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ペーパーレス化やテレビ会議は、はたして正義なのか?

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*その進歩は本当に進歩といえるのか?

 

画面よりも紙に印刷した物の方が、間違いを見つけやすいのはなぜなのか。

 

以前、ネットで結構論じられた話題に「液晶ディスプレイで文章を読むより、紙に出力したものを読んだ方が誤字脱字や文法の間違いなどに気づきやすい。これはどうしてなのか」というのがあった。この疑念に対しては複数の論点が提示されたのだが、これはぼくも長年気になっていたことなので、なかなか面白い着眼点だなと興味深く読んだ。参照)http://blog.livedoor.jp/lunarmodule7/archives/3562467.html

 

そこで論者から呈示されたものをいくつか以下に列挙すると・・・( )内は筆者の感想

 

■解像度の違い。ローテクである紙の方が解像度が高い(らしいが、解像度なるものにあまり興味はないので詳しくは調べてない)

 

■モニターは重いが紙は軽いので寄せて見れる(これはケースバイケースが多すぎるだろ)

 

■画面のスクロールより紙のパラパラの方が早い(これでは読んでることにならないから論点が違うだろw)

 

■身体性概念という、物理的存在が周囲の環境と関係することの概念からくる影響。本を持つ、ページをめくる、文字をなぞるなどの具体的な行為や、ページの厚みや重さといった物理要素が、身体性に働きかけ、これが間違い発見に影響しているのではないかという指摘。

 

■光の感受性の違いで、人側の受け取り方が違ってくるから。つまり画面は、画面後方から通過する光(透過光)で光らされたものを見ている現象で、紙の上の文字は反射光(外部から当たった光がハネ返ってくる)で見ている状態。この違いが脳や心理に影響を与えてるという理屈。

 

この最後の「ディスプレイは透過光で読み、紙は反射光で読む」という違い。この違いによって脳科学的には刺激を受ける脳内分野が違うという研究が、個人的にはもっともしっくりくる説明であった。

 

(ただし同論内での情報処理のモードが脳内で切り替わるなどという説明には賛同できない。そんな便利で簡単なスイッチがあるという論考自体が、人を奴隷にしていく加担になってしまうと思ってるからだ)

 

ここで問題となるのは、同じ視覚から入った情報なのに脳に響く分野がなぜ違うのか、という点だ。それは上にあげたもうひとつの論点「身体性」がかかわってくるに違いない。自分の外部から入ってくる視覚情報にどういうスタンスで接するかを無意識のうちに決定付けるのは、光に付随する情報の多寡ではないかと思うのだ。つまり、透過光だと照らすだけの一方向の光なので弱い。反射光なら元の光にプラスして、跳ね返り光のパワーが加わり増幅され、なおかつ紙という物体情報も載って「重み」が増す。その「総合力」の結果、脳の刺激は高まるという見立てだ。

 

ぼくなりに飛躍してそこらへんを言い換えれば、透過光で見るとは、部分であり抽象であり仮象であるので間違いはいくらでも看過されてしまうが、反射光で観ることは逆に全体であり俯瞰であり実質であり真理への路であるから間違いを見逃さない。

 

したがって透過光というまばゆいばかりの視覚提示は、マイ哲学においては十分警戒すべき対象である。実体のない抽象概念といえる透過光の世界観に対しては、決して安易な追認などしてはならない、となる。だいいち、まぶしすぎて目が疲れるではないか。ムリを強いるものにロクなものはない。

 

同論文の参照できるリンク

プリントアウトした方が間違いに気づきやすいワケ - A Successful Failure

 

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 透過光と反射光Ⅰ

 

透過光と反射光の違い。この2つはなかなか深いキーワードに思えるので、掘り下げてみよう。

 

ぼくの本業は撮影業へのプロ機材販売である。ひとくちに機材といっても多岐に渡るが近年需要が多いのは高性能なローカルパソコンである。デスクトップ型で、ハイスペックなWindowsマシンを、先方の予算とニーズに合わせて自作し、ソフトなどももろもろ最適化した上で納品するのだ。ここでハード面よりも苦労するのはカラーマネジメントである。

 

デジタル世界での色再現はむずかしい。それは複数のデバイスにまたがる色の情報伝達が円滑に正確にできるか、という課題もあるがもっと難しいのはディスプレイや写真プリントの個体差による色再現の微妙な揺らぎを、どのレベルまで許容するかということであるからだ。

 

例えば「まじりっけなしの純粋な赤」というものをモニター上で表現するのに、いくつかのデバイス過程が存在する。ハード面においてはPC本体内部におけるOS、マザーボード、グラフィックボード等がある。そしてコード類のインターフェイスを通じて液晶ディスプレイに情報表示が伝達される。

 

ここらあたりまでは色のようなアナログなものでも数値的なデジタル情報に還元できるし、実際そうしたパラメーターで伝達されていくが、その次に待ち受けるものはディスプレイである。こちらには個体差、性能差、液晶のヘタリ具合、設置環境の違い(明るすぎる部屋なのか暗い部屋なのか、など)が個別に存在する。したがって色が意図通りに伝わりにくい。色の再現で最大の難所がココなのである。

 

さらに写真業界における画像は、最終的に写真プリントというまた別レベルのものへの転移が行われることが多い。ここで色は、デジタル環境下での評価とはまったく別の舞台に出ることになる。そう、透過光での色情報(ディスプレイ上のデジタル情報)から、反射光での情報(写真出力物)への変異である。

 

