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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



ビートルズの「A day in the life」という曲に寄せる雑感(永遠と日常と虚無の3点セットを、あなたにお届け)

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*ザ・ビートルズの8枚目のアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」(1967)
 
 

ビートルズの「A day in the life」という曲に寄せる雑感

 

芸術や表現に込められた意味を知ってるか。

 

それはキミをして「普遍」の入り口に立たせることだ。有限の生を「永遠さ」に統合するための助走路になることだ。

優れた表現の前では人は単なる触媒、受容体に「堕ちる」し、最後に自分は溶けちゃう。空虚になる。つまり対象にピンときたら、人はたちまちそれそのものになっちまう。

 

このレベルの表現はレア中のレアであって、めったに出会えない。だからこそ出会ったら、逃さず受け止めなくてはならない。逆にこのタイプ未満の表現はキミにとって全然意味はない。そんなのがたとえ掃いて捨てるほどあっても、量は全然必要ないし関係もない。で、その「未満」の方が、世のほとんどを占めてるわけだけど、量でゴマかされるのはもう卒業。はてなブログとかそうだろ?

 

表現に対しては心や涙で感動したり楽しんじゃう状態が圧倒的に多いけど、これはピン!とくる「同化」のほんの序章で、さいしょに起きる生理現象に過ぎない。感情で処理できてるうちは終着点じゃないわけ。鑑賞なんて余興の態度よ。「普遍」とか「永遠」ゾーンに入っちゃったら、魂から感情は抜けて無垢になるんだから。衝撃を受けて動けなくなるんだから。

 

表現の中でも特に音楽、とりわけロックやEDMは、その「同化」をもっとも成し遂げやすい特権的手段だ。リズムや旋律が強調されてるから、音と人が一体化する手がかり(耳がかり?)がつかみやすいし、即効性も抜群。繰り返しに耐え麻薬性も期待できるし、対象が音だけなので演奏者からすれば純正さや緊密さの構築も比較的容易だ。しかも音楽を生み出す手法も、音を聴く再生手続きも、世にあふれててほぼ誰でも参加できる。

 

そう音楽くらい時間も空間も初めから超えてる「用意された媒介」なんて、そうそうほかにない。スゴイ!

 

だけどね、音楽のこうした驚愕特性に自覚的な音って、実はほとんどない。だいたい恋愛とかクソッタレといった気分の再確認や、風景的詠嘆の曲ばかり。音で通じ合うこのとんでもない奇跡に対して、眠たい自閉症のものばかり。だから世の中ピン!と来ないのばっかなんだ。

 

そんな中、いつなんどき聴いても永遠と虚無を感じ取れる、個人的にオンリーワンの「トリップ」ソングがある。ザ・ビートルズの「A Day in the Life」だ。1967年リリースのアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリーハーツ・クラブバンド」ラストに収録されている曲。

 

これぞ極め付き。曲の途中とラストに、オーケストラが鳴門の渦のような、地獄と天国の両方が押し寄せるような旋律で盛り上げ、ピアノのトーンで締める構成なのだけど、この、特にラスト部分のピアノの余韻音が「終わらない」のだ。レコードだと、プレーヤーがオートプレイモード(盤の終わりにくると自動的にレコード針が上がる仕組み)であっても、針がいつまでも盤上にとどまってるループ状態になり(少なくとも僕の買った盤はそうだった)、実際の曲は終焉してもラストノートの周波数がずっと鳴ってるような錯覚にとらわれる。オーディオの前から離れても、音は耳にこびりついて離れない。やがてこれが生活の基底音のようになってしまう。幻聴じゃなくマジで音と一体化する人間になる。

 

あれはポール・マッカートニーがお遊びでくっつけたパートらしいんだけど、手が込んでる上に、ものすごい音の呪縛効果がある。

 

しかもこの曲、歌詞が日常風景の描写なんだ。新聞でこんなの読んだよっていう何気ない内容で、ジョン・レノンとポールが変わりばんこにヴォーカルを取るんだけど、どちらも歌唱スタイルがナチュラルで気負いがない。裸の彼らを垣間見せる。リズムもスキップするような感じで、人間の快活な生のリズムから逸脱しない。そこにさっき言った鳴門の渦のようなオーケストラパートが、モンスターのように切り込んでくる。つまりこれ、曲全体が「永遠ってのは、日常のすぐそばにある」で、「終わってしまえば雲みたく流れ消えちゃうもの」という偉大な指摘なんだ。

