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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



大型連休が、もしかしたら僕たちを「窒息」させてゆく。

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揚げたてのヒレカツをいただく、ご馳走である。

 

<半ドン制度って、若い人は知らないよね>

 

だいぶ前の記憶だが、土曜の半ドン勤務という慣習は、なかなかのものだったように思う。
学校でもそうだったんだけど、妙に清々しかったんですよね。朝は平日同様に規則正しく始まるのでシャキッとなり(正確には制度的にシャキッとさせられてるだけだがまぁとにかく目は覚めるといった程度の意味)、昼で解放される。そして土曜の残りの半日は輝くような、他の曜日では味わえない爽快感に彩られていた。
こんな気分を土曜の半ドンに感じてたのは、僕だけではなかったはず。

 

思うにこの半ドン制とは、勤務の状態→次なる完全オフデー(日曜)への、巧みな橋渡しであり、このバトンタッチのおかげで一日しかない日曜も十全に輝き、夕方に感じる月曜への憂鬱も少なかったような気がする。

 

賃金労働における休暇というのは、次の労働のための骨休めという位置づけであるが、ここで言う休みとは、いったい何だろうかとずーっと思っている。
ぼくは今は自営業なので、休みも勤務もシームレスにつながっているが、サラリーマン時代を思い返すと、連休最終日のむなしさはよく分かるのだった。
こういう最終日に限って、その前夜の深酒がたたって、目覚めるのが昼12時とかだったりするのである(いや、コレは僕の場合だけか笑)

 

 

<休みが邪魔に感じるとき>

 

肉体作業における休憩とは違い、労働制度としての休日は人間の生理や生態リズムを反映したものではない。
なぜ5日勤務して2日休むのか。それは西洋暦における1週間というユニットが、そうなっているからに過ぎない。
休みだからラッキー♪と単純に思う人も多いだろうが、中には5日間「しか」働けないことに不満な向きもあるだろうし、週休2日制だとひと月の稼動日数は21日くらいしかなくなるので、労働の連続性も絶たれるし、まぁ不便・非効率であることも多い。

 

またここのところ政府主導のハッピーマンデー制度適用により、作為的に連休の長期化が図られているのはご周知の通りだ。
そうするとこの考え(労働の連続性)からいくと、連休の延長意図は一見いいようで、かえって真綿で首を絞められるとまでは言いすぎだが、疑り深い僕としてはお膳立てが行き届きすぎてて、何か釈然としない感じがする。

 


<週休2日制度の普及と、日本経済の下降・停滞との関連を疑う>

 

もともとこの国の休日増加計画は、日本人はエコノミック・アニマルだとか、働きバチといった、海外からのありがたくない称号、揶揄、外圧をかわすためのプランだったのだが、経済が行き詰まって久しいのに「休暇」「労働」の本質把握やその改善よりも、目に見える「休暇日数」の延長の方だけを、しゃかりきになって制度推進してきた経緯がある(と個人的には分析してる)

 

あと1日あればこの仕事にケリがつくのに…とか、4連休に入ってしまうからこの案件も持ち越されてしまう…などと思ったことのある人も多いだろう。

 

はたまた、半分冗談だが、「11連休ももらったら、休みグセが付いちゃって仕事に復帰できるのだろうか」とか、「そのままずーっと休んでていいよなんて言われたらどうしよう」なんて、職場でいかにも飛び交いそうなジョークだ。

 

しかし、これらは冗談とはいえ、休暇に対するある不安、後ろめたさを内包してもいる。少なくとも僕に関して言えば、初めて就職した最初の週は、土日だからって自動的に休んでいいのかわざわざ上司に確認したほどだったし、休みを本当にエンジョイできたことや、有意義にうまく休めたためしなど、今までほとんどない。いつも何かに後ろ髪を引かれていたり、なんかやらなきゃとポジティブ気負いばかりが先行して、かえってぐったりしたりとか。こうなると、ほとんどビョーキですw

 