そもそも被写体を撮影することがリアル→デジタルへの変換である。そしてパソコンで元画像を確認する単純なことも画像ソフトというアプリケーションの介在がないと視認できない。その後、上に書いたようにパソコンの中を色情報がデジタルとして駆け巡るが、その途中の過程がいくら高性能なフルデジタルであっても、入り口(撮影)と出口(写真プリント)は人間が介在するので、リアルとデジタルの段差ができる。言い換えれば実体と抽象の違いである。そこに「揺らぎ」が出るし、また途中のディスプレイも、デジタルの成員でありながらヒューマンインターフェイスの要素が強いので、上記したように色の面では大きな変動要素である。

 

(じゃあ全体としてはどう折り合いをつけるのかというと、色を包括的に補正するのにキャリブレーションという技術を使う。でもこれは専門的な話なんで割愛する)

 

普段みんな何げなく写真プリントをしてるけど、その裏ではいろんなものが動いてるんである。

 

以上、やや長く書いてしまったが、いくらデジタル上であっても、要所要所がこのようにボトルネック化すれば、情報伝達も結局は伝言ゲームのようになってしまうことが十分にありうるのである。

 

そう、完璧な理論で構築しても、完成してみると何か違うなってことは十分あるってことだ。

 

  透過光と反射光Ⅱ(キング・クリムゾンの曲名みたいだなw)

 

古くは映画やテレビにさかのぼる映像メディア。そこではブラウン管や液晶ディスプレイという透過光で世界を見ることに対する全能感があった。映す内容で画面が可変して表示されること、音声まで付いてくる高コスパのお得感。これがあれば紙などといういかにも古めかしいメディアとはオサラバできる、そんな晴れやかな合理性。表示技術(解像度や表示スピード、カラー再現の忠実性など)さえしっかりやっていれば間違いなど、起こるはずもない。というか間違いを起こすのは人の方であって、透過光の世界は忠実に情報再現だけを目指していればそれでよい…

 

こうした当初の暗黙かつ単純な思い込みは、他ならぬ使用者の人間側営為(紙よりも間違いを発見しずらいということ、もしくはまばゆく視覚提示されたものに対する安易な追認)によって、かすかに裏切られている。フラッシュの発光でまばゆい画面を見て倒れる子供たちは、その警告である。

 

(だいたいイマドキ、映ってるものがありのままのライブ映像である保証など、どこにもありはしない。原発の安全技術は計器によるモニタリングで支えられているというが、その計器のチューニング自体はいったいどうなっておるのか。ダモクレスの刃どころの話ではない)

 

こうした透過光のおめでたき世界観に対し、古式ゆかしい反射光の世界、すなわち紙や文字を視覚で認識していくことは、実体を伴う地味で面倒で黙々とした営為である。紙質や文字の色、字体、におい、紙の重さ、質感は、確かさの確認を、わずかずつではあるが人に逐一迫る。だから間違いに気づく回路が準備されるのである。冒頭で掲げた論点の「身体性概念」である。そこでは紙とコンテンツが不可分でひとつの情報を形成しており、内容と形式が一蓮托生である。いいかえれば全体性の本丸に近い。

 

つまりそれは、人間の姿なのである。

 

精神と肉体が分離できず、のっぴきならぬ人生を生きねばならぬ一回性という宿命から逃れられないわれわれ人間と同じ実存性。それが反射光でものを感取することに隠された本質なのである。またさらに間違いに気づかせる回路を用意することで、おそらく次の飛躍への可能性を、人に残している。間違いに気づく→修正するという変化だけが、人をしてほんの少し成長せしめる原動力となるからである。

 

 

メディアとしての光

 

 またさらに、今度は人ではなく、発信側の物質に目を向けてみよう。

 

液晶ディスプレイも紙も、ともにメディア(媒体)である。メディアの本質は、それによってそれを見る者の相似形を映し出し、その行為全体でもって見る側を照らす、そんな曇りなきカガミであることだ。情報流通の様相とか、取り入れて吸収していき廃棄していくものとか、メディアの機能としては他にもいろいろあるが、まずはわれわれ人類が手にした偉大なる反射板、光を吸収しながら曇りのないモノリス、それがメディアの役目である。そしてそれを使うことで、人はこの世の一番のナゾに向き合えるのだ。すなわちそれは、内なる自分である。

 

光に対するスタンスが決め手だろうと思う。元からある光を反射で利用させていただき、自然に、たおやかに事物が観えるのか、あるいは透かしに供するための光を人工的に作り出しそれで透かして見て分かった気になるのか、の違い。光は人が生誕して最初に視認するもののひとつであり、したがって光そのものがすでにメディアの初源である。世界にあふるる自然光で、ぼくらはまず反射させられてはじめて自分を捉えることができる。人はそうした実在なのだ。

 

透過光の世界というのは、人類がまずはじめに反射光によって「光」というものを認知した後に獲得したものではないだろうか。となれば透過光は順番としては二次的副次的な方に属するものであり、いわばオリジナルの模倣でしかない。

 

光はメディア。さらに反射光で見る紙やそこに書かれた文字もメディア。本は地味であり、読まれるまでは何も言わず黙々としているが、それだけに本質をよくつかんでいると思う。書籍は存在としても連綿とそこにある重みと持続性がある。

 

それに反してそれ自体がキラキラまばゆいミラーやスターはいっけん注意を引くが、マヤカシも多く含み見る側を甘やすので良くない。しかもあおるだけあおってすぐ消えたりする人騒がせな部分もある。なんだか人生に通じるものがあるではないか。

 

 このブログも発信自体はwebなので、透過光の世界の成員に過ぎないが、独自ドメインという重石を付けて少しは「愚鈍」にしてある。また書いてある内容を相応の重心をもってあなたに届けるためには、紙の書籍化がふさわしかろうとたくらんでおるのは内緒だが本当のことだ笑

 

 

ペーパーレス化やテレビ会議は、はたして正義なのか?