 

永遠性のサウンド表現と、永遠はぼくらからかけ離れた存在じゃないという指摘。そしてその終焉まで見届ける態度。こうした畏怖を5分のうち3つも含んだ曲は、この「A Day in the Life」以外、寡聞にして知らない。

 

(しかもこのアルバムは全体的にも冒頭のエレキギターのオブリからして、他のLPでは味わえないマガマガしさにあふれてる。どんなダーティーでラウドなヘヴィメタバンドでも、こんなビリッとした痺れるひずみ音をかつて記録したことはない。そのくらいギラギラしたムキ出しの異様な響き。あれは啓示に近い音)

 

オーケストラ部分だけでなく、歌詞、歌唱スタイル、リズム、エレキギターのトーンその他すべてでオーディエンスに自己溶解をうながすアルバム。インド音楽みたいな借り物スタイルも含んでるし、言われてるほどトータルアルバムじゃないけど、音楽で成功するって、こういうことじゃないのか。表現使命をまっとうすることだ。本当の仕事の結晶だ。

 

こういう音に洗礼されちまうと、世の中はスカスカなのがバレバレだ。ちょっと脱線してみようか。

 

合理性がなんだ、コスト高だから何だ、効率重視ってなんのことだ。

 

結果を出す?生き残る?自分なりの強み?スキル?キャリア?バリュー?いったいなにを言ってるのかさっぱりだ!

 

みんなの魂をそろって底上げすることが、自分も救われる唯一の道なんじゃないのか。

 

キミが執着するものは自分程度なのか。悔いのない幸せな人生、おもしろい体験いっぱい、自分さえ良ければ…って発想なのか。そんなの誰かにとっての「天国」が、ほかのだれかにとっては「地獄」であるのを看過する、チョーお手軽で無慈悲な発想じゃないか。それがいまのぼくらが社会が世界が、醜悪であることの、昔からずーっと続いてるたったひとつの原因じゃないか。そのヤラしさに、ギマンに、キミは気付かないで済むのか。言わないで済むのか。

 

だったらもう、goodbye 狂える world.

 

キミが今、生存してることの普遍性と隔てられたものなど、この世界にない。ぜんぶつながってる。ありとあらゆる思想、営為、表現、幸福、労働、科学、犯罪等々は、生命と無縁のものなぞ、人の世にひとつもありはしない。当事者律100%のこの世界では、AIだろうがVRだろうがIoTだろうがSNSだろうがクラウドだろうが、自分が不在ならぜんぶ虚空に念押しするようなものだ。どこまでいっても本質たり得ないオモチャだ。そこらへんに無自覚に、かつそのオモチャと本気で戯れることは、虹の向こうを探すような所業だ。

 

おーい響いてるかー。勝ち負けなどないし格差もない、そもそも人に器なんてないんだぞー。オギャーと生まれたときから一切は宇宙から許されているんだぞー。ビートルズのエレキノイズは、そのオギャーそのもの。実存の入り口。そこじゃ敗者の苦みも勝者の栄光も紙一重。その立場で君がたゆまず精一杯キミ自身であれば、まぶしくってだれも文句なんていわないさ。

 

音楽はそこを裂くし、そこで咲くし、そこで鳴るし、そこに成るんだよ。「A Day in the Life」が鳴っているのは、50年前からそんな地平。知らなかったではすまされないよ、こんなに音楽に囲まれた現代なのに。

 

<了>

 

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AIと仕事と1984年。

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*ジョージ・オーウェルの有名小説「1984年」中に出てくる“真理省”のイラスト(ウィキペディア「1984年」より、引用)

 

AIの前に聖域なし

 

AIに今後とってかわられる仕事は単純労働の分野、代替可能な職種(コモディティ化)ということになっているが、本気でAIが進めば一般的にはそういう単純指向から最も遠いと思われてる高等職業、つまり弁護士や医者なんかも「置き換わり」の対象になるだろう。

 

