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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



「病は気から」は本当か。

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脳を研究すると病気は減るのか

 

脳を科学する、ブレインストーミング、脳をだます、脳を操作するなどが、最近よく言われてるようだが、まったく分からない考えだ。脳はあなたにとってもわたしにとっても外様(とざま)ではない。脳細胞の活性化や刺激などというアプローチで、外部から画策するものでない。脳ははじめからしまいまで、自らのみずみずしさで自らを殺し、しかるのちに正当に再生復活してる。はつらつと輝き続けて澄み切って、わたしを生かしてくれる、そんな同志だ。

 

脳も臓器も筋肉も骨格も、あなたにとってかけがえのない「仲間」である。ともに寄り添いながら、いたわり合いながら、支え合いながら日々全身で船体「自分丸」を漕いで前進させていく、自前で代謝しつつ更新していく、そんな神のような力で自律運動しつづけてくれる大事なクルーである。代替がなく、それぞれの役割は全力で追求しなければならないという、のっぴきならない摂理だ。どれかひとつだけでは生存は維持できないし、また単体で維持し得ることがもしあっても、今度はそれでは意味がない。だから結構深刻な病気も、自力で修復してしまう。毎秒それは体内で行われてる。心臓も血液も自我も、トータル性の中で生かされている存在だ。脳も精神も内臓も違いはないし、上位も下位もない。

 

これはそのまま自分と周囲とのつながりにあてはめ、社会的に拡張していける考えになるだろう。つまり「脳を科学する」姿勢こそが、反面教師的に孤独を深める態度であるし、おそらくそれこそが、ほかならぬ脳の病気や精神病 ーすなわち脳や神経の自爆テロー の元凶である。「細胞」や「組織」という目で世界をみることは、恣意的なあてはめであり、断片の切り取りだ。それでは些末しかつかめない。問われてるのはそこから先のつながりが本体だということと、そのトータル性でもって何をつかんでいくのか?ってことだ。

 

この「つかむこと」が人生の「正念場」であり、法律や経済、政治や教育といった社会機構は、みんながそれぞれに賭けている正念場をアシストする仕組みでありさえすればいいんだ。これがホントの民主主義のコア。

 

(いま民主主義に関して世間で言われてるのは、民主主義の中にある「部分」だけ。選挙の「制度」とか、議論の「運営」、機会の「平等」に関する、表層だけの話よ。都合のいいところだけの切り取りと拡大よ。)

 

精神病やうつ病、心理学のため脳を研究したって自縄自縛になるに決まっとるがな。ホントの医療は診察でも投薬でも施術でもない。そこらへんは作業や手段で、医の本道は「正念場」の確認と進捗を、みんなでいっしょに励ます仕組み、つまり「仁術」だ。

 

病は気から、は本当のこと。正念のない肉体は糸の切れたタコ。あるじが住まなくなった廃屋は荒廃するスピードが激しくなるけど、それと同じことなのね。

 

<了>

 

ライバルも効率も考えない、というスタンス。

zasshi.news.yahoo.co.jp

*「私見ですが、私は『競合を見てはいけない』と思っています」だそう。仕事に関する久々に実のある見解が感じられる記事だった。

 

ライバルも効率も考えない、というスタンス。

 

能率の悪さを改善する、そこを目指すのが仕事の本体だっていう「錯覚」がある。みんなうまくやりたくて仕方がないようだ。確かにそれはあって試行錯誤だって大切だ。しかし、トライして向上できる作業効率などというものは、じつは大したものではないという視点もまた、必要だ。それは自動車工場で極限まで上げた生産性が次に、雇用調整や勤務時間の短縮、果ては解雇を生み出すようなものである。その効率化は何を目指してるものなのかが問われてないと、自分の首を自分で絞める結果となる。失業で済んでるうちはまだマシやね。

 