 

なんとここにきてやっと表題の展開である。この掟破りの構成、当ブログの商業出版の暁には、整理せなばならぬな笑

 

ここ10年ほどの会社内でみなが血眼になって推し進めてきたものに、オフィスのペーパーレス化がある。机の上に積まれた書類の束を前に、何かを探したりハンコをついたりしてるうちに夕暮れるなど、たしかに非効率性の象徴のようである。

 

業務上無駄を省くことや、効率化に一定の注意を振り向けることに異論はない。しかし本当に大事なのは省いたムダで得た余力で、その後方に控える何か実のあることに取り組んだり、目指していくことである。それに関する思惟や行為の方が、ムダ取り除き実務そのものよりはるかに上位命題であるのは、言うまでもない。いや、言うまでもある。

 

そこに気づかず、ムダを廃することにばかり一生懸命になり、いわば目的でなく手段にばかり拘泥することで、かえって人間疎外の愚に陥ってるのが、現代である。 内容のない本が山と積まれてる本屋の光景は確かにムダの集積であるが、だからといって電子書籍がすべてを凌駕していくわけではないのである。

 

ペーパーレス化だけではない。今ドキの会社だと例えば液晶モニター越しのテレビ回線、ネット回線会議システムなども、ペーパーレス化と同じように人間疎外の象徴的光景であろう。

ああした会議システムは、昔は頻発してた伝送の際のコマ落ちや音声の遅れなどの技術的弱点を今では克服し、コスト削減という明確な「メリット」にも十分寄与している。

 

しかしそれら技術的成熟と引き換えになるほどには、テレビ会議システムは肝心の内容充実を保証しない。モニター越しに、あるいはカメラに向かって、マイクを使って意見を述べるその「相手」は、実際の距離以上に「離れた」抽象存在である。たとえその相手をリアルによく知っていたとしても、またモニターの解像度がいくら向上したとしても、抽象度はほぼ変わらない。

参加者の闊達な意見を阻害するこの隔靴掻痒な感じは、情報共有の推進やリアルタイムでの決裁スピード向上、イノベーティヴなモチベーションをクリエイトなどという、掛け声だけは勇ましい美名の元、いつまでたってもどうも慣れない悲しき実務者の、本末転倒な構図なのではないだろうか。

 

そもそも会社という仕組み自体が、人を敬う理念では動いておらず、理論的にはブラックでない企業などないのだから、上記のような傾向は当然のことなのだ。ペーパーレス化その他への無批判でやみくもな没頭は、ムダ排除の行為自体が魔女狩り化していく現象である。そしてその、無駄を極限まで省く行為の終着点において、最後に排除されるのは、たとえ創業社長であったとしても、他ならぬわたしであり、あなたである。いったん歯車が狂えば、仕事の創出者まで排除しても矛盾でないのが資本主義。それはまるで脱退と加入を繰り返し、オリジナルメンバーが誰もいなくなり、サウンドもすっかり変遷したのに名義だけは残ってる、そんなロックバンドのようだ。

究極の効率化など、残酷な非経済徹底の別名にすぎぬ。いったいなんのための効率化であるのか、いったいだれのための経済であるのか。おおこれでは自分の尻尾を喰って生き延びるヘビではないか。

 

これらはすべて、いままで述べてきた透過光で支えられた価値観である。錯誤に気づきにくいのは、そのためだ。

 

真の効率化は、時やスペースの空隙を埋めることに汲々とすることではない。それはより高い命題に向かって間違いと逡巡と後退を重ねながら、螺旋階段を少しでもうまく登り詰めていく方法論、そのひとつに過ぎない。つまり、地道な反射光の世界観である。

 

4Kテレビやタブレット端末、Google Chromecastみたいな派手なガジェットもそうだが、表示モニターや受信機の高度化ばかりに血道をあげるなど、こう考えていくと魂の破壊の一里塚へ、頭からまっしぐらに突き進んでいく行為ではないか。

 

岩波文庫で何世紀も前に書かれた書物ばかり読んでる身としては、どうもねぇ、にわかには肯定しかねるねェという気がするのである。

 

*透過でなく反射光原理のタブレット端末もあるみたいだ。筆者はガラケーしか持ってない「うつけモノ」につき、その使用感は分からない。しかしそれは透過光の反省に立って開発された製品だと、一応は評価しておこう。

 

<了>

 

日ペンの美子ちゃんにおける数々の優れたマーケティングの手法を解明したら、近代的自我の呪縛という不幸の構図があぶりだされてきたから報告します。

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1代目美子ちゃん。画:矢吹れい子(中山星香) 1972年~1984年の間掲載とのこと。引用元http://blog.livedoor.jp/textsite/archives/54987973.html

 

 日ペンの美子ちゃん現象を振り返る ~コンプレックスからニーズを掘り出して商売する手法~ おもしろうてやがて悲しき美子ちゃん

 

突然ですが昔いたるところで「日ペンの美子ちゃん」(にっペンのみこちゃん)なるマンガを見かけたものでしたが、あれはいったい何だったのか(いまでも存続してるそうでありますが)、これは70~90年代のユースカルチャーを考える上で、言うまでもなく大問題であります。

 

そこで日ペンなどやったこともないが美子ちゃんに対しては中学生時代に惚れた(笑)過去をもつ不肖私メが、この「日ペンの美子ちゃん」現象(?)に関し、以下に論じました。さてそこで見えてきた大テーゼ、それは「日ペンの美子ちゃんは現代日本のひずみそのものである」という深遠なものでありました。

