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ペーパーレス化やテレビ会議は、はたして正義なのか?

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*その進歩は本当に進歩といえるのか?

 

画面よりも紙に印刷した物の方が、間違いを見つけやすいのはなぜなのか。

 

以前、ネットで結構論じられた話題に「液晶ディスプレイで文章を読むより、紙に出力したものを読んだ方が誤字脱字や文法の間違いなどに気づきやすい。これはどうしてなのか」というのがあった。この疑念に対しては複数の論点が提示されたのだが、これはぼくも長年気になっていたことなので、なかなか面白い着眼点だなと興味深く読んだ。参照)http://blog.livedoor.jp/lunarmodule7/archives/3562467.html

 

そこで論者から呈示されたものをいくつか以下に列挙すると・・・( )内は筆者の感想

 

■解像度の違い。ローテクである紙の方が解像度が高い(らしいが、解像度なるものにあまり興味はないので詳しくは調べてない)

 

■モニターは重いが紙は軽いので寄せて見れる(これはケースバイケースが多すぎるだろ)

 

■画面のスクロールより紙のパラパラの方が早い(これでは読んでることにならないから論点が違うだろw)

 

■身体性概念という、物理的存在が周囲の環境と関係することの概念からくる影響。本を持つ、ページをめくる、文字をなぞるなどの具体的な行為や、ページの厚みや重さといった物理要素が、身体性に働きかけ、これが間違い発見に影響しているのではないかという指摘。

 

■光の感受性の違いで、人側の受け取り方が違ってくるから。つまり画面は、画面後方から通過する光(透過光)で光らされたものを見ている現象で、紙の上の文字は反射光(外部から当たった光がハネ返ってくる)で見ている状態。この違いが脳や心理に影響を与えてるという理屈。

 

この最後の「ディスプレイは透過光で読み、紙は反射光で読む」という違い。この違いによって脳科学的には刺激を受ける脳内分野が違うという研究が、個人的にはもっともしっくりくる説明であった。

 

(ただし同論内での情報処理のモードが脳内で切り替わるなどという説明には賛同できない。そんな便利で簡単なスイッチがあるという論考自体が、人を奴隷にしていく加担になってしまうと思ってるからだ)

 

ここで問題となるのは、同じ視覚から入った情報なのに脳に響く分野がなぜ違うのか、という点だ。それは上にあげたもうひとつの論点「身体性」がかかわってくるに違いない。自分の外部から入ってくる視覚情報にどういうスタンスで接するかを無意識のうちに決定付けるのは、光に付随する情報の多寡ではないかと思うのだ。つまり、透過光だと照らすだけの一方向の光なので弱い。反射光なら元の光にプラスして、跳ね返り光のパワーが加わり増幅され、なおかつ紙という物体情報も載って「重み」が増す。その「総合力」の結果、脳の刺激は高まるという見立てだ。

 

ぼくなりに飛躍してそこらへんを言い換えれば、透過光で見るとは、部分であり抽象であり仮象であるので間違いはいくらでも看過されてしまうが、反射光で観ることは逆に全体であり俯瞰であり実質であり真理への路であるから間違いを見逃さない。

 

したがって透過光というまばゆいばかりの視覚提示は、マイ哲学においては十分警戒すべき対象である。実体のない抽象概念といえる透過光の世界観に対しては、決して安易な追認などしてはならない、となる。だいいち、まぶしすぎて目が疲れるではないか。ムリを強いるものにロクなものはない。

 

同論文の参照できるリンク

プリントアウトした方が間違いに気づきやすいワケ - A Successful Failure

 

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 透過光と反射光Ⅰ

 

透過光と反射光の違い。この2つはなかなか深いキーワードに思えるので、掘り下げてみよう。

 

ぼくの本業は撮影業へのプロ機材販売である。ひとくちに機材といっても多岐に渡るが近年需要が多いのは高性能なローカルパソコンである。デスクトップ型で、ハイスペックなWindowsマシンを、先方の予算とニーズに合わせて自作し、ソフトなどももろもろ最適化した上で納品するのだ。ここでハード面よりも苦労するのはカラーマネジメントである。