なぜなら、裁判は判例や前例主義で動いてるし、医療における診断とは、症例その他からの人為判断だから。つまりどちらも、多様性に向き合う精緻で誠実な職能に見えながら、実態は過去問題とその解答の規範、「仰げば尊し」の繰り返し。名奉行の大岡越前や「医は仁術」なんて言葉は過去のものだ。

 

だったら、AIにあらかじめ過去の専門データや分野知見、プロファイルをとりこぼしなく入力しておけば、最適な過去解答はそのデータベースから即座に導かれてくるし判断も高度で間違いがない。検証途上のデータもフラグ付きで入力しておけば次善の選択肢も豊富に提示されるだろうし、最適解への至近ロードマップ提示も可能だ。

 

さらにIoT技術も併用すれば裁判や治療のスケジューリングもすぐにできるし、経過モニタリングも容易。変更や修正への適宜対応も難なく可能。可変要因はパラメーターによる人為的条件設定だけだがそれとて時間とともに蓄積するから、解の揺らぎは解消する方向に向かうだろう。AIの自己診断機能も使えばエラーに対しても鬼に金棒だ。

 

そうなると人のかかわる仕事領域はメンテナンス分野になろう。DBサーバーへのアクセスとレスポンスの技術を滞りなく安定させるのと、追加や差分のインプットや修正が、メンテの主となる。となれば日本に、いや世界に数十人で事足りる。

 

(これからはその数十人が超エリートの特権貴族となり、国家元首ですら彼らの下僕となる。民主主義は(こんにちでもそうであるように)傀儡の度合がさらに進む。なぜなら絶対王政の権力はAI側にあるから。世界はパラダイムシフトをかように迎えるわけだ)

 

さて人為によるデータ入力に話を戻すが、それすら面倒なら、IT先進国アメリカが先にDB構築するだろうからそれをまるっとコピペさせてもらって日本仕様に細部を最適化すればよい。そうすれば初期における大幅な手間の軽減になる。法曹分野は難しいかもしれないが、医療分野ならイケそうだ。ただしコピペ元との参照はきっちりやらないとね。必ずどこかが墨で塗りつぶされてたり改変されたりしてるから。

アメリカさんへの見返りは、シンゴジラの版権永久無料とかでいいんじゃない?(笑)コンテンツの権利みたいなカゲロウでの支払いなら、巨額の予算も不要だしもう確立してて破たんしようもないし、手離れいいしでいいことづくめ。東宝への補償は「お国のためのご奉公」の一言でおしまいにしちゃえばいいしね笑。

 

あ、だったら最初から自国で入力しちゃうのが早いかw

 

つか、自国で医療用AIの構築&実装はさっさと済ませて運用しはじめちゃって、バグや瑕疵をつぶしたあとは、その信頼印の日本医療界御用達AIインストール用データベースを、各国にパッケージ販売するのはどう?運用マニュアルと更新作業とメンテナンス契約も含めたら、いけるんじゃない?コピーガードも忘れずに。

 

で初回購入特典は日本の医療機器メーカー各社と組んだハード面での格安リースプラン。最先端の日本製医療機器が激安で一括導入できるとなれば、世界の半分は欲しがるんじゃないかな?パッケージのネーミングは、「はじめての医療AI、国別らくらくパック」みたいな(笑)。機器メーカーへの支払いは、パッケージの全体利益から案分、と。発想が古い気もしますが新幹線とか原発よりはいいんじゃない?とりあえずこれで外貨獲得OK!次期国策に内定!笑

 

軽い冗談はこれくらいにして本題の冗談に戻るけど、法律や医療から進んで、日本はやがて法治国家の中身となる規範は、AIのマザーコンピューターの中に全部あって、人はそこから知見を取り出してくるだけになるだろう。いやマジで。だって今進めてるIT化って、方向性としては六法全書や国会図書館のDB化なんだもん。政治だって国会だって外交だって、対処療法のレベルのものは全部、過去の参照と適用が「仕事」になるだろう。いやこれは明治以降ずっとそうか。

 

今回の天皇生前退位のような新しい事態に対しては、そのたんびに特例法を新設して対処するだけになるだろう。その特例をこしらえることと、施行の実務と、たくさん出来た特例法の維持管理と、お互い法の整合性すりあわせだけが、政治家と官僚の仕事になって、霞が関にはヒマ人が続出するだろう。やった!「1984」の世界がやっと実現する!簡単だ!