 

どういうことでしょうか?以下順を追って論じてみましょう。

 

 

第一部:宣伝ガールとしての美子

■女の子が登場するマンガのヴィジュアルで、一瞬にして読者の心を奪う

 

■マンガの導入部から必然性なく肉筆の重要性に切り込んでいく

 

■そして聞かれてもいないのに美しい字の尊さを説く

 

■しかも相手がいない独りごとの時もあり、その際は読者に目線を送ってる

 

■下手な字は悪であるという価値観を提示し読者を誘導し、ストーリー性で共感を深める手法を執拗に繰り返す。しかし前提としては読者は字がヘタっぴぃだとあらかじめ措定してから話を始めており、この点が不遜である。

 

 

第二部:より踏み込んだときの美子は一流のセールスレディと化す

■「一日たったの20分」を必ず言う。そこには20分で済むからやらない方がおかしいとの脅迫的含みが感じられる。

 

■「1級合格者の4割は日ペン出身」「指導ウン十年」(たぶんもうすぐ100年!)などの指標を織り交ぜ、その点はマーケティングの鉄則に忠実であるが、その指標の裏づけは読者に一任されている。

 

■「超一流の先生方」による「丁寧な添削」があり、バインダー式テキストも使いやすいと毎回連呼するが、マンガ上での主観評価であり、実態は受講するまで分からない。

 

■しかもそこら辺になると美子でなく、いつのまにかそこにいる猫やウサギが解説する場合も。美子よ、それでは怠慢ではないのか。

 

■顔面ローラーみたいなのが2つ付いた、指先を鍛える新案グッズがかつてあった

 

■ハガキを付け、点線で切り取れるようにし、切手も不要と、商談のクロージングまで至れり尽くせりの素材を準備して雑誌に掲載されていた(ような気がする)

 

 

第三部:マンガ表現の可能性に挑んだ美子

■マンガとしては、主人公の美子ちゃんを主に恋愛場面において報われないオチやドジにおとしいれ、最終的に自虐で共感を得る展開が多い。

 

■しかし美子ちゃん自身は並み居る恋敵より圧倒的にすごい美少女であって、あれなら字が多少下手でもモテまくるはずだがそこに疑念は抱かせないようになっている。

 

 

第四部:美子の限界をみた

■ホレボレするようなきれいな字を書く人は、確かに人格まで高潔に見えるがそれは幻想であり、最終的に文は内容である。マナーとして、たしなみとして、美しい字は気持ちがいいし円滑であるが、同時に手段にすぎないものである。

 

■また、美しい字を書きたいと思ったら、規範は自分で探し、自分で自分の悪筆を見つめる以外に、克服する方法はない。外部に頼ればそれだけで美しい字が手に入るという考えでは、文字以外の人生の充実はおぼつかない。そこにいっさい言及も自省もない美子が、70年代初頭から実に40年以上もの長きに渡り、字がきれいなだけで恋愛等で失敗を重ねているのは、その意味で自明の理であり、この自明の理に大事なポイントが隠されている。

 

■美しい文字は、手先の器用さが保証するものかもしれないが、実人生の成功は必ずしも約束しない。キレイな字を目指したところで、まず最初に、本当に達筆になれるかどうかは怪しい上、もしそうなっても、今度は一番肝心な人生が、文字ごときでは左右されない頑強なもので、実際なるようにしかならない。そのことを漫画内で誰よりも美子自身が、オチで立証し続けているというこのパラドックス。これはすなわち、日ペンによる日ペンの自己否定である。もし宣伝の本質における論理的帰結に従うのなら、美子は毎回その美しい筆致によってのみ、汚い字のライバルに勝利し続けなくてはいけない(追記:そういう回もあったような記憶もあるが、それはごく少ない展開であった)

その本来の形式の場合、マンガの要求するオチは、別の箇所で創出せなばならない。もしくは落ちのないマンガとなろう。

このように周到に見ていくと、商売の論理は広告の話法で破綻することがあるのだと分かる。つまり誰も気づかぬうちに宣伝が商品を裏切る、ってことがありうるのである。

 

■「日ペンの美子ちゃん」。彼女は広告という制度への無自覚でお茶目な批判者であった。対する広告主(=日ペン)側は、オチを付けねば落着とは見なさないマンガの本質部分をスルーし、おそらくは分かりやすさという指標のみに着目してマンガを宣伝手段に用いて、結果上記のように破綻し続けてきた。はじめから失敗しているその姿は、無自覚なだけに無残である。飼い犬に手をかまれてかつ気づかない。

 

■美子は上記の錯誤によって広告主だけでなく、漫画家自身も、読者も、媒体掲載者も、すなわち関係者全員を、長年に渡って無言で欺き続けてきた。かわいい顔でドジを踏む、きれいな文字の美少女は、広告の向こう側から「キレイな文字なんて、最終的には何の役にも立ちゃしないのよ」と、怨嗟を唱え続けてきたのである。ここで根底から問われてるのは、文字のきれいさへの固執を「必要」と思い込ませ、それを商いにするという、現代社会の基本姿勢である。日ペンは、単にその一部にすぎない。

 

 

第五部:ときの流れと共に変わる美子を、別の角度から見てみる(いまはウェブ上でしか連載してないんだと)

■表面的なことを言えば美子は5世代のキャラ変遷があり、顔も花とゆめみたいなのから、露骨にアニメフェイスだったり、オタクの人気アイドルになってみたり、時代のトレンドに合わせていろいろである。