土日2日間、あるいはそれ以上の労働空白は、連休明けの仕事起動に影響を与えないではおかない。
ゼロコンマ何秒の人間動作にまで、微に入り細に渡って「効率化」を要求するこの冷酷な資本主義社会においては、日本だけでなく全世界的に週休2日制は不可解なまでに寛大なように見えるし、なんだか寛容すぎて不気味な感じすら受けるのは、僕がひねくれてるせいだけだろうか。本当は週に2日しか休息日がない、と捉えるべきなんだろう。

 

もちろん労働基準法という法整備はあるし、基本的人権との絡みもあるのだけれど、ゴールデンウィーク、シルバーウィークといったネーミングが耳障りが良く、語呂もいい分、型にはめこまれるような曲者さを感じるのである。また、うまくいえないけど休みを保証することが、企業側の「免罪符」的なものにも、なってる気がする。

週休2日制度は大体90年代初頭には社会的に定着した印象を持っているが、このあたりを境に何が始まったかというと、いわゆるバブルの崩壊と、長い長~い不況の始まりである。
日本における週休2日制度の普及と、いわゆる経済の緩慢な下降・停滞とは、関連してるような疑いを持っている。
休日も貨幣経済も、本質的には人間疎外の共通制度だという気もするからである。

 

貨幣経済はともかく、休日までも人間疎外要因であるとは、真逆の決め付けのように思われるかもしれない。
いや僕にしたってなにも休みを返上して働こうだなんて、時代錯誤もはなはだしいことを言いたいわけではない。
ただ、働くひとの権利としての休日という、自動的に設定・付与され、あからさまに明白なこの聖域自体に、なにかより大きな、「ある種の不毛」へと人を追いやる方向が感じられるのであります。

 

(もっというと「権利」というのも十分に疑ってかかるべき対象であるが、その話はここでは置いておく)

 

そう、ある種の不毛。例示その一。休日の制度化に裏に隠され、巧妙に助長された労働時間の隠蔽が、労働監督の隙間に、タイムカードの行間に、至極とうぜんのごとく発生すること(一日の所要労働時間を細切れに申告して、実質的な労働時間の長時間化を強制するなどといったブラックな手口および社会的弱者へのそうした強制のしわ寄せ)

 

ある種の不毛例その二。このブログでは何度か指摘しているが、良いことを志向しているつもりでいながら、(特定の誰かの意図ではなく)誤謬やズレの全体集積として、結果的にわるいことに傾いていくという、消極的害悪が感じられる点。これは、水からゆで揚げられた毛ガニのように根深く、人を破壊する(見た目にキレイな野菜をスーパーに陳列するために費やされる、おびただしい不健康なものを想像めされよ)

 

不毛その三。休みの意味を考える上で本当に問われているのは「休日」の定義ではなく、「労働」の意義や本質の方であるってことが糊塗されてる点。


休日は労働者の当然の権利ナノダ!とおっしゃるのは、まぁその通りでそれ自体には異論も何もないが、マルクスいわく給料というのは、次の労働に向けた人間の品質管理上の必要経費以上のなにものでもないそうで、休暇も同じ意味なのだろう(すみません「資本論」の読破、挫折したクチです笑)

 

 

<休日を疑う>

 

冒頭に述べた半ドンは、たかが時代遅れの制度にすぎないが、機械的で搾取的で人を疎外させる労働制と、(大げさだが)血の通った人間臭さの復興みたいなものとをうまくつなげる、ひとつの知恵だったようにも感じられる。

 

余暇活動など、個人的には1日もあればいい。そのかわり、家族と毎日接していられる時間の確保の方が大事だ。

 

連休にみんながこぞって休む、渋滞にハマリながらもUターン移動する、行楽地が混み合うこと等の「経済効果」に感じる消耗的な限界や、せつな的なメンド臭さに、僕はどうもなじめない。そんな自営業おっさんのたわごとではあるが、僕らに必要なのは、与えられた休日をそのまま享受するよりは、儲けなりなんなりの営為に転化していく、そんなしたたかな個人的な企てだろうと思っている。本ブログのテーマ「本当の仕事の追求」は、休息を志向も固定もせず、制度面でも要求しない。なぜならそこでは仕事が生きる姿勢そのものと同義だからだ。


(了)