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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



努力するのは無条件にいいことか。

toianna.hatenablog.com

「スゴイ!」とか「楽しい!」を求めるだけの人の末路をいつも残酷に描く、トイアンナのブログを読んだ。このエントリーを読んで考えたことを以下に書く。

 

周囲からがんばり屋さんと思われてる人はいつもいる。頑張りと、それに対する評価は肯定感の象徴みたいなものであって、世間ではそれは人間性の優秀さや真価として認定済みだ。冒頭にリンクを貼った新入社員の自殺話題でまた株を下げた、電通のような有名会社では、いわゆる頑張りは特に無条件に肯定されていそうだ。長時間職場奉仕 or 滞在(長時間「労働」ではない)と共に。

 

しかしぼくのような非エリートの飲んキャリア、ヒネクれ怠慢オヤジはいつものように水を差すのだが、問題なのは当のその努力が、いったい何を目指してのガンバリなのかってことだ。その原点忘れてないよね?っていうことをいつもネチネチ確認したい。

 

言うまでもなくこの点がもっとも重要で、この点に稚拙であっては、あなたの生涯は格好の搾取元に堕するだけである。

 

個人がひとりでガムばってる間は、ガンバリの効果など限定である。その一所懸命さが本気のレベルまで到達するなら話は別だが、余暇時間にジム通いやヨガに精を出す人は自分しか眼中にないものだ。その同じ人が、オフィスでは案件を右から左に流したり、社内メールをパスワークすることや、外部のご機嫌取りに充足感を感じるのは、よくある光景。けどいうまでもないけど、そんなの仕事っていいません。

 

「閉じたガンバリズム」は、ご存知のようにむしろヤケクソ自死の要因になる。先の戦争における玉砕戦の正体が、そうであったように。

 

がんばりは目に見える(あるいは見せる)ことが多いミラーリングみたいな世界だが、怠惰といつもセットになっている。その怠惰の方は、いつも可視化できないところに巣食うものであって、それがガンバリの影の本体だ。つまり自分の生に怠惰な人ほど、目の前のことや既定路線に、一心不乱にガンバれるのだ。逆に言うと真剣な人ほど、気負わないものだ。で、本当の努力とは、ミラーの存在を感知し、ミラーにまっすぐ突き刺さってゆく行為だ。別サイドにまっすぐ、一心不乱に到達すべきものだ。核心をいつも掴んでるという、濃い実感を伴うものだ。力む姿勢のすぐ隣にある、似て非なる動態のことだ。

 

わからん人はもう読まんでよろしい。

 

機械やソフトを操作運転すること自体は、仕事でない。仕事を完遂するための手段だ。だから操作者=仕事人ではない。会社運営だって具体人の行う、組織操作の手段である。そこでは目的は見失われがちで、実体のないガンバリズムが跋扈しやすい。「広告」を「代理」するという、2重の蜃気楼を追うことが仕事になってる会社なら、特にそうである。だから接待とか人とやたらミーティングするとか、生きるのにまったく不要なものが仕事たらざるを得ず、かつそれが確固たる業務だと錯覚でき、ひいては努力対象となってしまうのだ。冷静に考えれば疑問だらけの職場じゃないのかね。エリートなら、そこに気づく真のエリートであってくれよ。おまえの生は、おまえだけのもんじゃないし、人は何かするとかのために産まれてきたんじゃない。個人は人類みんなとイコールなんだから。

 

<了>

 

全員加害者社会。

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ゴジラは人間のメタファー。庵野総監督が「シン・ゴジラ」で描きたかったメッセージはそれだと思う。 *仙台のゴジラ展で筆者が撮影。

 

 

I put a spell on you. 呪文をかけちゃうぞ。

 

愚痴は野暮だ。愚痴は社会の成員たる自分を、蒙昧の中に置き去りにする、そんな「呪文」のようなものである。

 

