お金に困ったら読むブログ

みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



お盆のまんなかで、愛を語る

「地球の中心で、愛をさけぶ」なんて、激薄の水増しウイスキーみたいなベストセラーがあったが、ひどい話である。なぜなら自分中心のああいう発想が間違いであって、それが自己疎外の元凶だからだ。あそこで主張される「世界の中心はどこだって自分なんだ、自分を信じることこそが大事なんだ」という甘~い、そしてある意味耳タコなスローガンは、実はゴーマンさの隠れ蓑である。ベストセラーだけあって論理的な誘導が巧妙だが、そこにだまされてはいけない。

 

世界の中心=自分ではない。自分が世界そのものなのである。みんなその点のみにおいて平等なのである。世界とは、ずいぶん漠然とした言い方だがこれだけは断言できる。つまり世界とは地図になったり、天体として観察できるもんじゃない。会社の延長でも国家体制でもなく、ニュースのネタになったりするものでない。世界とは言ってみれば空気、そして関係性の平野だ。つまり、目に見えないものだ。だから自分と他人はおんなじ、世界の出先機関なのだ。愛を言うなら愛はそこにしか生じない。それ以外の、いわゆる「愛」はエゴの妥協と、孤独からの逃避である。

 

また、叫ぶのは愛を認めてほしいためじゃなくて、愛を偽った自分をアピールしたいから、要はかまってほしくて叫ぶのである。ないものにカタチを与えて視認したいから、わめいたり泣いたるしてじたばたするのである。

 

いまはお盆期間だが、あっち(彼岸)とこっち(現世)を分けるのも間違いだ。墓参りはあっちもこっちもつながってるんだってことを確認する儀式だと、捉えなおそう。

 

<了>

ブックマークをください

いきなりだがこのブログは、開設して2年余り、他のネット記事では読めないようなことを、出し惜しみなく全力で書いているつもりだ。だから有料のProコースを選択し、独自ドメインを付けている。前にも書いたがこれは自分に対する「重し」なのだ。

 

そして他では代替不可の、おなじように全力投球の、真に読むに値するblogもとうぜん存在してるはずだが筆者のアンテナには引っかかってこない。

 

当ブログのアクセス解析によれば、記事の離脱率はたいへん高い、もしくは回遊性が低い。また、そもそものアクセス数も1日せいぜい2ケタ台であり、なおかつその半分くらいはロボットによる自動巡回やロシアの検索ポータル、Yandexからのアクセスである。

 

このことにかけての責任は執筆者である僕に100%ある。キャッチーなことば、斬新な論旨、ビビッドな表現に欠けているからダメなのだ。これに関しては独断に満ちたこの生硬な文体がネットやブログの流儀に合わないからダメなんだ、なんて考えたこともあったが、そんなのは言うまでもなく、僕の甘え、言い訳でしかない。文は中身で勝負するしかないではないか。アイキャッチ画像を付けるのも、言い訳がましい感じがして、いつしかあんまりやらなくなった。

 

だから、どうぞささやかなる以下のお願いを聞き届けて欲しい。それはこのブログの過去記事が1行でもあなたの胸に刺さったのなら、気軽にブックマークをしてほしいということだ。そのことによって、僕自身が、先に書いたような真に読むに値するブログにリーチできる可能性が出てくる。それはあなたにとってもそうだろうと思う。

 

はてブとは、見知らぬあなたのソウルメディア(=書いたもの)に触れる羅針盤になりうるし、自分への拡大鏡にもなる、そんな優れたシェアシステムではなかったのか。

 

そんなことを思う毎日である。

 

<了>

「倍率」とはなにか

就職、試験、資格、入学等々、定員のある枠での選考なら競争が付きまとい、その度に世では倍率なるものが取りざたされる。

 

しかしある関門を通ろうとする際、人はいつだって自分×1倍でしかなくて、合否なんぞはその結果にすぎない。

 