 

弁護士や医者、政治家や官僚は、今まで自分の仕事だと思ってきたものが、実は機械(というかデータベースへのアクセスとその分析技術)に代替可能な作業レベルのものだったことに、そうなってからやっと気づくのではないか。世の人が大マジで携わってるのは、その大部分が前準備とか後片付けの当為作業にすぎない。人件費削減の刃は、それを唱えてるその張本人にいつだって突きつけられてて、その構図にお気づきでないのは当人のみだ。世の中とは、ぜんぶ冗談みたいなものである。

 

前も書いたが、人一生の仕事とは、それ(=不具合)そのものがなくなるように尽力する、その性質のものだけを指す。だから、世の中に裁判や病苦や国境がなくなる、あるいはグッと少なくなる、あるいはトラブルが起きても傷が浅いうちに対処できる、そんな世を目指すのがそれぞれの本当の仕事だ。この意味で、職業に貴賤なし、なのだ。問題に対し手加減したり、見て見ぬふりしたり、ほったらかしで収入を得て延命をはかるなどの、いわゆる既得利権の上にあぐらをかくような怠慢は、仕事ではなく退化である。だから本当の仕事は、徹底すればするほど、稼げなくなるものだ。

 

一度造ったら金銭的にはほぼ終わりのもの、たとえば道路とかから、さらに銭を引き出そうとする、そんなレガシー的な潔くない、あさましい根性が原点にあるから、枝葉末節の道路メンテナンスとか税金とかが主題になってきて、道路本体から話は離脱していき実体を失い、仕事はまぼろしばかり追い回す羽目になって空洞化した会社はブラック化せざるを得ず、労働者は孤独に疲れて貧困にあえぎ、人生はむなしいままなのです。いまの世の中ぜんぶコレ。AIによってその「化けの皮」が全部、実質的に引っぺがされ、いままでの仕事の意味を漂泊する地平に立てる可能性があるってのがこの駄文の主旨であります。いっけん人を疎外しそうなターミネーターが、実は人類がスターチャイルドに昇華するための最もよい友人になるのです。

 

そうなると自由とか平等が、空念仏でなく社会的に真の有意を持つ位相にグッと近づく。弁護士や医者や官僚が補助人になり、いい世とよき人を目指すための同志となって相互に成果を分かち合う。そうしてスペシャリティが水墨画のように薄い存在となったうえで咲くのがホントの平等。弁護士会や医師会、省庁や天下り先といった特権階級互助会のホネ抜き化も含んでの、水平な関係性、その自然実現。

 

いまはぜんぜんダメ。エラそうな業界にありがちな、終身名誉監督とか何とか大学名誉教授における「名誉」って呼称。それを許して疑いもしない土壌、ノーベル賞みたいな褒賞をありがたがる風潮が、裏返しにエゲツない差別の温床なんだから。分かってるよね?

 

インターネットが普及しきった現代でも、ノイズとなぐさみもの(ECコマースとか)が増えるばかりで、人はちっとも前進しなかった。前進したのは一部のどうでもいい物販と詐欺業界だけで、肝心の人は賢くなれなかった。これは当たり前で、そんなものに仮託して飛躍できるほど、知能はちゃっちくないのだ。

 

その後、時代は進んで現代、自分の外部に設置したハイレベルな模擬知能(AI)までいって、そいつに従属させられて、ヒマが出来てぶらついて、照射されてはたと立ち止まって考えて、目からウロコがバサバサ落ちて。そうやって初めて人は自分に向きあい、身の丈にあった進歩をよちよちとでも進められる、そんな気がするよ。

 

東京には高い高いビルやタワーマンションがいっぱいあるけど、ぜんぶバベルの塔みたい。重力に逆らっても先は見えてるじゃない。成層圏まで届くわけもなし届いたところでテロの標的にされるのがオチだし。垂直さに貢献しても材料消費が増えるだけ。そこをわかってても、積み上げに積み上げて上に伸ばすしか方策はないのか。建築とは建物とは、誰のための、何を目指したものなのかという「そもそも意識」が仕事の本体だろう。建築学は建物の基礎固め手順説明の前に、人の基礎固めからやり直しだ。

 

でないと2020年の東京オリンピック全体が豊洲化しちまうよ。でもその方が膿が出て、いいのかもね。このへん、わたしもヒトゴトねw

 

