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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



毎日が同じことの繰り返しと思ってるあなたへ。Part 1

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お昼にサンドイッチを食べる、この至福タイムを大切に。

 

↓Part 2も書きました。

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<昨日と同じ今日、明日が続くだけ、と思ってるあなたへ>


「生きるってことは、変わるってことさ」by 加持リョウジ

 

これは昔のエヴァンゲリオンでのセリフ。ずっと脳内でリフレインしている言葉だ。長年に渡る呪縛みたいなもので、庵野さんも罪なお人だ。

 

毎日はとうぜん同じではない。人の世は1秒1秒、いや、半秒ごとくらいに関係相は変わっていってて、同じ状態で静止していることはひとときもない。同じことの繰り返しだなんて思ってるなら、自分が惰性にとらわれているだけなので、まず疑うのは自分の他律思考と、そこに気が付かない鈍感さだ。

生きてる以上、人は変わり続ける。平凡なルーティーンワークに表面上は慣らされても、自分は自分でしっかり引き止めておかないと。

 

…なんてこの辺までは、ごくありふれた説教。僕のような者が口にするのもおこがましい笑。

この話を踏まえて書きたいのは、「人が変わる」ことへの以下の考察であります。

 

最近思ったのだが、実際ヒトが「変わる」とは、「新しい自分が出てくる」ってことではないかと。

 

僕は精神病理学みたいな分野については何も知らなくて、せいぜいフロイトの「精神分析入門」を読んだことがあるくらいだけれども、こんな僕でも勝手にこう思ってる。

 

自我は玉ねぎの皮のように多層構造になってて、深層心理みたいな隠れたものまで含めると、地球の地層よりも分厚い内実が、キミにも、貴方にも備わっている。
そして生きてるに間はそれは底まで行き着かない。つまり枯渇せず「変わり」続ける。
個人の中でいったん確立された性格はあまり変わらないが、自己の内面、自我は、行きつ戻りつの繰り返しも含め、絶えず「変化」している。大空の雲の模様のように、一瞬たりとも同じではいない。

 

そうでなければ、有史以来かくも多くの優れた芸術 ―とりわけ内面を感じられるジャンルとしては書物があるが― は登場しなかった。

 

ここで話がすこしずれる。

 

ゲーテ、ドストエフスキー、プーシキン、フロイト、カール・マルクス、アルチュール・ランボーetc
これらすべて、一人の人から実に多彩な言葉が紡ぎ出されてきた。その肉筆の蓄積たるやすさまじいものだ。
しかもそのオリジナルの血を受け継いだかのような邦訳(文学の翻訳は才能がないとできない大仕事だ)に、今でも心ゆくまで触れることができる。
そしてその著者たちは、人として僕たちと変わりがないのだ。
いや、ギャンブルと女に身をやつして何度も破滅寸前までいったドストエフスキーのように、むしろ社会的には破格に落伍者なのだ。ドストエフスキーはそれだけでなく、社会不適格者とみなされ当局に逮捕されたりもしているが、それは事実無根だったり、当時の社会情勢の方がいまからみるとアウトレイジャスなものだったりするから、まぁ度外視するとして、たったひとりの著者から、まるで口からいつまでも国旗を出す手品のように、とめどなく巨大な思想が吐き出され、旺盛な構成力で書き付けられているのだ。
電気もない時代に、ろうそくの明かりだけで。紙とペンだけで。スゲー。スゲーけど、大仕事だけど、出来る出来ないでいうと、実は誰もが出来ることなのだ。

 

で、話を元に戻す。そう、変わるってことは、ニューセルフの示現であるってテーマに戻ろう。

 

<今と数秒後とでは、人は瞬間瞬間、新しい自分と対面している>

 

端的に言うと、ぐっすり寝て起きたとき、世界が一瞬だけ違って見えたり、生まれかわったようにスッキリしたり、前夜までの記憶を脱ぎ捨てたような感覚になったことがないだろうか。
その、いわば半覚醒のような状態を維持したまま、このあとも暮らしていけたらどんなにいいだろうと思ったことはないだろうか?

