お金に困ったら読むブログ

みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



全員加害者社会。

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ゴジラは人間のメタファー。庵野総監督が「シン・ゴジラ」で描きたかったメッセージはそれだと思う。 *仙台のゴジラ展で筆者が撮影。

 

 

I put a spell on you. 呪文をかけちゃうぞ。

 

愚痴は野暮だ。愚痴は社会の成員たる自分を、蒙昧の中に置き去りにする、そんな「呪文」のようなものである。

 

よく聞く呪文はこうだ。「渋滞にハマってしまった」や「グアムやハワイに行くと日本人ばっかり」(←これは日本が羽振りのよかった時代によく聞かれたグチ)、「おかしな世の中になりましたね」「現代の日本人が忘れてしまった美点」「渋谷の人混みにうんざり」等々。これらの嘆きは、ほかならぬ自分の行動が、その総体現象のまさに当事者、因子になってることに対して、うかつにも盲目である。見ることと見られることは、対になってはじめて知として機能する。

 

おまえが渋谷に行かなければ、混雑はお前一人分減るのである。どうせ大した用事もないのに楽しげなことを求めて物欲しげな目でノコノコ行くから、あそこでは前からロクなことが起きんのだ。

 

また「日本人の美点」とやらは、同じ日本人であるお前自身がしっかり保持してれば、お前にとってそれで十分である。

 

盲目という言葉を遣ったが、正確に言えば、人はその呪文の構図に気づいてないわけではない。皆うすうす気づいている(はずだ)。なのに、呪文に正面切って向き合わないという態度が、グチやボヤキの裏舞台になる。「ま、それはそれとして」という、この、自己を棚上げした空想土俵での、すべてをヒトゴトに帰したうえでの評論心理。

 

で、この心理が人の膏肓に入ると、どうなるか。

 

2014年12月に起きた名古屋大学の女子学生による主婦殺害事件などが、最近だとそのこじらせ結果の一例である。報道によれば「人を殺してみたかった」と思いつづけて実際殺し、達成感すら得たとかいうあの女子大生の持つ歪み。文字情報からの断片的な判断になるが、いかなる量刑をもってしても絶対に埋め合わせのできないあの実行犯の空疎な心。どんなに心理学の知見を持ち寄っても、はたまたどれだけ犯罪分析を積み重ねても、プロファイリングを始めたとたんに盲目に帰してしまって分からなくなるあの機微。あれがまさにわれわれ現代人の醜悪の代表であり、あるいは加藤智大も、あるいは酒鬼薔薇聖斗も同様である。対処法は犯罪研究などというチンケな、高見からの見物的な姿勢からは、ついぞ出てこない。お前もわたしもどんな人格者も、現代人ならみな、人殺しの素因を抱えている。グチらない人などいないからだ。こどものイジメと、いじめに見て見ぬふりする周囲は、殺人の初期発露である。

 

犯罪など凶悪なものであればあるほど、すべて人心における最初のボタンの掛け違いからはじまっているのだから、その初源の「掛け違い」の瞬間を押さえなければ、あとはぜんぶ結果論であり、今後に対するなんの抑制にもならない。それどころかそこをとり逃がすことは今日も明日も次の不可解殺人の芽を、みんなでせっせと育てているも同様なのである。これからも、いくらでも驚愕殺人は起こる。

 

したがって、やや飛躍して言えばこれは戦争の真の原因なんである。

 

(ぼくは旅行や観光という言葉や概念が、積極的に苦手である。それらを仕事の言い訳にするなんてズルいぞ!)

 

このブログでは同じことを何度も書いてるがまた繰り返すと、自分とは世界である。すべては不可分な生命事態の発動と継承、そして拡張だ。自己と自己以外の事象に境界線はない。だのにそこを無意識に切り分け、かつその分離に対して自省しないどころか、そこの吟味をすっとばし、一足跳びに研究対象にしてしまう態度は事物の、あるいは他者への抽象化・概念化を安易にもたらす。その方が納得も説明もしやすいためである。

 

すると切り離された抽象は容易にグチの温床となり、「対物」場合によっては「敵」に転ずるのである。そうなれば、対象になにをやらかしたってかまわんだろう、となる。ラットによる生態実験を許す土壌は、こうして生まれる(モルモットとは、なんと無益でなんと思い上がった生命への取り扱いか!)

 

また同時に対象物の研究に没入することは、自分に引き付けてものごとを考えない限りは、自分自身の成長に寄与しない、どころかオトシめる。自分自身を棚上げすることは、思考停止によって空疎になることと同義だ。ヘイトスピーチがああも醜いのは、その盲目の噴出現象だからである。そう、ここでも見ることと見られることは対になってはじめて「見えてくる」、つまり機能する。さもなければ、「見るだけ」は人を無限に疎外していくだけだ。「見て見ぬふりするイジメの周囲」とさきほど書いたが、その不幸な構図がそうである。ラットやモルモットと変わりがあるか。

 

「研究」などない。お前の魂以上の宇宙、不思議、神秘、森羅万象は、どこにもない。みな生命の当事者だ。いつまで傍観者気取りで惰眠をむさぼるつもりだ。不幸や病気に対してさえ、敬意を払え。すべての平等概念に基づく法整備は、この認識から始めなくてはならない。全員加害者、All rights reserved.

 

<了>