真の効率化が目指すべきは、自分のなりわいが今の、みんなが生きてるこのヴァイタルな社会の中で、どういう文脈を持つのかを考えて、そのなかで絶えず自分の仕事をリセットしたり位置付けることである。すると、苦しいときにも必ず活路が見えてくる。繰り返すが、必ず、見えてくる。これが巷間よく言われる「ユーザー本位の視点」ってものの、本当の正体だからだ。言うまでもないが、すべては変化してゆく。ただ前人の方法の、無考察な引継ぎではなく、そこに自分なりのものを加えていくことが推進だ。そういう思考の中で、まだ形になってないものを目指すのが仕事の本来だってのが、最近分かってきた。半世紀前のカップラーメンやチキンラーメンの「発明」は、食の時間の扱われ方が家庭内で変わってきたことを肌で捉え、そこに「即席」という概念で対応する商品具現であり、当時も今も、その概念が有効でかつ、味も支持されてるから、超ロングヒット食品なのである。他の、それ以降のインスタント食品は、その真のオリジナルの亜流やアレンジ、はたまたバリエーション違いに過ぎない。

 

だから「効率化」は、そのロングヒットに至る分節点や手段の一つであろう。本当に大事な仕事に対しては、能率などという「のんき」で「すました」尺度は相いれないものである。例:情熱、愛情、生死、誕生etc

 

冒頭に掲げた記事は、ペットボトルのお茶ひとつとっても、その思想が息づいてることの指摘だ。記者の文がまたいい。以下に引用する。

 

出版業界の真のライバルは、電車通勤・通学時間や夜寝る前の時間を奪っていった「スマホのゲームや動画」なのではないか?

トヨタ自動車のライバルは、日産ではなく、自動運転車プロジェクトを急ピッチで進めるGoogleなのではないか?

 

このスタンスで考えるクセが、やがてあたらしい分野を切り開くほとんど唯一の道に思える。すべての仕事は発明であるべきだ。どこを向いてるのか分からない、だれに向かってるのかもわからない、そんな空虚な作業でなく、周囲をしっかり咀嚼しきった、あなたなりの今がそのまま詰まってて、かつみんなの役に立つ、そんないい仕事を残したいものだ。少しでも前進した結実でありたいものだ。その点でこの記事は、たいへんいい刺激になった。

 

<了>

 

物語をキャラの対立軸で製作する不毛…ムリ設定のドラマが社会の生きづらさの根源

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子供向けのアニメや特撮ヒーローものは、ひずんだ人格の生産拠点

 

当方47歳だが、テレビの記憶をたどると「秘密戦隊ゴレンジャー」(1975年)が決定的によくない番組だったな。

 

それまでウルトラマンでも仮面ライダーでもなんでも、ヒーローは敵とサシで勝負するってのが基本だった。ウルトラ警備隊とかウルトラファミリーとかのワキ役はいても、主人公は身体ひとつで敵怪獣に立ち向かい、痛みを受け、血的なものを流し、身を切られながら戦ったものである。これは戦後のプロレス、特に力道山みたいな「強いお父さん」の系譜なんだろうな、と今にしては思う。ヒーローだけでなく登場人物の中のナントカ隊の隊長も、仮面ライダーのおやっさんも、幕間でいぶし銀に光る、父性と中庸の補強であった。

 

ところが75年に出た後発特撮ヒーロー「ゴレンジャー」になってくると世界観が変わってくる。ヒーローは5人揃ったユニット、チームで「活躍」するようになったのだ。それでいて敵は(戦闘員や世界征服の組織などはいたが)基本的に毎回たった一匹。その1匹がゴレンジャー5名の総攻撃を受け止め、最後はたいていなすすべもなく、こっぱみじんに破壊される展開であった。

 

つまりコレ、いじめである。

 

そしてゴレンジャーにリーダーはいるが、周囲にはおやっさん的包括人物、人格者は希薄であった。チームの構成員に女性はひとり、常に設定されているが、それは作劇上の付け足しにすぎず、基本的に全員が戦闘に前のめりである。そして行き過ぎの暴力を歯止めする父性は不在という構図である。それはまた、ひとりで立ち向かう潔さ(敵)を否定し、宇宙戦艦ヤマトやガッチャマンなどでもそうであったように、チームでの任務遂行を尊ぶ姿勢、その単純で明快なる強調でもあった。

 

ゴレンジャーのようないわゆる戦隊モノは、スポンサーたる玩具メーカーが、おもちゃをたくさん売りたかったから登場人物を増やす設定にした…という話は、今では周知の戦略である。しがたってつまらんオモチャをなんとか売りものにしたい当時のセコい考えが、わたしを含めた当時のこどもに、集団いじめの浅知恵をつけたといって過言ではない。

 