よく聞く呪文はこうだ。「渋滞にハマってしまった」や「グアムやハワイに行くと日本人ばっかり」(←これは日本が羽振りのよかった時代によく聞かれたグチ)、「おかしな世の中になりましたね」「現代の日本人が忘れてしまった美点」「渋谷の人混みにうんざり」等々。これらの嘆きは、ほかならぬ自分の行動が、その総体現象のまさに当事者、因子になってることに対して、うかつにも盲目である。見ることと見られることは、対になってはじめて知として機能する。

 

おまえが渋谷に行かなければ、混雑はお前一人分減るのである。どうせ大した用事もないのに楽しげなことを求めて物欲しげな目でノコノコ行くから、あそこでは前からロクなことが起きんのだ。

 

また「日本人の美点」とやらは、同じ日本人であるお前自身がしっかり保持してれば、お前にとってそれで十分である。

 

盲目という言葉を遣ったが、正確に言えば、人はその呪文の構図に気づいてないわけではない。皆うすうす気づいている(はずだ)。なのに、呪文に正面切って向き合わないという態度が、グチやボヤキの裏舞台になる。「ま、それはそれとして」という、この、自己を棚上げした空想土俵での、すべてをヒトゴトに帰したうえでの評論心理。

 

で、この心理が人の膏肓に入ると、どうなるか。

 

2014年12月に起きた名古屋大学の女子学生による主婦殺害事件などが、最近だとそのこじらせ結果の一例である。報道によれば「人を殺してみたかった」と思いつづけて実際殺し、達成感すら得たとかいうあの女子大生の持つ歪み。文字情報からの断片的な判断になるが、いかなる量刑をもってしても絶対に埋め合わせのできないあの実行犯の空疎な心。どんなに心理学の知見を持ち寄っても、はたまたどれだけ犯罪分析を積み重ねても、プロファイリングを始めたとたんに盲目に帰してしまって分からなくなるあの機微。あれがまさにわれわれ現代人の醜悪の代表であり、あるいは加藤智大も、あるいは酒鬼薔薇聖斗も同様である。対処法は犯罪研究などというチンケな、高見からの見物的な姿勢からは、ついぞ出てこない。お前もわたしもどんな人格者も、現代人ならみな、人殺しの素因を抱えている。グチらない人などいないからだ。こどものイジメと、いじめに見て見ぬふりする周囲は、殺人の初期発露である。

 

犯罪など凶悪なものであればあるほど、すべて人心における最初のボタンの掛け違いからはじまっているのだから、その初源の「掛け違い」の瞬間を押さえなければ、あとはぜんぶ結果論であり、今後に対するなんの抑制にもならない。それどころかそこをとり逃がすことは今日も明日も次の不可解殺人の芽を、みんなでせっせと育てているも同様なのである。これからも、いくらでも驚愕殺人は起こる。

 

したがって、やや飛躍して言えばこれは戦争の真の原因なんである。

 

(ぼくは旅行や観光という言葉や概念が、積極的に苦手である。それらを仕事の言い訳にするなんてズルいぞ!)

 

このブログでは同じことを何度も書いてるがまた繰り返すと、自分とは世界である。すべては不可分な生命事態の発動と継承、そして拡張だ。自己と自己以外の事象に境界線はない。だのにそこを無意識に切り分け、かつその分離に対して自省しないどころか、そこの吟味をすっとばし、一足跳びに研究対象にしてしまう態度は事物の、あるいは他者への抽象化・概念化を安易にもたらす。その方が納得も説明もしやすいためである。

 

すると切り離された抽象は容易にグチの温床となり、「対物」場合によっては「敵」に転ずるのである。そうなれば、対象になにをやらかしたってかまわんだろう、となる。ラットによる生態実験を許す土壌は、こうして生まれる(モルモットとは、なんと無益でなんと思い上がった生命への取り扱いか!)