この、いわば当事者意識をなおざりにして、一般概念としての倍率とやらに思考の座を明け渡す最初の一歩から、僕らの不幸は始まっている。そこで自分が消えてしまうから。人の世は、キミがそれをやるかやらないかだけだ。または続けるか、やめてしまうかだけだ。

 

知り合いに小説家志望の者がいて、どこぞの文学大賞へ応募して入選するんだと張り切っている。それでは、ということで書き上げたものを読ませてくれと頼むと、一編も書ききったことがないから見せられない、というのだ。

 

だから私は、彼はそのうち文学大賞への合格率を計算しはじめると踏んでいる。彼の中では「合格」がゴールであるからだ。そのうち効率化の名のもとに、入選作の傾向と対策を分析しはじめるかもしれない。入選作でよく使われる語彙や世界観を抽出し、それを再構築する「科学的」手法で「文学」に対処する、そんなコピペ人になるのではないか。

 

そもそもその関門が君にとって本当に、突破するに値するものなのかの検討こそが、いっとう最初に必要だろう。皆が賛同するものとは、上に述べた一般概念の産物である。したがってそいつはロクなものではない。「進路」とて、例外ではない。

 

それそのものを指向する態度。数値や一般論に還元されうる「覆い」には惑わされない姿勢。個性などというが、ほんとうの自分はそうした追求からしか出てこないように思う。

 

<了>

自分で自分に対し「台風」を起こせるか

人は全員が普遍の結晶体である。だから普遍的なものいい物言いをするためには客観性を排除し、思いっきり裸の自分という純粋私感の地平から表現するのでなければ、何も言ってないに等しい。

 

いまいちど言う。地上の老若男女は、一人残らず普遍の結晶体である。通俗的に言えば、全員が神様である。その基底想念を抜きにした自由平等博愛なぞ、すべて泥人形の紙芝居である。また紙芝居だからこそ、感情や人柄、人間関係、右翼や左翼や共産主義などのイデオロギーにうつつを抜かしていられるのだ。立場の違い?思想の相違?「立場」も「思想」もそもそもこの世にナイ!つまりこれは逆に言うと「操り主」がいるということである。それは誰か?

 

誰でもない、それはあなた自身だ。正確に言えば、みずからの内なる「思い込み」である。既存の基準への迎合である。

 

笑っちゃうぜ革命だと?革命とは、指導者がいずこより来りて、万人の理念を肩代わりしてくれるなんてことではない。真の革命の成就とは、一人一人がしっかりすることしかないしそれで充分である。

 

笑っちまうぜ勉強だと?過去の既知を寄せ集めた教科書を一心不乱に、マジメーに読みふけることなど、勉強でもなんでもない。また、何かの観察研究に没頭することも勉強ではない。そんなことでは先に書いた「思い込み」、つまり前提や先例、比較の奴隷になってしまうだけだ。偏差値、志望校、成績に学歴…その後にストレートに続く勤め人生、年収の多い少ない、勝ち組負け組…勉強の先に待ち受けてるのはそんなものだ。普遍を背負ってるあなたにとって、そんな最下位項目に意味などない。

 

真の勉強とは、ものごとの根源にまでさかのぼって、過程をヒネッてみたり、要素を裏から透かしてみたり、物体をバラバラに破壊してみたりしながら自分で発見していくことだ。冒頭の文も、そうやって書いた。きょうかしょやけんきゅうとは、その真の勉強に供するための養分や補助輪にすぎない。「そもそも」や「だいたい」を筆頭語にしてからが、ほんとうの思索の始まりだ。

 

夏だ!台風がいっぱい大気をかき回してくれる。成層圏まで届く、自然の大規模攪拌だ。それはときに暴力的なまでに強制的に、地表を新陳代謝してくれる、そんな地球の荒療治だ。

 

ぼくらは自分に対し自分で「台風」を起こせるか、「台風」の目を頭の中に飼ってるか。いつもその1点のみだ、大事なのは。

 

<了>