一方そのころ、女の子向けには東映動画(現・東映アニメーション株式会社)に代表されるアニメシリーズがあった。魔法使いナントカカントカ・シリーズである。昔のセーラームーンとか、今のプリキュアの原型である。そしてこっちも男の子向けのと大して変わらぬ構図なのである。

 

この原型シリーズも、今に至る連綿たる東映女児アニメの流れも、やたらキラキラした見かけを装ってはいるが製作陣が男性だからなのか、やはり敵を措定した戦闘対決路線であり、かつ集団で異なる敵に立ち向かうパターンであった。したがってかような番組を観て育った少女たちからは豊かでほのぼのしてて素朴で素直な人間性の育成契機を激減させ、かわりにカラっぽで表面だけの可愛さを与え、かつまた男的な単一指向の闘争本能育成に寄与し、当然ながら同時にオモチャやアプリをも買わせ、そうした一連の「オトコ価値観」の植え付けの果てに、今の男女平等社会とかいう名の実質的な総奴隷化社会(それも奴隷なりに不公平なそれ)の成就に、一役も二役もかっているのである。

 

まーこうやって文にすれば、昔からPTAなんかでさんざん指摘されてきたことと同じである。つまり、暴力的なコンテンツのテレビでの氾濫が、子供たちに悪影響を与える云々の図式である。最近あまりそれが言われなくなってるようなのは、当方が子供に縁遠いせいなのかは分からないが、社会が隠ぺいに巧妙になったからなのかもしれない。特に少女系アニメに潜む暴力性は、以前からあまり指摘されてないし。

 

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テレビがカラー放送時代に突入したあたりからつまらなくなったと、先日亡くなった永六輔はヒトゴトのように言っていたが(テレビ当事者のクセに)、「つまらなくなった」理由は、時間枠を番組で埋めることが何よりも優先される様になったからである。当為が先立つようになったからである。なにか放送しなきゃいけないから、何でもいいから粗雑乱造する。量が必要になる。できればヒットする類の。丁寧に作る時間も予算もない。したがって製作陣は安易に流れる。

 

なにかとなにかを対立させて、その対立項のうごめきでドラマコンテンツをつくる、そんなある意味カンタンな時代は、大昔の剣豪小説あたりでたぶんとっくに終わってた。そんな当時ですら終わってた方法論が、方程式はできてるので、その流れに沿ってベルトコンベアー式にコンテンツを作るのには最適解だった。つまり、工場労働に似てる。高度成長期は、コピペの時代、そして拡大再生産の時代でもあった。こども向けの番組も、モロにその流れの中にあった。例外は教育テレビくらいだろう。

 

さてそのあと紆余曲折はあったものの80年代にはシラケの時代が到来して、ご存知のようにナンセンスギャグや不条理ネタ、照れの表現が花開いた。その流れが基本的に今のサブカルチャーである。以前「なんで日本の演技はギャーギャーうるさいのか」という内容の記事を書いたが、いまでもたくさん存在する、対立を前提としたドラマや映画なら、俳優たちがわめきたてるのも無理はない。もともと無理筋の形骸にリアリティを与えようとあがく、シナリオや世界設定の方に無理があるからだ。ぼくらにそんなに対立は必要ないし、商売世界だとライバルはいるが、個人に立ち返れば対立は実際に多くはない。

 

ここらあたりにメスを入れるのは、大人になった「対立項育ち」のアニメ世代だろう。いままでの揺り返しをする時代に、とっくに20年前のエヴァから、入ってるのである。庵野監督あたりは、その第一世代に思えてならない。敵味方を描くコンテンツのもつ世界観は貧相で冷たい。旧人類の価値観だよ、それは。

 

<了>

 

過労による労災を減らすには、休暇の定義改定が効くぜ。

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労働関連の法律など知らないし、詳しく調べるつもりもないのだけれど、土日祝日になると当然のようにみんなでいっせいに休むっていう「聖域」発想を、段階的にでも解消する思い切った方向にいかないと、昨今の日本を覆う奴隷的搾取的労働環境と、その延長にある過労死や職場自殺は減らないんじゃないかな。

 

…なんて言うと「バカな事いうな、そんな簡単に解決する問題か!」もしくは「楽観的すぎる愚説。そんなの問題のスリ替えだ!」って反発が来そうだけど、これはねぼくの持論ね。休日の意味を腹の底から疑うことで、働くことにまつわるギマンを引っぺがすことに効果があると思ってる。