 

■外見だけでなく、美子の宣伝スキルといった内面も変化している。現代はいうまでもなくテキストタイピングの時代であり、SNSの時代でもある。

 

■そんな現代においても肉筆の美しさと手紙という手段こそが、至上のコミュニケーションツールであることを、ストーリー上1コマ以内程度で簡潔に説明することが、現代におけるWeb上の美子にはどうしても必要である。

 

■したがって最近の美子は忙しい。それは伝統の定型9コマ内で「心のこもった肉筆」の優位性を説得するためセリフ量が増えたからであり、しかもその制限内で、実らないことになってる恋愛をきちんと(いつものように)「実らせない」ため、展開を性急にせざるを得なくなったからである。

 

■日ペンのスポークス・ウーマンに専念してればよかった時代はとうに過ぎ、書き文字の審美性や手紙の重要性まで解説する任を自然と背負わされた近年の美子は、大変な労働量をこなすスーパーウーマンであらねばやっていけない。70年代の美子は牧歌的余裕の中で青春とペン字をあれだけ謳歌していたのに、今ではあらかじめ決められた形式、制限枠のなかで、自分のせいではない複数の説明責任に耐え、己の人間性を希釈し、窮屈さへの隷属をしいられている。ああなんという強制的な残酷社会であろう。あれでは忙しすぎて子育てはおろか出産や結婚、いや恋愛すらも危ぶまれるではないか。それどころかうつ病などにも気をつけねばなるまい。

 

■現代に生きる日ペンの美子ちゃん。それは社会の成立基盤が処理不能なほど多様化し、無用な情報ばかりが増え、他律的な素因によって発生した見えない何かにあやつられながら日々疲弊する、われわれ現代人の姿そのものなのである。

 

 

結論

日ペンの美子ちゃんとは、自分が広告でありながらも自身が不毛な商業への無自覚な批判者である。また同時に近代に確立された商業宣伝手法の、洗練された系統そのものでもある。これは基本的に情弱に対する自作自演であり、素朴さの面をかぶった狡猾であり、ブリっ子(死語)、カマトト(もっと死語)と同義である。さらに申すなら、いわゆる"ステマ"への、これは道程なのである。そしてその道程自体が、他ならぬ自分自身をも呪縛してる倒錯である点で、美子はわれわれ現代人を照射する鏡なのだ。そう美子とは、人間性への警鐘なのである。

 

最後に言っておくが、これは大マジな指摘である(笑)

 

なお、本記事を書いたあと、もっとうまく書けてるブログを見つけてしまった…orz

blog.livedoor.jp

<了>

 

ほかのものに己を仮託するというブルース音楽の話法は、個人至上主義を上回る思想になる。

*悪魔と邂逅した伝説を持つ唯一のブルースミュージシャン、ロバートジョンソン。ハットのかぶり方もスーツもキマッてる。音は陽気な呪文のようだ。

 

 

youtu.b

*Howlin' wolfの傑作アルバム「Moanin' in the moonlight」。近代ブルースの文法を全部採り入れたバラエティある音楽性。音の手触りはあくまで質素で抑制の効いたもの、そして実にマガマガしいうた。単色でありながら豊潤な世界だ。

 

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 憂さを晴らすのではなく、憂さを深める音楽がBlues

 

Hoochie Coochie Man

Red House

Hoo Doo Man Blues

Catfish Blues(Catfish…ナマズ)

 

上に挙げたのは米国で生まれた偉大な音楽スタイル、Bluesの名曲の一部である。作者はいづれの曲もあまり重要視されない。いろんなひとに歌い継がれてきた。

 

Bluesは1800年代後半に発生源流があるようで、日本で言えば幕末。歴史の長いジャンルである。したがっていろいろ伝説的なプレーヤーがいたみたいだ。ロバート・ジョンソンなんかは名を残せただけで相当有名な部類だろうし、未分化の時代はもっと無名の有象無象たちが米国各地にいっぱい居たに違いない。専属の音楽師みたいな形態になったのは、ずいぶんあとのことであったろう。

 

シカゴとか南部とかデルタとかの、歴史が固まってからのブルース界しか筆者は知らないが、その判断から言うとブルースミュージシャンはだいたいみんなサウンドもルックスもファッションも似たようなものであって、1950年代くらいまでは演奏者も透明人間というか、著作権未満(うたはみんなのもの)という価値観の中、トラディショナルソン グを継承するうたうたいという謙虚なたたずまいに終始していたと考えられる。演奏に関しても、たまり場で「流し」、1曲1曲歌うスタイルだったろうから、パッケージ化された流通形態にはなじまなかったに違いない。

 

Bluesの歌詞は類型である。そう大胆には自分勝手に歌詞をつけられないジャンルであり、スタイルに恭順するよう求められるのが、退屈といえば退屈である。そこではベイビーやハスラーやギャンブラーといった何か別の者への「想い」が歌われることになっている。ただそれは無邪気なワナビーや、おめでたいあこがれとは違う。なぜなら歌われる「想い」はウジウジ、じめじめ、グダグダとクダを巻くための「素材」であるからだ。

 

bluesとは何かというと、そうした「素材」をつかった憂鬱や疲労の、音での体現であろう。その独特のメソメソしたような曲調からぼくなどは、ブルースは奴隷時代に抑圧された黒人たちの、服従状態を慰撫するソングであり、コットンフィールドでの労働歌ジャンルであって、お互いの傷を舐め合う感情がベースになっている…と思っていたが、どうも最近はちがった解釈が芽生えてきた。

 