 

これは睡眠というボディの仮死状態と、夢という脳の部分蘇生ともいうべき状態から目覚め、体の機能も思考も、ほんのちょっとだけだが新しい自分に向かって、自動的に「剥けて」いる状態だと思う。


(ただそれはすぐ、視覚から入る単純情報で「ふたをされてしまう」のだけれど。あっ寝過ごした遅刻ダ!とか)

 

しかもそれは驚くべきことに老若男女すべて、人種も時代も資質も問わず、セレブも首相もホームレスも、立場に分け隔てなくヒトは、一人残らずそういう機能を備えている。

 

しかもしかも、それはほとんどオール自前で行われる。本を読んだり映画を見たり、友達とおしゃべりしたりといった、外部からの刺激に触発されて引き起こされる場合もあるけれど、そうした外的要因によってよりはむしろ、自発的能動的自動的恒常的に現れ(ては消え)ている。

 

目覚めた時が一番その現象が象徴的に現れるような気がしたので、上に例として挙げたけれども、実は起きてる間だってちょっと前の自分と同じ状態でいることはまったくなく、過去の思い出なんかも糧にしながら少しづつ変化している。いくつになってもそう。


つまり、ヒトは新しい内面の一部と常にめぐり逢っている。そう、人間って個人って(可能性としてだけど)凄すぎる!

 

その内面のほんの少しの変化、たとえれば一瞬たりとて同じ光景を示さない万華鏡の中が人の内面だとすれば、その部材(っていうのかな?)一つが1ミリ動いただけの軌道を、捉えて気付いて対象化できる能力が、ヒトの知性と感性のコアだと思う。毎日同じことの繰り返し、どころではなく、秒単位の変化するハナシなんだ本当は。


成長という名の変化、進歩という現象をこの手に掴む希望が、ほんのちょっとあるとすれば、自分の中の新しい示現(の兆候)に気付く、この点にしか、たぶんない。

 

<「不安」は作られる!(「カワイイは作れる!」と同様に)>

 

いまの世の中は、いやずっと前から社会というのは何かにつけて窮屈じゃない?
それは人々が「昨日と同じ自分しか見ていない」からだと僕は感じてて。
昨日と同じだと表面上は安心なんだけど(変わらないことは安住することだから)、視点と発想は貧弱になるんですよ。ただ貨幣の奴隷として、毎日疲弊しながら生存してるだけみたいな。


こうした「視覚設定の粗さ」に立脚している社会だと、事物の表面しかみない浅薄さ、メディアから提示される娯楽や話題にホイホイのっかってるだけの安易さ、人をその可視化できる属性(年収や職業、貯蓄額やスペック)でもってまずは判断する貧しさといった、周辺情報の大先行を助長してしまう。そして気を許せば他ならぬ自分が、それらに絡め取られ、比較してしまってすぐ将来の不安に陥ってしまう。擬似的な「安心」の中で、実体のない「不安」というぬるま湯にどっぷり浸され、二重に丸め込まれている。

 

でもその「安心」も「不安」も、そう思い込まされてるだけで、じつは間違いである。本当は、自分を見つめることを怠らなければ、誰もがその2つの間にある「中位」ともいうべき悟りの境地に落ち着き、そこで偉大な存在になりうるのだ。

 

昨日も今日も、人は視覚的には通常ほとんど変化がないからごまかされやすい。しかし少しづつ自分は変わっている。変わることに希望がある。そのことに自覚的になることが、十全に生きる最初の一歩だと思う。

 

文豪たちは「善く生きるとは?」を追求しながら、例外なく魂を削って、いろんな葛藤にまみれながら、書いて書いて書きまくって自分を見つめながら生をまっとうした。

 

時代は違っても僕もそうあらねばって思ってる。あなたは、どうだろうか。

 

(了)

 

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