 

週とか月単位での総労働時間管理がすでに世間にはあるんだから、労務者個々の休暇は変動制とかシフト制に移行し、勤怠は多少煩雑になっても総「時間」管理の枠内に一本化すればいいんじゃないかな。誤解を恐れずに言えば、形態としては「総派遣化」とでもいうか。ビジネス英語には「247」(24時間の7日…つまり年がら年中ってこと)っていう表現があるけど、今はいうまでもなくネットがあるし、スマホもあるし、宅配(配送手段)もずっと以前から土日祝日関係なくほぼ全国津々浦々に普及してるし、高速移動手段も確立されてるんだから、連休や祝祭日という区切りは(仕事の場面においては)もはや有名無実なんじゃないかなー。

 

いままでも土日の間に仕事してる人はいくらでもいたし、これからもいるし。そういう人たちは平日に休んでるわけだし、言うまでもないけどサービス業なんかはみんなが休んでるときこそが稼ぎ時。またそうでなくても仕事ってのは土日の間でも進んでいくものだ。人が生きて活動すれば、仕事ってのはいつだって発生してるものだからだ。その「発生」に気づくか気づかないかの違いがあるだけで。

 

休みが設定されてるから踏ん張れるとか、バラバラに休まれるとチームの足並みが乱れるっていう会社員側の意見もあるとは思うけど、踏ん張りや休息の欲求、チームといっても畢竟個人の能力発揮は、全部自発的なものが本来の姿だよね。自分の外部に設定されたもの(休みとか)を受動的に依りどころとするのは、学校で習うことが勉強のすべてだって考えと同じでないの。チームの足並みなんて、各人の意気込みやモチベーションこそがその永続的本丸なんだから、そっちを徹底させるよう指導することが先。足並み自体なら形式だし、揃えたってそろってなくたって、大した違いはないよ。形骸化した体裁取り繕いよりも、実務と実利の徹底。その発展形がここでいう「休日」の再定義ね。

 

(で、固定化された休みを解体するとなると、今言った「休みが稼ぎの人」の商売のネタを奪うことになるわけだけど、ここではとりあえずそこら辺の話は割愛させてもらう)

 

ぼくのように年中無休で長年やってると、取引会社は土日祝や盆暮れ、GWにシルバーウィークといった休みが連続してて、そこだけ見るとまるで優雅な貴族みたいだ。月曜とか連休明けの午前は会議なんかしてて担当はつかまらないし、その間は土日にたまってるコチラの緊急案件もおあずけを食っている。

 

まーそこらへんのグチはさておき、本題の「土日祝日の固定化を職場においては希薄化していくというひとりプロジェクト」(笑)だけど、国レベルならまずは金融機関の土日祝日のフル営業を検討してみない?交代シフト制でもなんでも駆使して。まぁ銀行でいえばそれ以前に、毎日当然のように窓口を午後3時で閉めたり、午後2時で当日の電算取引終了とかって横並びでなってるけど、銀行の中の人は、つか、頭取とか大蔵省は、こういう姿勢に疑問を感じないのかな?変えようとはしないのかな?ATMの営業時間はコンビニのATM設置に影響されてか知らないけど、近年では延長されたみたいだけど、それでも午後7時まで程度にしかすぎなくってさ。ましてや午後2時とか3時で涼しい顔して窓口終了する態度なんか、247リアルタイムのオンライン決済が当たり前の現代では、足を引っ張る足かせ以外の何物でもない。せめて毎日午後5時くらいまではやんないと。銀行が社会を先導する潤滑油といわれてた時代なんか過去ね。時代に合わせて仕事を発展させる方向性も気概もなくて、ちまちました現状維持姿勢しか感じられない巨大組織なんか負債そのものよ。

 

脱線ついでに言うけど、銀行に行くと地方支店でもホワイトカラーが何人も行内をウロウロしてて人員不足でもないだろうし、悪いけど毎日何やってんのかなって思うわ。1円でも合わないと帰れない、厳しい職場だなんて前から聞くけど、巨額の不良債権は税金で帳尻合わせしてもらってた銀行さんよ、キミらの「厳しさ」の方向ってどこ向いてるの?