あれは憂さを個において晴らすのではなく、憂さをみんなで深めていく音楽なのではないか。憂鬱や徒労を確認してそれを対象化し共有化し、身に着ける音楽なのではないか。パターン化した歌詞とマイナーな曲調は、たぶん自分のなかからそれを掘り起こしていくための秘策だろう。そして演奏で確認や対象化を行い、それだけでなく、音出しを通じて演奏者が憂鬱や疲労そのものに純化していくこと。また、自分が単なる一介のスピーカー、伝達メディア、媒介する器官となり果てること。すなわち個の「すり減らし」が起点となって他と多への伝播を志向すること。それが表現の深化と拡散そのものになる、と。そこを目指した音楽スタイルだったのではないか。従って(単純な様式だから)ギターと声があれば技術要らずでほぼ誰でも吟じることができる、そんな無記名性がBluesの前提であった。

 

伝統という全体の気の流れに、自分を開示し同化していくこと

 

自らがそれそのものになる…これはあらゆる自発的な表現や運動の根底をなす要求である。舞踊は動態の意志であるし、スキージャンプは風への同化であり、フィギュアスケートはスピードと舞いの中に自己を溶かしていく作業だ。別の何かになることで、逆に自分が見えてくるし、その過程で何かの要素があなたにも届く。それが全体性の獲得に資するのだし、本来のメディアはそこを媒介するものである。

 

ただそのまえに、確認や対象化がある。音楽としてのBluesとて例外ではない。

 

サウンド面からブルースを考えた場合、それは「想い」を出発点にしながら自らを「別のもの」への擬態化の中で忘我せしめる方法論である。その実践の過程で自分が消えて憂鬱や疲労そのものになる。それで「確認」することはすでに述べた。

 

その忘我状態をアシストするためには、歌詞だけでなくあの一定の形式、コード進行に則った音階が手続きとして要請されることになっており、それは自分が生まれる前から先達たちによってそうなっている。伝統という全体の気の流れみたいなものに、自分を開示し同化していくことで「共有」に参加させていただくのだ。そこらへんには小さな「自分」の介在する余地はない。そうでなければ「ハウリン・ウルフ」や「マディ・ウォーターズ」なんて芸名で活動しようとする発想は、出てこない(あれはあれでカッチョいいが)

 

(余談だが同じような時代にゴスペルというジャンルもあるが、あれは騒々しい集団ミソギみたいなものだろう。神に向かって歌うことにみんなで参加するのは、たぶん真の共有化ではない。全員がいても、ひとりひとりは神の方を向いてるだけで横に拡散はしてないからだ。逆にひとりで全部やる純粋素朴なBluesの方が共有の本質を掴んでいる。だからゴスペル界からはときどきスター歌手が現れて、世俗的だが限定的な「成功」を収めるが、Bluesミュージシャンは「成功」とは無縁である)

 

かくも柔軟性に富んだ「スタイル母体」としてのblues、そして今

 

さて戦後の近代bluesは、エレクトリック楽器とレコード複製技術の、両面からの本格的な普及発達と、商業や流通機構の隆盛により、白人の子供たちによって発見され真似され、ロックの母胎になったり、例えばジャズのような別ジャンルと融合したり破壊されたりした。ほかの音楽に比べてブルーズだけが突出して、めちゃくちゃ手を加えられたり参照されたり解体されてきたように思える。日本の演歌にすら、擬似ジャンルとして取り込まれたくらいである(青江三奈「伊勢佐木町ブルース」など)。それは元がそれだけ透明な「素材」だったからではないか。

 

透明性。そう、それを土台にかずかずの「発見」がなされたのだった。つまりBluesの擁する古典的類似性に対し、自分なりの色を付けたりアレンジしたり、変革を加えることが、それだけで自己の表現になりうるという「発見」である。Bluesとは、かくも柔軟性に富んだ「スタイル母体」であった。自己を溶解していく受容体として、優れたスタイルを元々もっていた点がここで生きた。なぜなら「型」があるだけであとは透き通ってて自由自在に染まるからである。俳句のようなものだ。様式の発明は著作権利概念の超越を志向する。

 

しかし、50年代以降は世界の商業化近代化均質化が進み、悪魔に魂を売る交易の可能なクロスロード(ロバートジョンソンのCrossroad伝説)なんぞは一笑に付される時代になった。憂鬱や徒労は依然として人々にのしかかっていたが、テレビやドラッグ、キャンプやカタログ雑誌などのイージーな娯楽で、そうしたものをゴマカす時代が到来した。「それそのものになる」ことで深めながら解消したり共有したり発展したりなんてのは、まったく時代遅れの手続きに後退した。その構図は実は、人種差別とはまた違う、別の大きな何かへの、人々の奴隷化のはじまりであるのだが。

 

その段階でブルース音楽がやっとこさ獲得したのは、ほかの音楽ジャンルではとうに当たり前になっていたプレーヤーの実名性である。

 

演奏者主体でBluesが愛好されるようになったのは、1950年代からであろう。ライブと同じくらいかそれ以上に、録音過程が重視されるようにもなり、演奏者側もBluesの典型に閉じこもったような、微妙な差異を鑑賞するような録音物ばかりになった。そして流しの伝統はほぼ潰えた。つまりBluesは自己目的化しはじめた。そしてそのまま現代まで至っている。いまやBluesは、日本の古典芸能と同じようなポジションに居る。

 