 

デジタル世界での色再現はむずかしい。それは複数のデバイスにまたがる色の情報伝達が円滑に正確にできるか、という課題もあるがもっと難しいのはディスプレイや写真プリントの個体差による色再現の微妙な揺らぎを、どのレベルまで許容するかということであるからだ。

 

例えば「まじりっけなしの純粋な赤」というものをモニター上で表現するのに、いくつかのデバイス過程が存在する。ハード面においてはPC本体内部におけるOS、マザーボード、グラフィックボード等がある。そしてコード類のインターフェイスを通じて液晶ディスプレイに情報表示が伝達される。

 

ここらあたりまでは色のようなアナログなものでも数値的なデジタル情報に還元できるし、実際そうしたパラメーターで伝達されていくが、その次に待ち受けるものはディスプレイである。こちらには個体差、性能差、液晶のヘタリ具合、設置環境の違い(明るすぎる部屋なのか暗い部屋なのか、など)が個別に存在する。したがって色が意図通りに伝わりにくい。色の再現で最大の難所がココなのである。

 

さらに写真業界における画像は、最終的に写真プリントというまた別レベルのものへの転移が行われることが多い。ここで色は、デジタル環境下での評価とはまったく別の舞台に出ることになる。そう、透過光での色情報(ディスプレイ上のデジタル情報)から、反射光での情報(写真出力物)への変異である。

 

そもそも被写体を撮影することがリアル→デジタルへの変換である。そしてパソコンで元画像を確認する単純なことも画像ソフトというアプリケーションの介在がないと視認できない。その後、上に書いたようにパソコンの中を色情報がデジタルとして駆け巡るが、その途中の過程がいくら高性能なフルデジタルであっても、入り口(撮影)と出口(写真プリント)は人間が介在するので、リアルとデジタルの段差ができる。言い換えれば実体と抽象の違いである。そこに「揺らぎ」が出るし、また途中のディスプレイも、デジタルの成員でありながらヒューマンインターフェイスの要素が強いので、上記したように色の面では大きな変動要素である。

 

(じゃあ全体としてはどう折り合いをつけるのかというと、色を包括的に補正するのにキャリブレーションという技術を使う。でもこれは専門的な話なんで割愛する)

 

普段みんな何げなく写真プリントをしてるけど、その裏ではいろんなものが動いてるんである。

 

以上、やや長く書いてしまったが、いくらデジタル上であっても、要所要所がこのようにボトルネック化すれば、情報伝達も結局は伝言ゲームのようになってしまうことが十分にありうるのである。

 

そう、完璧な理論で構築しても、完成してみると何か違うなってことは十分あるってことだ。

 

  透過光と反射光Ⅱ(キング・クリムゾンの曲名みたいだなw)

 

古くは映画やテレビにさかのぼる映像メディア。そこではブラウン管や液晶ディスプレイという透過光で世界を見ることに対する全能感があった。映す内容で画面が可変して表示されること、音声まで付いてくる高コスパのお得感。これがあれば紙などといういかにも古めかしいメディアとはオサラバできる、そんな晴れやかな合理性。表示技術(解像度や表示スピード、カラー再現の忠実性など)さえしっかりやっていれば間違いなど、起こるはずもない。というか間違いを起こすのは人の方であって、透過光の世界は忠実に情報再現だけを目指していればそれでよい…

 

こうした当初の暗黙かつ単純な思い込みは、他ならぬ使用者の人間側営為(紙よりも間違いを発見しずらいということ、もしくはまばゆく視覚提示されたものに対する安易な追認)によって、かすかに裏切られている。フラッシュの発光でまばゆい画面を見て倒れる子供たちは、その警告である。

 

