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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



イベントとは、ジャマなクソアプリみたいなもの。スマホの初期設定に織り込まれ済みで、アンインストールの選択肢がない。

「ハロウィーンはここ10年くらいで、完全に日本に定着した」

 

このような浅薄な定型文をこのまえ見かけたけど、まったく違うよ。正しくは定着「させられた」だ。その2つの意味するところは、ぜんぜん異なる。

 

秋はイベント(つか、バレンタインデーみたいな大消費喚起契機)が少ないと考えた誰かが、たまたまその時期のアメリカで行われる伝統行事を引っ張ってきて、さらに経済効果を上げるため、オリジナルにあるつつましい精神なんかを蹂躙し、物欲をソソるような仕掛けを注入し、成人式的バカ騒ぎの契機に仕立てて並行輸入した、と。ハロウィーンはこういう経過を経て、日本に、そして渋谷にやってきた(たぶん)

 

そして鳴り物入りの目新しさに考えなしで飛びつくような層が、寄ってたかってイベントにくっつき回る、その繰り返しで年毎に定着「させられた」。「人気が出るとは、バカに見つかること」(だったかな?)という有吉の名言を思い出す。

 

ハロウィンのプランナー本人は当初、アイディアマンとしてイベントプロデューサーとして、手腕は高く評価されただろう。ウン億円の経済効果をもたらした・・・とか、新たな文化を創ったとか云々。でも私的な評価では、日本における空っぽ精神の蔓延にまたひとつ、貢献してくれたってことになる。

 

ハロウィンの日本定着は、たしかに見た目にはアイディアの勝利であり、高度なマーケットプロデュースであるだろう。でもそれは人々の要望から出たのではなく、経済的要請から出たものだ。その中には個性も想いも、なーんも入ってない。あるのはおためごかしの娯楽と、誰のほうにも向いてない「仕事こなした感」だけ。そんなのはすべてがおしきせの、官製の、「~させられている」式になるに決まってる。それも可視化できないタイプのそれであって、人にとって大変にやっかいなシロモノだ。まるでスマホの初期設定に織り込まれ済みで、アンインストールや設定変更の選択肢がない、邪魔で仕方がないアプリのようなもの。ユーザーより企業側の意向を優先させる仕様。しかもそういうアプリは必ず何かを買わせる選択を表示するようになっているし。

 

ハナシは飛躍するけれども、こうした傾向は太平洋戦争前の国内雰囲気と同質の空気だ(体験してないけど、そうに決まってる)。今の日本におけるハロウィンやバレンタインは、この2019年という、政治経済風俗すべてが煮詰まってきている現代においては、出発点からして発想が間違ってる。人と人をつなぐのに外部的契機に頼ってた時代は第一次大阪万博(1970年)あたりで終焉し、いまの人は内部的な自発性でしかつながれないってことに、まだお気づきでない。というか、それはそれ、コレはコレとか思ってる。区別なんかないから、ぜんぶつながってるから。東京オリンピックだって盛り上がってるんじゃなくて、盛り上げさせられてるだけなんだからね、ホントは。

 

さてイベントは経済的要請が出発点と書いたけど、そのもっと根っこには、「チキンなハート」(コラムニスト小田嶋隆)がある。なにか仕事らしきことや発案でもしないと給料をもらうに値しないからムリヤリ企画を絞り出すとか、「汗は努力の結晶なんだ」とか「行動力こそ人生を変える」などと念じながら、歯を食いしばって無駄な努力を周囲に撒き散らすとか、そんな外部の目をバリバリ意識した、鏡の中のナルシストごっこは、もう全部止めにしませんか。仕事ってのは、粛々と作業するだけですよ。精神は介在させないもんです。いやこれマジで。

 

昨日の街でも、ハロウィーンの衣装を着せられて、パレードさせられてる幼稚園児の集団を見かけたけど、トイプードルに人間みたいな衣装を着せて連れ歩くセレブの意識が垣間見えて、ぞっとしたわ。子供という崇高な命の結晶体が、単なる集金イベントの奴隷にさせられてる。親の監視下で。

 

ここで本日のマイ格言。「慣れとは恐ろしい、慣らされるのはもっと恐ろしい。そして自覚なく慣らされるのは、怖さをも通り越して麻痺になる」

 

<了>