"the dark side of the moon " Pink Floyd(1973)アルバムカヴァーより。
<いつまでも若く見られたいあなたへ。>
「生き様(ざま)」という言葉はよく聞くが、それと同じ位相で「存在様(ざま)」(*my造語)という概念をもつと、美容健康にいいです。
これは簡単に言い換えると、前にも書いたが「生き様」とは主体であり、「存在様(ざま)」とは客体である。ひとりの人にはその2つが不可分に内包されている。
だから人間は巨大な存在というわけなのだが、人の世で生きるとなれば、主体的に生きるということのみが、いつでもどこでもクローズアップされている。まぁもちろんそれはそれで必要な、生きるガッツなのだが、その一方で、「会社に自分がいなくなっても、いやもっといえば自分が死んでも、世界は何の影響もなく動いていくんだなぁ」こんな諦念、嘆きはよく聞くし、こう感じたことの無い人はおそらくいないだろう。そしてこの種の想念は、あなたの老け込みを促進する。
確かにそれは一面では事実である。誰かが亡くなるたびに、社会全体が喪に服すことはありえない(喪に服すことの是非問題はさておき)
しかしこうした事実に対し、「生き様」つまり主観の観点から淡いやるせなさ、むなしさを感じていまから気を滅入らせる必要はない。人の内面にはもうひとつ希望領域があるのだ。それこそが、普段意識されない、自己内の客体分野である。ここがいうなれば自我のバックアップ装置になる。
客体分野、そう、かんたんにいうともう一人の(本当は無数の)自分。プリズムひとつで一筋の光が七色に変化する感じで、元はひとつでも際限なく分裂しながら、自分の中にはたくさんの自分(の可能性)が存在してる。
私という存在は客観視座そのものであり事態であるのだ。だから「事」として誰かに引き継がれてゆく。新陳代謝してゆく。「存在様」は継承であり伝統なのだ。
その領域ではあなたは力む必要はないし、漂っていればいい、受身でいい。
生き方としては主体的である必要があるが(例えばゼニ稼ぎの分野など)、自存在自体は完全に受身のままでぜんぜんOKだ。
というより、そこでは受身以外の何者でもあり得ない。野生動物と同じありようである。
自我というものを考えてみると、私がこの世の中で孤立的に存在してるのではなく、関係性の中での私という「ニンゲン種の事態」が、たまたま現在、私の肉体と意識を舞台として連続的に継起していると考えられる。
その総体を、舞台の方のみ、それも装置としての舞台だけを取り上げる。そこを近代思想では「自我」と呼称しているに過ぎない。
「私」など、そうした全体事態の容れもの、媒介、プリズムにすぎないのである。
そして私を支える命に、集団的社会的諸条件というこれまた別の事態が絡み付いたとき、それが人生や生活、暮らしと呼ばれるものになり、その段階で生きざまや、主体的なるものの出番となるわけである。
つまり自我とは事態のつながりで構成されている。つながりだから広く、成長志向で、平明で、ほがらかが基調である。
その外側には客観的自分が存在し、全体を大きく包容している。
馬の眼前にニンジンをぶら下げて走らせるマンガがあるが、それでいうと、
あなたはニンジンである/馬の両目である/馬の全体である/馬の脚の筋肉である
そしてその馬を、こっけいだと見つめる観客でもある。
そして隣の観客も、自分と同じ大きなものの中にいることを知っている。
目的、手段、思想、存在、意思、行動、地球の全歴史、すべてのばかげたもの、すべての英知、すべての感情、ブラックホールのすべて
それらすべてがあなたの中にギュウギュウに詰められて同居しているのだ。
もう生まれた瞬間から、すでに半分くらいは「分かりながら」母胎から産まれてくるんだ。
本能で分ってるから、外界に触れるといきなり泣き叫ぶ。
つまり、ひとことで言うと「存在様(ざま)」
そいつを意識して暮らすと、若さをキープしたまま輝けるよ。赤ちゃんなみにね。
<了>