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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



ほかのものに己を仮託するというブルース音楽の話法は、個人至上主義を上回る思想になる。

*悪魔と邂逅した伝説を持つ唯一のブルースミュージシャン、ロバートジョンソン。ハットのかぶり方もスーツもキマッてる。音は陽気な呪文のようだ。

 

 

youtu.b

*Howlin' wolfの傑作アルバム「Moanin' in the moonlight」。近代ブルースの文法を全部採り入れたバラエティある音楽性。音の手触りはあくまで質素で抑制の効いたもの、そして実にマガマガしいうた。単色でありながら豊潤な世界だ。

 

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 憂さを晴らすのではなく、憂さを深める音楽がBlues

 

Hoochie Coochie Man

Red House

Hoo Doo Man Blues

Catfish Blues(Catfish…ナマズ)

 

上に挙げたのは米国で生まれた偉大な音楽スタイル、Bluesの名曲の一部である。作者はいづれの曲もあまり重要視されない。いろんなひとに歌い継がれてきた。

 

Bluesは1800年代後半に発生源流があるようで、日本で言えば幕末。歴史の長いジャンルである。したがっていろいろ伝説的なプレーヤーがいたみたいだ。ロバート・ジョンソンなんかは名を残せただけで相当有名な部類だろうし、未分化の時代はもっと無名の有象無象たちが米国各地にいっぱい居たに違いない。専属の音楽師みたいな形態になったのは、ずいぶんあとのことであったろう。

 

シカゴとか南部とかデルタとかの、歴史が固まってからのブルース界しか筆者は知らないが、その判断から言うとブルースミュージシャンはだいたいみんなサウンドもルックスもファッションも似たようなものであって、1950年代くらいまでは演奏者も透明人間というか、著作権未満(うたはみんなのもの)という価値観の中、トラディショナルソン グを継承するうたうたいという謙虚なたたずまいに終始していたと考えられる。演奏に関しても、たまり場で「流し」、1曲1曲歌うスタイルだったろうから、パッケージ化された流通形態にはなじまなかったに違いない。

 

Bluesの歌詞は類型である。そう大胆には自分勝手に歌詞をつけられないジャンルであり、スタイルに恭順するよう求められるのが、退屈といえば退屈である。そこではベイビーやハスラーやギャンブラーといった何か別の者への「想い」が歌われることになっている。ただそれは無邪気なワナビーや、おめでたいあこがれとは違う。なぜなら歌われる「想い」はウジウジ、じめじめ、グダグダとクダを巻くための「素材」であるからだ。

 

bluesとは何かというと、そうした「素材」をつかった憂鬱や疲労の、音での体現であろう。その独特のメソメソしたような曲調からぼくなどは、ブルースは奴隷時代に抑圧された黒人たちの、服従状態を慰撫するソングであり、コットンフィールドでの労働歌ジャンルであって、お互いの傷を舐め合う感情がベースになっている…と思っていたが、どうも最近はちがった解釈が芽生えてきた。

 

あれは憂さを個において晴らすのではなく、憂さをみんなで深めていく音楽なのではないか。憂鬱や徒労を確認してそれを対象化し共有化し、身に着ける音楽なのではないか。パターン化した歌詞とマイナーな曲調は、たぶん自分のなかからそれを掘り起こしていくための秘策だろう。そして演奏で確認や対象化を行い、それだけでなく、音出しを通じて演奏者が憂鬱や疲労そのものに純化していくこと。また、自分が単なる一介のスピーカー、伝達メディア、媒介する器官となり果てること。すなわち個の「すり減らし」が起点となって他と多への伝播を志向すること。それが表現の深化と拡散そのものになる、と。そこを目指した音楽スタイルだったのではないか。従って(単純な様式だから)ギターと声があれば技術要らずでほぼ誰でも吟じることができる、そんな無記名性がBluesの前提であった。

 

伝統という全体の気の流れに、自分を開示し同化していくこと

 

自らがそれそのものになる…これはあらゆる自発的な表現や運動の根底をなす要求である。舞踊は動態の意志であるし、スキージャンプは風への同化であり、フィギュアスケートはスピードと舞いの中に自己を溶かしていく作業だ。別の何かになることで、逆に自分が見えてくるし、その過程で何かの要素があなたにも届く。それが全体性の獲得に資するのだし、本来のメディアはそこを媒介するものである。

 

ただそのまえに、確認や対象化がある。音楽としてのBluesとて例外ではない。

 

サウンド面からブルースを考えた場合、それは「想い」を出発点にしながら自らを「別のもの」への擬態化の中で忘我せしめる方法論である。その実践の過程で自分が消えて憂鬱や疲労そのものになる。それで「確認」することはすでに述べた。

 