 

また同時に対象物の研究に没入することは、自分に引き付けてものごとを考えない限りは、自分自身の成長に寄与しない、どころかオトシめる。自分自身を棚上げすることは、思考停止によって空疎になることと同義だ。ヘイトスピーチがああも醜いのは、その盲目の噴出現象だからである。そう、ここでも見ることと見られることは対になってはじめて「見えてくる」、つまり機能する。さもなければ、「見るだけ」は人を無限に疎外していくだけだ。「見て見ぬふりするイジメの周囲」とさきほど書いたが、その不幸な構図がそうである。ラットやモルモットと変わりがあるか。

 

「研究」などない。お前の魂以上の宇宙、不思議、神秘、森羅万象は、どこにもない。みな生命の当事者だ。いつまで傍観者気取りで惰眠をむさぼるつもりだ。不幸や病気に対してさえ、敬意を払え。すべての平等概念に基づく法整備は、この認識から始めなくてはならない。全員加害者、All rights reserved.

 

<了>

 

 

規範とは、いったいなんなのだ。

 

正直者は損をする~情報「解禁」とは何か

 

情報に関しインターネット時代になっても続いてる誤解のひとつが、情報とは本質的に拡散してしまうものなのに、解禁日という閉鎖的権威の線を引くことが今でもある、って点だ。昔から噂ばなしは、かん口令を引けば引くほど漏れるし広がるものである。

 

情報解禁の発想は、商品の売買でいえば発売日の設定に似てるだろう。

 

たとえば13年ほど前までぼくは音楽CDの流通会社に勤めていたのだが、就職当時に違和感があったのは、CDやレコード、DVDの新譜に設定されてる発売日(水曜日がほとんど)は、実際には1日遅れである、ということだ。つまり火曜の午後にでも店に行けば、その明日発売のはずの新譜は売ってるのだ(その会社に入るまでぼくはその慣行を知らなかった)

 

ご存知の方も多いが改めて述べると、音楽流通業界では正式発売日の前日に、商品はショップに入荷している。しかもその前日時点で販売してOKなのだ。これは業界の不文律である。

 

この不文律は、同じく発売日が設定されている他業界を考えるにつけ、異端である。例えば書籍業界。月刊誌や書籍などは店も発売日を守る。これが常識である。フライング販売に対するペナルティがあるのかどうかは知らないが、とにかく本屋はみんな発売日を守っている。当たり前だ。有名無実を前提とした制度など、茶番という別の名で呼ばれるべきである。

 

(なお月刊誌などで号数が、発売月より2ヶ月先になってるのは、発売日のゴマカシとは違う。いわば夏の盛りに秋冬ものが並びはじめる衣料店のような「先取り」なので、ここに罪はない)

 

CDやDVDの発売日フライングは、オリコンチャートへの反映や配送事情などといった業界側の構造上の都合はあるにせよ、律儀に発売日を待ってるお客さんを半ば公然と裏切る行為である。潤沢に在庫があるCDならまだいいが(いやホントはよくはないのだが)、音楽ビジネスでは例えば人気アーティストになればなるほど業界を挙げ、初回限定版で初動購入を促す商法が採用されるのが一般的であって、そうやって購買欲をアオる一方で発売日を1日欺くかのような行為は、限られたお小遣いを握り締めた、音楽ファンの多い10代の子供たちの心に、小さな猜疑心といびつな他人出し抜きの要領を植えつけるものだ。事前に予約するという手もあるが、お客さんからすれば発売日の扱いが元からアンフェアなんだから、それが予約への正当な動機付けに用いられるのは釈然としないだろう。

 

なぜCDやレコードは発売日が一日だけとはいえ、有名無実化したか?その経緯はよくわからないが、まぁ容易に想像がつく。たぶんレコードが商品流通として力を持ち始めた初期の時代は、ほかの業界と同様に発売日遵守だったのだろう。それでいて規律正しい日本人のことである、メーカーは発売前日にはキチンと店に納品していたのだろう。

 