(だいたいイマドキ、映ってるものがありのままのライブ映像である保証など、どこにもありはしない。原発の安全技術は計器によるモニタリングで支えられているというが、その計器のチューニング自体はいったいどうなっておるのか。ダモクレスの刃どころの話ではない)

 

こうした透過光のおめでたき世界観に対し、古式ゆかしい反射光の世界、すなわち紙や文字を視覚で認識していくことは、実体を伴う地味で面倒で黙々とした営為である。紙質や文字の色、字体、におい、紙の重さ、質感は、確かさの確認を、わずかずつではあるが人に逐一迫る。だから間違いに気づく回路が準備されるのである。冒頭で掲げた論点の「身体性概念」である。そこでは紙とコンテンツが不可分でひとつの情報を形成しており、内容と形式が一蓮托生である。いいかえれば全体性の本丸に近い。

 

つまりそれは、人間の姿なのである。

 

精神と肉体が分離できず、のっぴきならぬ人生を生きねばならぬ一回性という宿命から逃れられないわれわれ人間と同じ実存性。それが反射光でものを感取することに隠された本質なのである。またさらに間違いに気づかせる回路を用意することで、おそらく次の飛躍への可能性を、人に残している。間違いに気づく→修正するという変化だけが、人をしてほんの少し成長せしめる原動力となるからである。

 

 

メディアとしての光

 

 またさらに、今度は人ではなく、発信側の物質に目を向けてみよう。

 

液晶ディスプレイも紙も、ともにメディア(媒体)である。メディアの本質は、それによってそれを見る者の相似形を映し出し、その行為全体でもって見る側を照らす、そんな曇りなきカガミであることだ。情報流通の様相とか、取り入れて吸収していき廃棄していくものとか、メディアの機能としては他にもいろいろあるが、まずはわれわれ人類が手にした偉大なる反射板、光を吸収しながら曇りのないモノリス、それがメディアの役目である。そしてそれを使うことで、人はこの世の一番のナゾに向き合えるのだ。すなわちそれは、内なる自分である。

 

光に対するスタンスが決め手だろうと思う。元からある光を反射で利用させていただき、自然に、たおやかに事物が観えるのか、あるいは透かしに供するための光を人工的に作り出しそれで透かして見て分かった気になるのか、の違い。光は人が生誕して最初に視認するもののひとつであり、したがって光そのものがすでにメディアの初源である。世界にあふるる自然光で、ぼくらはまず反射させられてはじめて自分を捉えることができる。人はそうした実在なのだ。

 

透過光の世界というのは、人類がまずはじめに反射光によって「光」というものを認知した後に獲得したものではないだろうか。となれば透過光は順番としては二次的副次的な方に属するものであり、いわばオリジナルの模倣でしかない。

 

光はメディア。さらに反射光で見る紙やそこに書かれた文字もメディア。本は地味であり、読まれるまでは何も言わず黙々としているが、それだけに本質をよくつかんでいると思う。書籍は存在としても連綿とそこにある重みと持続性がある。

 

それに反してそれ自体がキラキラまばゆいミラーやスターはいっけん注意を引くが、マヤカシも多く含み見る側を甘やすので良くない。しかもあおるだけあおってすぐ消えたりする人騒がせな部分もある。なんだか人生に通じるものがあるではないか。

 

 このブログも発信自体はwebなので、透過光の世界の成員に過ぎないが、独自ドメインという重石を付けて少しは「愚鈍」にしてある。また書いてある内容を相応の重心をもってあなたに届けるためには、紙の書籍化がふさわしかろうとたくらんでおるのは内緒だが本当のことだ笑

 

 

ペーパーレス化やテレビ会議は、はたして正義なのか?