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さてブルースが記名という個人主義に染まったとたん、骨抜きになってしまったというこの考えは、自分で言うのも気が引けるが示唆的である。ぼくらは個性や個人というものを尊重すること、例えばゴダイゴの「ビューティフルネーム」の表現する、それこそゴスペル的祝祭性が、人類を幸福にする最新モードであると考えていたのだ。しかし欧米から輸入してきたこの個人至上主義は、民主主義と同じように、もしかして無効なのかもしれないのだ。いやそれどころか新たな災い、奴隷制の最新型ニューウェーブなのかもしれないと疑い始めている。みんなすばらしいイデオロギーだと軽く肯定するものというのは、「祭壇」という1方向のみへの憧憬であって、それは実は大いなる抑圧の裏返しなのではないか、というひそかな確信である。

 

以前にも書いたが、人は全員そのバックボーンに、見えない普遍を抱えている。個人個人はその大いなる普遍の出先機関にすぎない。その普遍は、全動植物の進化してきた意志、遺伝のエネルギーやメカニズム、地球の公転自転の原動力などと同じレベルものであり、そこらへんの草木にだって宿ってるものだ。いやひょっとするとそれらよりもっと巨大なものかもしれない。ただいづれにせよ、目に見えないものである。

 

人の生誕と生存とは、自分なりのその普遍を体現化していくことであり、その普遍のバトンリレーが、人類の総体であるはずだ。そして子供の誕生は、新たな普遍の担い手が登壇する可能性である。そして個体の死とは、大元の普遍に還ることだ。

 

人は普遍というとんでもない地盤の上に咲いたお花か何かであり、その二層構造の上に立脚してる。お花は勝手に咲き、きれいで目立つ。茎や葉や根で支えられてるが、そこも見ようとすれば可視できる。そしてお花は同じものが2つとなく、美しさや華やかさ、大きさを競い合いやすい。人生なるものはそのお花のごときものであるが、お花の真髄は花弁ではなく花粉であり、それは肉眼で見るには小さすぎる。

 

ここ数千年くらいの人類は、花粉の存在には少し気づいていたが土壌には気づかず、ドカドカと花粉も土も踏みにじるばかりの歴史であった。特に宗教の発生と貨幣の登場、そして産業革命あたりでその踏みにじりに弾みがつき、西洋での個人主義の台頭が、普遍の埋葬にトドメを刺しつつある。なぜなら見えやすい個人性を見ることだけにこだわると、花びらしか見えてないことになるからだ。目を凝らしてもせいぜい見えるのは花粉である。花粉は花粉で大事だが、しかし何のため花粉が存在するか、花粉の存立基盤は何なのかという根源的問いが、もっとも肝要である。個人主義は、ミーイズムとかエゴイズムのようにネガティブな方向に先鋭化しない平明な状態であっても、そのような錯誤を生じさせる契機をはじめから孕んでいるような気がしてならない。

 

いま正しく生きるとは、自分だけの損得や勝ち負けを見限ることである。ビジネス界では一人勝ちや一強多弱構造などといわれるが、その当の勝者の顔はというと、これが美しくない。商売を続けてればやがて負けが込んでくるのが分かっているから憂鬱なのだ。また、わが世の春のGoogleなどの検索エンジン稼業も、それなりのテクノロジーやIQに支えられてるとはいっても、しょせんはネットインフラの上で他者の集合知に整理の場をあたえてメシの種にしているだけであるからこれも大したものではない。大金を稼いでるようだが、ただそれだけの無産階級虚業である。CEOはその辺にうすうす気づいており、いつも内心ヒヤヒヤしている。勘ぐるに彼らは、事業のバイアウトや撤退をいつも考えてるのではないか。ですからGoogleやFacebookを、間違っても神格化などしてはなりませぬぞ。

 

ビジネスの世界だけではない。たとえば総理大臣職なども、担当が誰であろうと何か悪意の元にこの国を戦争に導いたり、破壊していったりするのでない。あんなものは別の何かの傀儡(かいらい)に過ぎないのであって、摂政は別にいる。それは一義的には所属政党であり、また、その先に鎮座するワシントン様であるだろう。今後のご主人様は、中国のナントカ党に交代するかもしれないが、いづれにせよ民意ではない。

 

そして摂政の本当の本体は、こうした外国でもない。それは自分(自国)だけの損得や勝ち負けにこだわる姿勢なのである。

 

以上みてきたように、われわれ現代人は、みんな何かに操作されてる存在であり、自分の性格とか人生とかにこだわっている限り、その操作の末端に座するだけである。

 

いまの日本の、いや世界のそうした「総奴隷状態」を解消したり打開したりできるのは、真のBlues精神を以って共有の境地に至ることである。つまりそれは、単調な繰り返しの中で、ほかのものに己を仮託することで自己が開花する、戦前のブルース的手法の復権である。それは個人主義やら著作や所有の概念を上回る、骨太の思想になり得る。そこではじめて人は憂鬱や屈折や疲労とホントに向き合える。そこを経過してないと、個性もなにも身に付かない気がするのである。

 

奴隷のなぐさみものが、長年の潜伏期間を経て花開き、次世代の糧になる…痛快じゃないか。

 

魂を交換するCrossroadsは、いつでもそこにある。いまは見えてないだけだ。

 

<了>

 

参考にした記事↓。ロバジョンに対し理系分野からアプローチして、ぼくにはできないような巨大な発見に至っている。どんな発見なのかは読んでのお楽しみ。

hayashimasaki.netえ羅も

 <追記>

日本でブルースといえば憂歌団というバンドである。彼らも俺が俺が、というのがまったくないまま足掛け30年以上やっている。ヒットを出したことは一度もないが歌は誠実、カネはないが充実はいくらでもあるという、世界でもまれなバンドである。これが理想だ。

 

 