しかしある日、大人気グループのアルバムをフライング販売してしまった店が現われ、しかもその店は、そ知らぬ顔でフライング販売を続けたのである。そうなるとほかの店は大損害である。

 

今と違ってレコードが大人気だった時代のこと。発売日遵守に法的拘束力はなく、違反店に対し他の正規販売店が抗議してもそいつは聞く耳を持たず、販売有力店なのでレコード会社も仲裁や制裁に動かず、状況はラチが明きそうもない。第一こうして手をこまねいてる間にも、そのライバル店では人気レコードが飛ぶように売れていく・・・と。ふと自店の倉庫を見ると、同じレコードは当然ウチにも入荷してるではないか、これは売ったって文句を言われる筋合いはないはずだ…

 

こうしてあっという間に、全国でなし崩し的に発売日の前日販売が定着してしまったというわけである。

 

つまり発売日前日にモノが届くことの意味を自店の利益のためと勝手に拡大解釈した店は、ルール以前に自分の矜持で販売を抑制することができなかった。そしてそれが「赤信号、みんなで渡れば怖くない」式に付和雷同的に全国拡散した。そのため建前が崩壊し、正直者(お客さん)がバカを見る構図だけが残ったのである。

 

たかが音楽ソフトの発売日の話であるが、みなが看過する小さな問題にこそ、大きな目くらましが潜んでいるものだ。この発売日フライング発祥の話などは、筆者の憶測にすぎないが、これは日本社会を象徴するようないつもの手ではないか。表面的にはスパッと白黒つけたがるくせに、手法は常に顔色伺いの及び腰的グレーさに支配され、従って方針は常に玉虫色。例外をアンフェアーの観点から追求したり撲滅したりという気骨ある根性は、常に少ないというヤツだ。

 

以上のように、ぼくらはよく本音と建前などというがその建前は形骸化しやすい。いや形骸化を織り込み済みとすら言える。形骸化とはなにかというと、理想の現実負けであるが、それはさっき書いたように一部のものの都合のいい拡大解釈がトリガーになっている(ことが多い)。良かれと思って、公平さが失われないように機会均等の制度確立にいそしんでも、ズルするやつは必ず出現する。で、そいつ一人で全体は崩れる。

 

規範とは、いったいなんなのだ。そう思わざるを得ない。

 

<了>

 

文章を「!」で締める人はだいたいダメ。

いいたいこといっぱいあるんだ!って人ほど陥りやすいんが、結論結論いっそく飛びのガチガチ文の強制連結に、文末は「!」の多用でありますな。

 

ありゃ自分しか見えてない、頭でっかちの発露です。ですので読み手にとって「!」は、まずは警戒が必要だってことの、第一目印です。

 

「!」と突きつけられた読み手の方はどうなるか?それは硬直化し、身構えし、ときに不毛さに身もだえしながら「いったいこれはどーいうイミか?」と自問する事態に強制連行されるのでありますが、一方「!」をいい放った方は宿便を出してエエ気分なのであり、読み手のことは放置プレイ。こりゃアンフェアーであります。

 

で、「!」をよく使う手合いに限って、人の意見におぶさったことや、感情の赴くままの意見しか言ってないことがほとんどで、まぁたいていは中身がなく、読むに値しない。

 

SNSなどで見てるとそんな文章の書き手ほど、アカウントを正体不明の有象無象に乗っ取られる事象が多発してます。これはやはりあれか、類は友を呼ぶというヤツか。

 

「!」は、対外的にはたま~に使う程度にしときましょ。もし連発したいなら、自分の中での新たな発見や、新規の価値観との出会いといった、内発的な方向にならいくら連発してもいいです。つか、毎日を自発的な「!」でいろどることほど、人にとって充実した暮らしはないのであります。

 

対外的な「!」は本物じゃありません。虎の威です。明示的な「!」のない、淡々とした文章は健康に寄与しますよ。人柄と同じです。

 

<了>