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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



「地に足を着け、自分の生をいきる」とは、どういうことか。

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地球の構造 1:内核、2:外核、3:下部マントル、4:上部マントル、5:地殻、6:地表 *wiki「地球」項目からの引用

 

 

地球の構造は人の内面にそっくりだ

よくある人生訓に「地に足を着けよ」というのがある。あっちにフラフラこっちにヒラヒラと、ありもしないものに浮気をせず、自分の足下を固め、実直にやっていけとの戒めである。実に、正しい教えだ。


ということで自分の足元の地面を見ると、これは単なる土地である。その範囲を広げると町、市、県、国となり、国土となる。

そこまで大きく見取ったうえで見方を変えるとそれは、海上から飛び出てる陸地部分(島や大陸)を指している。


陸地。人にとってはこれが諸活動の基本、土台であるが、地球にとってみればそれはホンの表層にすぎない。
その表層にへばりついてうごめく陸上高等動物が、自分の拠って立つ土地を「母なる大地」だとか「聖地」などと唯一絶対視したり、境界線を勝手に区切ってみたり、他の領土を分捕ってみたりして、国や国民と名づけて違う言語をしゃべり、社会をつくっては毎日なにかと忙しくしている。



さてここでお立ち会い。人はみんな地球そのものであると仮定しましょう。惑星構造としての地球と、ホモサピエンスの内面は同じです。
さすればこの表層上の陸地は、その人の外見であります。その下の地殻あたりは、性格、人柄、主観や個人性といった、いわゆる内面における上澄み部分に相当しましょう。
そして地球の母盤たるマントルや核は、その人の魂領域であります。


海面から飛び出てる地上部分しか見ず、せいぜい陸と海しか見てないと、その底に海底があり、海峡があり、さらにその下には地殻やマントルがあることに気づきにくい。
人も同じで、外見はもちろんのこと、相手を性格やひととなりだけで観察し判断することは、表層の部分しか見てないことと同じだ。
たとえ深層心理に至るまで、相手に対し視野を広げて見たつもりでも、地球の観察になぞらえれば、海と土地との境界線が、ぼんやり見えてくる程度にすぎない。


大事なのは自分の人生だと皆はいう。しかし健康であれば人生の諸問題など、大部分が「それ」をやるかやらないか程度の、実務レベルの話である。

要するに本質は、そこにないのである。


本当にたいせつなことは、表層の下にある地殻、さらにその直下にあるマントルの存在を感じることである。
地殻は、すべての島、大陸を、深海よりもさらにボトムの部分でつないでいる。
つまり、人間は全体でひと塊の、普遍なものの部分存在なのである(そういえば「塊」と「魂」って似た字だね)違う言語、違う土地、違う習慣で暮らす異民族同士であっても、まったく同等に「部分」なのだ。
そして生で磨きをかけてゆくのは、その普遍なるもののコア領域である。


(磨きをかけるためのヒント…他人が聞く自分の声と、自分に響く自分の声が違うのはなぜなのか?を考えてみる、など)


よく「人はひとりひとりみな違う」などといわれるが、その言葉は「陸地」部分の差だけを指してるのなら、安直かつ大きなお世話である。根元はこのように「ひとは魂レベルでみな同一」なのである。


自由とか平等とか民主主義といったイデオロギーは、全部この思想を立脚点に出直さなければならない。


またもうひとつ、地球と人間が同根であるなと思うのは、変化に関する方向性が同じだから、というのもある。
ご存知のとおり地球は毎秒始動鼓動してる。大地は一瞬たりとて同じ状態ではない。
地球は何万年という単位で見れば、大陸が移動や上下をするが、それも毎日のホンのわずかづつ始動しているものの蓄積だ。その集積が大陸移動と、後年研究家が名づけた(だけの)現象であって、この一連の変化も、人間の内面に同じく結晶している。

 

地球に対するものとして、人間に限定して話を述べてきたけれど、おそらく地球上のすべての動植物も同じことだろうという気がする。


魂とは、真理だ。そして真理とは、パーフェクトでビューティフルな包括存在であることだ。

それは全部円環で球形の形態をとるに違いない。どの角度からどうみても、同じでなければならないから。


地球学は生物学と等価であり、それは万人の生命を、立体的に照射する役に立つものでなくては。

真理にしがみつけ。その一番末席に人生の充足が用意されているが、それはオマケみたいなものだ。


<了>