その忘我状態をアシストするためには、歌詞だけでなくあの一定の形式、コード進行に則った音階が手続きとして要請されることになっており、それは自分が生まれる前から先達たちによってそうなっている。伝統という全体の気の流れみたいなものに、自分を開示し同化していくことで「共有」に参加させていただくのだ。そこらへんには小さな「自分」の介在する余地はない。そうでなければ「ハウリン・ウルフ」や「マディ・ウォーターズ」なんて芸名で活動しようとする発想は、出てこない(あれはあれでカッチョいいが)

 

(余談だが同じような時代にゴスペルというジャンルもあるが、あれは騒々しい集団ミソギみたいなものだろう。神に向かって歌うことにみんなで参加するのは、たぶん真の共有化ではない。全員がいても、ひとりひとりは神の方を向いてるだけで横に拡散はしてないからだ。逆にひとりで全部やる純粋素朴なBluesの方が共有の本質を掴んでいる。だからゴスペル界からはときどきスター歌手が現れて、世俗的だが限定的な「成功」を収めるが、Bluesミュージシャンは「成功」とは無縁である)

 

かくも柔軟性に富んだ「スタイル母体」としてのblues、そして今

 

さて戦後の近代bluesは、エレクトリック楽器とレコード複製技術の、両面からの本格的な普及発達と、商業や流通機構の隆盛により、白人の子供たちによって発見され真似され、ロックの母胎になったり、例えばジャズのような別ジャンルと融合したり破壊されたりした。ほかの音楽に比べてブルーズだけが突出して、めちゃくちゃ手を加えられたり参照されたり解体されてきたように思える。日本の演歌にすら、擬似ジャンルとして取り込まれたくらいである(青江三奈「伊勢佐木町ブルース」など)。それは元がそれだけ透明な「素材」だったからではないか。

 

透明性。そう、それを土台にかずかずの「発見」がなされたのだった。つまりBluesの擁する古典的類似性に対し、自分なりの色を付けたりアレンジしたり、変革を加えることが、それだけで自己の表現になりうるという「発見」である。Bluesとは、かくも柔軟性に富んだ「スタイル母体」であった。自己を溶解していく受容体として、優れたスタイルを元々もっていた点がここで生きた。なぜなら「型」があるだけであとは透き通ってて自由自在に染まるからである。俳句のようなものだ。様式の発明は著作権利概念の超越を志向する。

 

しかし、50年代以降は世界の商業化近代化均質化が進み、悪魔に魂を売る交易の可能なクロスロード(ロバートジョンソンのCrossroad伝説)なんぞは一笑に付される時代になった。憂鬱や徒労は依然として人々にのしかかっていたが、テレビやドラッグ、キャンプやカタログ雑誌などのイージーな娯楽で、そうしたものをゴマカす時代が到来した。「それそのものになる」ことで深めながら解消したり共有したり発展したりなんてのは、まったく時代遅れの手続きに後退した。その構図は実は、人種差別とはまた違う、別の大きな何かへの、人々の奴隷化のはじまりであるのだが。

 

その段階でブルース音楽がやっとこさ獲得したのは、ほかの音楽ジャンルではとうに当たり前になっていたプレーヤーの実名性である。

 

演奏者主体でBluesが愛好されるようになったのは、1950年代からであろう。ライブと同じくらいかそれ以上に、録音過程が重視されるようにもなり、演奏者側もBluesの典型に閉じこもったような、微妙な差異を鑑賞するような録音物ばかりになった。そして流しの伝統はほぼ潰えた。つまりBluesは自己目的化しはじめた。そしてそのまま現代まで至っている。いまやBluesは、日本の古典芸能と同じようなポジションに居る。

 

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さてブルースが記名という個人主義に染まったとたん、骨抜きになってしまったというこの考えは、自分で言うのも気が引けるが示唆的である。ぼくらは個性や個人というものを尊重すること、例えばゴダイゴの「ビューティフルネーム」の表現する、それこそゴスペル的祝祭性が、人類を幸福にする最新モードであると考えていたのだ。しかし欧米から輸入してきたこの個人至上主義は、民主主義と同じように、もしかして無効なのかもしれないのだ。いやそれどころか新たな災い、奴隷制の最新型ニューウェーブなのかもしれないと疑い始めている。みんなすばらしいイデオロギーだと軽く肯定するものというのは、「祭壇」という1方向のみへの憧憬であって、それは実は大いなる抑圧の裏返しなのではないか、というひそかな確信である。

 

以前にも書いたが、人は全員そのバックボーンに、見えない普遍を抱えている。個人個人はその大いなる普遍の出先機関にすぎない。その普遍は、全動植物の進化してきた意志、遺伝のエネルギーやメカニズム、地球の公転自転の原動力などと同じレベルものであり、そこらへんの草木にだって宿ってるものだ。いやひょっとするとそれらよりもっと巨大なものかもしれない。ただいづれにせよ、目に見えないものである。

