にかかってるように麻薬漬けになってるわけだ。

 

自分の依って立つは暦などの記号性ではない。流行歌や映画は、いろんなもののイメージを拝借してまるでほんもののようにスリ替わってるだけで、その洪水の中で真の表現を見つけることなんかほんとにまれだ。

 

だからせめて君は、表面イメージに自分を溶かしたり、丸め込んではいけない、あいまいにとどめおいてはいけない。ぜんぶ自分ひとりの問題だ。

 

曜日の感覚をなくすとひとまずは社会生活に困るかもしれないけれど、すくなくとも曜日に付随するモノを疑うクセを身に付けてないと、もっと困ることになるよ。

 

<了>