「知らんホトケより、しっとる鬼の方がマシじゃげの」(by 菅原文太)…「仁義なき戦い」の名セリフから学ぶ人生訓。

 

無自覚な偽善は、自覚的な偽悪よりタチが悪い。

 

こういう話↓が2ch掲示板に挙がっていて、自分の知り合いにも同じような人がいて身に覚えがあったし考えさせられた。長いけど、全文引用してみる。

 

その神経がわからん!その21

135名無しさん@おーぷん :2016/06/11(土)23:04:49 ID:wP4 ×
高校時代に世話になった先生が、定年退職後にカフェを開いた
もともと人権意識が高くて障害者福祉や動物愛護に関する活動をしていた人でなおかつ芸術に関してもかなりの教養がある
カフェもそういった分野に関わる人たちの憩いの場になればという趣旨のもの
ただお店の構想を見たときに、それ以外の一般人には敷居が高く感じられるだろうなと思われるものだった

いざ開業してみると、やはり一般のお客さんには入りづらい感じになった
おかげで駅近なのに、平日は閑古鳥が鳴いている
レビューサイトにも「居心地が悪い」と書き込まれることがあった

高校OBや現役生はなるべく足を運ぶようにしたけど、平日は皆仕事や学校があるのでどうしても土日にしか行けない
しかもその高校は県外に進学する子が多かったので、次第にOBたちも来なくなった
現役生は試験勉強で忙しいし、先生の教師時代を知らないので、そこまで義理立てする気持ちにもならなかったようで、やはり足が遠のいた

そのうち「お客さんが少ない」「赤字がつらい」と先生がFacebookに投稿するようになった
見かねたOB(飲食経営に詳しい人)が、一見さんでも入りやすいお店作りをアドバイスしたが結局先生は最初の方向性を手放せず、そのOBとも喧嘩別れしてしまった
136名無しさん@おーぷん :2016/06/11(土)23:05:14 ID:wP4 ×
その先生はもともと反自民・反原発のナチュラル志向だったんだがお店の経営がきつくなるのと同時期から、その傾向がどんどん表に出てきた
Facebookの投稿もそういう記事のシェアが増えた(しかも人工地震とか陰謀論とか眉唾物ばかり)

私は遠方の大学に進学し、原子力関係の仕事(非原発)についたんだけどそれも先生は気に入らなかったらしく、たびたび辞めて地元に戻ってくるように言われてた
その後、病気が原因で退職したら大喜びされたので、個人的にはその頃から先生が嫌いになっていたけど、その病気も原子力のせいにされたので、大喧嘩をして縁切りした

それ以降はなんとなく同級生から風の噂を聞くくらいだったのだが結局、そのまま大赤字を抱えて閉店してしまったらしい
先生のFacebookを久しぶりにのぞいてみたら、それも「安倍政権のせい」って書いてあった

教師時代はとてもいい先生で、病気で休みがちだった私をとても熱心にフォローしてくれて評判のいい病院を探して紹介してくれたくらい、いい人だった
どこでどうなったんだろうと思うと、切ないなぁ・・・

なんて思っていたら、つい先日、先生から友人経由でメールが届いた
「今のお仕事(出版関係)は順調ですか。今度手記を書こうと思うので、あなたの会社で出版してもらえない?」とあった
あんだけ大喧嘩したくせに・・・と思ったが、当時の恩を思って久しぶりに会う約束をして原稿を見せてもらったら、自分のカフェ経営を振り返る内容だった
でも自分の失敗は全部「自民党のせい」となっていたのでだめだこりゃとがっくりきた

http://kohada.open2ch.net/test/read.cgi/kankon/1465140047/ 

 

さて上の引用にあるとおり、人権意識が高く、障害者福祉や動物愛護、慈善事業やボランティア活動などに、張り切って精を出してる「いい人」が確かにいる。そんな人の中にこそ、イマドキはネットでの陰謀説やいわゆるネトウヨ言説などのマユツバ系に絡めとられやすい人がいて、じっさいぼくの周囲にも2~3人いる。

 

いいひとなのに不思議だ…という印象を持つが、それは違うだろうな。自分の中身がなく、他者の正義感にもたれかかって慈善事業にいそしんで来た、そういうタイプの「いいひと」ほど、別軸の価値観にも染まりやすいのだ。上の引用での「先生」の今後は、新興宗教などにハマってケツの毛までむしり取られるパターンではないかと。

 

これは完全に私見だが、自分の内発的善意から発した善行は、相手のニーズを見つめた上で対応したものと違い、えてして前のめりで独りよがりのものに陥る可能性が高い。突き詰めた個は、全体視野を獲得するものであるが、そこまでいってない個は害悪になるのだ。

 

自分の外側にある存在に対して浅い親切を施すことなど、ニセの愛である。ホントの愛とは、そう簡単に親切を与えないことだ。自尊心やニセの親切心から有意なものが生み出された事など人類史上一度もないのであって、本当に役立つものは文学でも音楽でも、自分をカラにするとか限界までダメ出しするとか、自分を木っ端微塵に破壊するとかのパフォーマンスから、つむぎ出されるのである。

 

どんなに性格がよくても、情緒的で生ぬるい対応しかできない人とばかり付き合っていては共に沈没してしまう。それより性格が悪くても正鵠を射た指摘や、辛口の戒めをキメてくれるひとに影響されよう。

 

もっというと、自分がそういう「冷酷さ」を身に着けていこう。無自覚な偽善より、自覚的な偽悪を目指せ。

 

「知らんホトケより、しっとる鬼の方がマシじゃげの」ということだ(「仁義なき戦い 代理戦争」より)(1973年)

<了>