 

人の生誕と生存とは、自分なりのその普遍を体現化していくことであり、その普遍のバトンリレーが、人類の総体であるはずだ。そして子供の誕生は、新たな普遍の担い手が登壇する可能性である。そして個体の死とは、大元の普遍に還ることだ。

 

人は普遍というとんでもない地盤の上に咲いたお花か何かであり、その二層構造の上に立脚してる。お花は勝手に咲き、きれいで目立つ。茎や葉や根で支えられてるが、そこも見ようとすれば可視できる。そしてお花は同じものが2つとなく、美しさや華やかさ、大きさを競い合いやすい。人生なるものはそのお花のごときものであるが、お花の真髄は花弁ではなく花粉であり、それは肉眼で見るには小さすぎる。

 

ここ数千年くらいの人類は、花粉の存在には少し気づいていたが土壌には気づかず、ドカドカと花粉も土も踏みにじるばかりの歴史であった。特に宗教の発生と貨幣の登場、そして産業革命あたりでその踏みにじりに弾みがつき、西洋での個人主義の台頭が、普遍の埋葬にトドメを刺しつつある。なぜなら見えやすい個人性を見ることだけにこだわると、花びらしか見えてないことになるからだ。目を凝らしてもせいぜい見えるのは花粉である。花粉は花粉で大事だが、しかし何のため花粉が存在するか、花粉の存立基盤は何なのかという根源的問いが、もっとも肝要である。個人主義は、ミーイズムとかエゴイズムのようにネガティブな方向に先鋭化しない平明な状態であっても、そのような錯誤を生じさせる契機をはじめから孕んでいるような気がしてならない。

 

いま正しく生きるとは、自分だけの損得や勝ち負けを見限ることである。ビジネス界では一人勝ちや一強多弱構造などといわれるが、その当の勝者の顔はというと、これが美しくない。商売を続けてればやがて負けが込んでくるのが分かっているから憂鬱なのだ。また、わが世の春のGoogleなどの検索エンジン稼業も、それなりのテクノロジーやIQに支えられてるとはいっても、しょせんはネットインフラの上で他者の集合知に整理の場をあたえてメシの種にしているだけであるからこれも大したものではない。大金を稼いでるようだが、ただそれだけの無産階級虚業である。CEOはその辺にうすうす気づいており、いつも内心ヒヤヒヤしている。勘ぐるに彼らは、事業のバイアウトや撤退をいつも考えてるのではないか。ですからGoogleやFacebookを、間違っても神格化などしてはなりませぬぞ。

 

ビジネスの世界だけではない。たとえば総理大臣職なども、担当が誰であろうと何か悪意の元にこの国を戦争に導いたり、破壊していったりするのでない。あんなものは別の何かの傀儡(かいらい)に過ぎないのであって、摂政は別にいる。それは一義的には所属政党であり、また、その先に鎮座するワシントン様であるだろう。今後のご主人様は、中国のナントカ党に交代するかもしれないが、いづれにせよ民意ではない。

 

そして摂政の本当の本体は、こうした外国でもない。それは自分(自国)だけの損得や勝ち負けにこだわる姿勢なのである。

 

以上みてきたように、われわれ現代人は、みんな何かに操作されてる存在であり、自分の性格とか人生とかにこだわっている限り、その操作の末端に座するだけである。

 

いまの日本の、いや世界のそうした「総奴隷状態」を解消したり打開したりできるのは、真のBlues精神を以って共有の境地に至ることである。つまりそれは、単調な繰り返しの中で、ほかのものに己を仮託することで自己が開花する、戦前のブルース的手法の復権である。それは個人主義やら著作や所有の概念を上回る、骨太の思想になり得る。そこではじめて人は憂鬱や屈折や疲労とホントに向き合える。そこを経過してないと、個性もなにも身に付かない気がするのである。

 

奴隷のなぐさみものが、長年の潜伏期間を経て花開き、次世代の糧になる…痛快じゃないか。

 

魂を交換するCrossroadsは、いつでもそこにある。いまは見えてないだけだ。

 

<了>

 

参考にした記事↓。ロバジョンに対し理系分野からアプローチして、ぼくにはできないような巨大な発見に至っている。どんな発見なのかは読んでのお楽しみ。

hayashimasaki.netえ羅も

 <追記>

日本でブルースといえば憂歌団というバンドである。彼らも俺が俺が、というのがまったくないまま足掛け30年以上やっている。ヒットを出したことは一度もないが歌は誠実、カネはないが充実はいくらでもあるという、世界でもまれなバンドである。これが理想だ。