 

なんとここにきてやっと表題の展開である。この掟破りの構成、当ブログの商業出版の暁には、整理せなばならぬな笑

 

ここ10年ほどの会社内でみなが血眼になって推し進めてきたものに、オフィスのペーパーレス化がある。机の上に積まれた書類の束を前に、何かを探したりハンコをついたりしてるうちに夕暮れるなど、たしかに非効率性の象徴のようである。

 

業務上無駄を省くことや、効率化に一定の注意を振り向けることに異論はない。しかし本当に大事なのは省いたムダで得た余力で、その後方に控える何か実のあることに取り組んだり、目指していくことである。それに関する思惟や行為の方が、ムダ取り除き実務そのものよりはるかに上位命題であるのは、言うまでもない。いや、言うまでもある。

 

そこに気づかず、ムダを廃することにばかり一生懸命になり、いわば目的でなく手段にばかり拘泥することで、かえって人間疎外の愚に陥ってるのが、現代である。 内容のない本が山と積まれてる本屋の光景は確かにムダの集積であるが、だからといって電子書籍がすべてを凌駕していくわけではないのである。

 

ペーパーレス化だけではない。今ドキの会社だと例えば液晶モニター越しのテレビ回線、ネット回線会議システムなども、ペーパーレス化と同じように人間疎外の象徴的光景であろう。

ああした会議システムは、昔は頻発してた伝送の際のコマ落ちや音声の遅れなどの技術的弱点を今では克服し、コスト削減という明確な「メリット」にも十分寄与している。

 

しかしそれら技術的成熟と引き換えになるほどには、テレビ会議システムは肝心の内容充実を保証しない。モニター越しに、あるいはカメラに向かって、マイクを使って意見を述べるその「相手」は、実際の距離以上に「離れた」抽象存在である。たとえその相手をリアルによく知っていたとしても、またモニターの解像度がいくら向上したとしても、抽象度はほぼ変わらない。

参加者の闊達な意見を阻害するこの隔靴掻痒な感じは、情報共有の推進やリアルタイムでの決裁スピード向上、イノベーティヴなモチベーションをクリエイトなどという、掛け声だけは勇ましい美名の元、いつまでたってもどうも慣れない悲しき実務者の、本末転倒な構図なのではないだろうか。

 

そもそも会社という仕組み自体が、人を敬う理念では動いておらず、理論的にはブラックでない企業などないのだから、上記のような傾向は当然のことなのだ。ペーパーレス化その他への無批判でやみくもな没頭は、ムダ排除の行為自体が魔女狩り化していく現象である。そしてその、無駄を極限まで省く行為の終着点において、最後に排除されるのは、たとえ創業社長であったとしても、他ならぬわたしであり、あなたである。いったん歯車が狂えば、仕事の創出者まで排除しても矛盾でないのが資本主義。それはまるで脱退と加入を繰り返し、オリジナルメンバーが誰もいなくなり、サウンドもすっかり変遷したのに名義だけは残ってる、そんなロックバンドのようだ。

究極の効率化など、残酷な非経済徹底の別名にすぎぬ。いったいなんのための効率化であるのか、いったいだれのための経済であるのか。おおこれでは自分の尻尾を喰って生き延びるヘビではないか。

 

これらはすべて、いままで述べてきた透過光で支えられた価値観である。錯誤に気づきにくいのは、そのためだ。

 

真の効率化は、時やスペースの空隙を埋めることに汲々とすることではない。それはより高い命題に向かって間違いと逡巡と後退を重ねながら、螺旋階段を少しでもうまく登り詰めていく方法論、そのひとつに過ぎない。つまり、地道な反射光の世界観である。

 

4Kテレビやタブレット端末、Google Chromecastみたいな派手なガジェットもそうだが、表示モニターや受信機の高度化ばかりに血道をあげるなど、こう考えていくと魂の破壊の一里塚へ、頭からまっしぐらに突き進んでいく行為ではないか。

 

岩波文庫で何世紀も前に書かれた書物ばかり読んでる身としては、どうもねぇ、にわかには肯定しかねるねェという気がするのである。

 

*透過でなく反射光原理のタブレット端末もあるみたいだ。筆者はガラケーしか持ってない「うつけモノ」につき、その使用感は分からない。しかしそれは透過光の反省に立って開発された製品だと、一応は評価しておこう。

 

<了>