<了>

 

毒見社会の到来。


Culture Club - Church Of The Poison Mind

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*カルチャークラブの初期ヒット曲「ポイズン・マインド」…毒つながりで。

 

水清ければ魚棲まず

 

いつものように唐突&暴論だが、人には、いや生命には、個体を維持するため「毒」が必要である。といってもいわゆる「カラダにいいもの」を摂取するのが前提条件ではあるのだが、しかし一方で、ある程度の毒素こそが、生命を大幅に進捗させるという確信を、筆者なんぞは持つのである。むしろ「いいもの」だけでは命は虚弱であり、人の性質はいびつになる。これはちょうど挫折や失敗、叱咤や反面教師の教えこそが、人生における飛躍経験になるのと同じである。

 

poison、venom、一口に毒といっても3種類ある。そのひとつは致死量の設定があるタイプの真の毒。たとえばフグの毒や水銀、青酸カリなどのマジヤバもんであるが、本稿は残り2種類の毒についてである。それは片方は善玉、もう片方は悪玉の毒である。

 

(「毒の善玉や悪玉」などとは、おかしな表現に思われるかもしれないが、この論旨だとそういう言い方になるのである。甘受して読み進められたい)

 

善玉の毒とは、人が大昔から付き合ってきた素朴な必要悪だ。卑近な例だと素朴な形での飲酒や葉巻、魚のハラワタや動物のキモやカビや腐った(発酵)ものを、ニガくてもマズくても食す行為、行動だと迂回や夢想、恥っかき言動などである。マイ論理世界では、「毒」の組成はオーガニックであればあるほど、また、その行為が無意味であればあるほど、善性の毒を適量摂取することは生命にとって非常に有益である。「良薬は口に苦し」。

 

いっぽう悪玉の毒とは、経済の恣意的要請に応え、おもに科学的手段で後から生成されたもので、たとえば人工甘味料や食品保存料、人工着色料みたいなものである(それらは最近あんまり名前を聞かないが、現代でも形を変えてはびこっている)。それ以外の悪性の毒は、無形の例だと宗教なんかもそうであるし、ブラックな社会ストレス(会社での陰険な人間関係や、情け容赦のない雇用実態や貧困、時間に追いまくられること)などもそうである。このタイプの毒をいいかえるならば、テメーのことしか考えてない態度の結晶した鬼っ子、もひとついいかえれば人にとってはよそよそしい「他者」である。こいつが、毒の種類の中でもいちばんタチが悪い。

 

いまの世間はご存知のように毒性はすべて排除し、きれいきれいに隅々まで消毒し、場合によってはヒステリックなまでに良性で満たそうとするのが是とされているのであるが、これはほぼ視覚上のキレイさだけ追求したうわべだけの納得であり、その裏にしっかりこびりついてる不潔からは目をそむける行為にスリ変わる。実に怠惰で幼稚、かつまた、真の「純潔」とはほど遠い対応と言わざるを得ない。

 

先に述べたように毒は毒でも善玉の毒の方は人生に必要である。なんとなれば、人がそもそも毒だからだ。人はみな、フィジカル面ではぐちょぐちょの体液のダーティーさの中から、排泄物まみれで産まれてきて防疫や代謝の能力をはぐくみ、またマインド面では自分の内部にダークサイド、不幸なる毒性の種を抱え、日々こちらも育んでみたり、対立してみたり克服したりしている。この点に謙虚にも気づいてる人を賢明と呼ぶのだ。

 

また、毒なら見境なくすべてを、即時に、抹殺し駆逐せんとするその現代のヒステリー自体が(悪性の方の)毒特性に酷似している。繰り返すが人は毒だ。人は微量ではあるが一定量の(善玉の)毒を抱え、それを自生成したり外部から取り込んででも生きている。むしろそうした「毒性」こそが、生を照らす。毒に向き合い毒を吟味し、毒の性質によって応対を変える、それが生命の多様性と底力だろう。

 

ごリッパな菜食主義と禁煙徹底が、そして「汚れなき」古典音楽を「純粋に」鑑賞する態度が何を生んだか。ヒットラーである。自らの内なる毒性度合に対する見極めの粗さが、外部に敵を設定することを容易に助長し、「穢(けが)れた」ユダヤ人を排斥し、単なる肉片として次々と殺処分するホロコースト感性を育てた。