 

話がズレたんで戻すと、もちろん銀行から「営業時間概念のはぐらかし」を始めるにあたっては各方面の調整が必要だし、株式市場とかほかの金融ジャンルとの連携とか、法律面での整備とか、いろいろあるんだろうけど、これを貫徹できればかなりの小規模投資で、いわゆる大きな経済効果が見込めるんじゃないかな。資金流動の大きなボトルネックが、金融機関の年中無休化でいっこ外れるんだから。こういうふうに企画立案、調整して忙しくするのが政治や官僚にとって本来の仕事だとも思うしね。要するに制度の川上(かわかみ)でアイディアと実行力を駆使して流れを変え、下流域に根本的な恩恵をもたらすのが、偉そうに言うと政治機構の醍醐味なのね。

 

金融とか政治から離れて一般の会社に話を転じてみると、土日祝日も営業してる会社や自営業だと、その間は取引のある関係他社は休みという状態になるでしょ?そうなると平和で順調なときはそれでいいけれど、困るのはトラブルの時だよね。尋ねる相手が休みだから困ってしまう。また、トラブルまで行かなくても、自社外のこと、例えば在庫や納期とかの問い合わせに即答できないこともある。そうしたときに「相手が休みですから」って顧客に言い放ってしまうのはかんたんだ。だけどそこに安住しないで、自社なら自分なら、そんな時こそ担当としてどう対処するか?っていうある種の決意的な発想と行動(自社在庫を持つとか、製品についてユーザー視点に立った、ひとつ上のレベルの研究をしてみるとか)が、客のニーズや支持を引き付けることにつながり、業務をひとつ前進させる推力になると思うんだ。この数年のぼくもそうだったんだけどね。

 

また、そこらへんの腹の据わった緊張力、問題を引き受ける度量が、逆説的になるけれど、過労死や職場自殺といったものの歯止めになるのではないかな。その理由はこうだ。つまり長時間労働とか、自殺に至る理不尽なストレスの原因は、大概が上司の顔色とかのどうでもいいことだ。いつの世もそうしたくだらないことこそが、人を最も苦しめる要因になっている。ところがいつもお世話になってる相手が目の前で困っていて、自分が担当としての根性が問われるときの真剣な実務力は、たとえ長時間に渡るものでもヘヴィーな作業の連続でも、苦にならない。いやその渦中は苦しいんだけれど、それは人を破滅させる苦しさではなくて、乗り越えてみればむしろ逆の、充実して前向きな「効能」がある。このレベルの労働環境なら月に何百時間働いても、いわゆる過労死など起こらない、と断言できる。

 

このへんの「効能」が、一般会社における土日祝日の希薄化によって、案外カンタンにもたらされる気がするよ(すべての会社がここでの論旨である土日祝日の撤廃に対応するわけがないっていうのが、その裏付けになってるけれど)

昔あった土曜の半ドンの復活とかも暫定的にいいかも。あれって気分も良かったし。

 

さてこう考えてくると、労働を時間のみで計測する行為の意味のわからなさに行き着く。またそもそも「仕事」って何?「実績」って何?「休暇」の意味は何?「労務管理」って意味不明、「人事評価」って本当に出来ることなの?できたとしてそれに意味あるの?「正社員」?「派遣」?人に違いなんてあるの?ってことに、なってこないですかみなさん?これが本稿の目的地なのよ。

 

ここで一段階、上から目線から申し上げれば、あたり前だがぼくらの生はひとときも休みがない動態だ。心臓も血液も脳も、そのムーブメントは生誕時から死ぬ瞬間まで、いちども休まないし、休むっていう概念もない。生存と進化という大目標に向かってぼくらの身体は、総力を傾けて存在を維持してる。ひとりひとりがとんでもなく強力な「仲間」を体内に抱えながら、「ワンピース」として荒波を乗り越え、ほかの人間たちと関係をもって暮らしてる。仕事だって、なんの違いがあるか。

 

だから前にも書いたけど、制度から与えられた休暇なんて、「本気の態度」の前ではちゃちなものよ。首相官邸は24時間休みなんかないでしょ?本気の取り組みは自分はノリノリで、周囲から「いつ休んでるの?」って心配されるくらいがちょうどいいんだから。世間も社会も、地獄なんかひとつもないよ。自分で地獄にしてるだけです。

 

<了>

 

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