 

スポーツに過度にのめりこむこと(過剰な筋トレなど)や、サプリメントで食事を済ます合理性などは、筆者の独断だと推奨できない行為だ。悪性の毒を培養する土壌は、いつもポジティブさや利便性の合間に潜んでいる。

 

世間のいう「正しさ」はたいていニセモノだから無批判に従ってると、病気になるよ。ガン患者の増加に拍車がかかったのは、コンビニと健康志向が世に蔓延したのと軌を一にしておる。水清ければ魚棲まず。憎まれっ子、世にはばかる。遠慮せんと自分の違和感に対峙し毒づきたまえ。ぼくなんかも後先考えずにやってきたけど生きてるよ。

 

<了>

 

努力するのは無条件にいいことか。

toianna.hatenablog.com

「スゴイ!」とか「楽しい!」を求めるだけの人の末路をいつも残酷に描く、トイアンナのブログを読んだ。このエントリーを読んで考えたことを以下に書く。

 

周囲からがんばり屋さんと思われてる人はいつもいる。頑張りと、それに対する評価は肯定感の象徴みたいなものであって、世間ではそれは人間性の優秀さや真価として認定済みだ。冒頭にリンクを貼った新入社員の自殺話題でまた株を下げた、電通のような有名会社では、いわゆる頑張りは特に無条件に肯定されていそうだ。長時間職場奉仕 or 滞在(長時間「労働」ではない)と共に。

 

しかしぼくのような非エリートの飲んキャリア、ヒネクれ怠慢オヤジはいつものように水を差すのだが、問題なのは当のその努力が、いったい何を目指してのガンバリなのかってことだ。その原点忘れてないよね?っていうことをいつもネチネチ確認したい。

 

言うまでもなくこの点がもっとも重要で、この点に稚拙であっては、あなたの生涯は格好の搾取元に堕するだけである。

 

個人がひとりでガムばってる間は、ガンバリの効果など限定である。その一所懸命さが本気のレベルまで到達するなら話は別だが、余暇時間にジム通いやヨガに精を出す人は自分しか眼中にないものだ。その同じ人が、オフィスでは案件を右から左に流したり、社内メールをパスワークすることや、外部のご機嫌取りに充足感を感じるのは、よくある光景。けどいうまでもないけど、そんなの仕事っていいません。

 

「閉じたガンバリズム」は、ご存知のようにむしろヤケクソ自死の要因になる。先の戦争における玉砕戦の正体が、そうであったように。

 

がんばりは目に見える(あるいは見せる)ことが多いミラーリングみたいな世界だが、怠惰といつもセットになっている。その怠惰の方は、いつも可視化できないところに巣食うものであって、それがガンバリの影の本体だ。つまり自分の生に怠惰な人ほど、目の前のことや既定路線に、一心不乱にガンバれるのだ。逆に言うと真剣な人ほど、気負わないものだ。で、本当の努力とは、ミラーの存在を感知し、ミラーにまっすぐ突き刺さってゆく行為だ。別サイドにまっすぐ、一心不乱に到達すべきものだ。核心をいつも掴んでるという、濃い実感を伴うものだ。力む姿勢のすぐ隣にある、似て非なる動態のことだ。

 

わからん人はもう読まんでよろしい。

 

機械やソフトを操作運転すること自体は、仕事でない。仕事を完遂するための手段だ。だから操作者=仕事人ではない。会社運営だって具体人の行う、組織操作の手段である。そこでは目的は見失われがちで、実体のないガンバリズムが跋扈しやすい。「広告」を「代理」するという、2重の蜃気楼を追うことが仕事になってる会社なら、特にそうである。だから接待とか人とやたらミーティングするとか、生きるのにまったく不要なものが仕事たらざるを得ず、かつそれが確固たる業務だと錯覚でき、ひいては努力対象となってしまうのだ。冷静に考えれば疑問だらけの職場じゃないのかね。エリートなら、そこに気づく真のエリートであってくれよ。おまえの生は、おまえだけのもんじゃないし、人は何かするとかのために産まれてきたんじゃない。個人は人類みんなとイコールなんだから。

 

<了>