お金に困ったら読むブログ

みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



つまらん紙でパンパンに膨らんだサイフは醜悪だ ~ケリをつけることの経済学~

仕事をキメきれない日々

 

前にサラリーマンをしていたころ一番イヤだったのは、いつも複数並行の、中長期的な問題や案件に頭が支配されてたことだった。それらの問題は相手の経済状況に由来するものだったり、好き嫌い次元の人間関係の話だったりで、自分の力量では一向にケリがつきそうにない未決ものばかりだった。まぁだからこそ長期化するのであるが、そんなものに日々悩まされる状態が常だったことが、もうとってもイヤだった。はやいとこ「自分の仕事」に取り組まさせてくれ、って気分によくなったものだ。

 

いつも複数の問題に取り囲まれてることなんて、大人なら誰にでもあることなのかもしれないが、それが悩みだった当時は、たとえば販売員やウェイターみたいに、客の要請をその場その場で片付けていくのがメインの職種が、うらやましく見えたものである。

 

仕事もそうだがだいいち生活とは、煎じ詰めれば毎回毎回、何かに対処しケリをつけながら進めていく所作であって、人生はその繰り返しだけである。そうした単調さの中に、何かしらの創意工夫や新しい発想の萌芽を育んでいくのが、人の前進や充実のはずである。その繰り返しの過程でひっついてきた余計なゴミやつまらんダストを払い落とすのに躍起になってるうちに、そのことが自己目的化してしまう倒錯。それを徒労と呼ぶノダ。

 

しかしむしろ世の中はずーっと、その徒労の方ばかりが主人公になって人を支配しているのではないかな。冒頭に書いたサラリーマン時代のぼくのように。それはまるで洗濯機の糸くずキャッチャーを掃除して、洗濯槽そのものをキレイにしたつもりになってるみたいな意味のなさだ。

 

これからは散財する時代!

 

たとえばお金なんかもそうであろう。前にも書いたがお金は資本を計るモノサシであって、本来はそれ以上でも以下でもない、単なる記号である。だから良き人の、お金に対する正当な態度は、いつもその場その場でケリをつけて決着させ、さっさと銭と決別することである。排便みたいなもんだ。だからその意味で「金は天下のまわりもの」なのである。

 

いつもその場で現金ニコニコ払い(死語かw)。支払いは原則即金である。商売慣習上、売り掛けなどしても、せいぜい2ヶ月程度で「ケリ」をつけてしまうことだ。事業拡大で借金など、当たり前だがしないに越したことはない。麻痺すると借金が自分の金に思えてしまう。

 

リボルビング払い、カード決済、(先付け)小切手、手形、電子マネー、仮想通貨、オサイフケータイなどなど、マクロ経済側が用意するものは、全部先送りの蜃気楼だ。それは貨幣の抽象性に依存した甘えであり、誰かに食い物にされる最初の1歩になる。確実に。

 

支払う方の話ばかりでない。たとえば消費にくらべて推奨される行為に貯金があるが、貯蓄で肯定できるのは自然と、いつのまにか「ある」「たまってる」「ストックされてる」って状態だけであって、その単純さを超えて金利や利殖、利回りや配当、投資や信託などに固執し始めたら、銭への隷属化、倒錯へののめり込みのはじまりである。

 

キビキビと決着してニコニコ決済

 

あの、だから「財布を買ったら入れる金がなくなった」という冗談に笑える余裕、これが好ましいんである。それは日常にケリをつけていくカラッとしたあかるい態度に、金にまつわるギスギスさを蹴散らす骨太さを認めるからだ。

 

みにくい財布に限って、いつか使うつもりでその実、いつの間にか期限切れになってるクーポン券やサービス券、過去のレシートでパンパンになってるものだ。そこにあるのは単に「留保の態度」だけである。つまり、ケリの付いてない徒労だけだ。こうなるとサイフってのは人にとって、最初のゴミためとすらいえるかもしれないな。まちがっても財布に対し金運上昇のアイテムとか、ワンランク上の上質さを演出する小物…みたいな物神化など、しないようにね。

 

途中で付いたゴミはデフラグとかスキャンディスクで落として身軽になってないと、肝心の次へ前進の妨げになるよ。とにかくこれからはキビキビと決着してニコニコ決済、マクロ経済など知らん!ってのがいい態度だね。お金に対して冷淡でいた方がかえって自然と「貯まる」ような気もするしね。

 

<了>

 

 

現代の「ワクワク、ドキドキ」が踏みつけにしてるもの

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*梅酒撮ろうとしたら、ウメボシしか無かった笑

 

 

デトックスウォーター?水素水?なにかの間違いだろ?梅酒でも飲んどけ。

 

生きてるだけで空間を占有し、空気を収奪しているのが生命である。とりわけいまの地球で食物連鎖の最上位に君臨する人類は、最も高次に環境を消費する種である。

 

人の場合、そのように単に生きてる状態だけでなく、「ワクワク、ドキドキ」するようないわゆる娯楽の成立まで追及しはじめると、環境の収奪量やエネルギーの消費率はすさまじいまでに飛躍的に増大する。そしてその増加量は、時代を下るごとにひどくなる。

 

例:スポーツは重力への抵抗というワクドキ感の実践だが、着地したときに草やアリを踏みつけている。その踏み付け度合いや破壊具合は、普通に歩いてるときの比ではない。そしてスパイク並びにシューズの鋭利な進化や、マラソンブームでのランナー人口の増加が、地面へのダメージを年々大きくする。

 

しかしそうであるからといってエコロジー活動などに注力していくことは、これまた別の新たな収奪源への加担なのである。「風の谷のナウシカ」で指摘された、人と環境の関わりにおける両義の刃性が、この構図である。

 

こうした連鎖の構図に、せめて思考だけでも自覚的でありたい。わたしの存在自体が地球にとって原罪であったとしても、不遜にまみれた中にある充実の一端にだけは、できることなら染まらせてほしい。

 

いま、街角でかんたんに手に入る「ワクワク、ドキドキ」、その成立基盤を疑ってみること。それができるひとは、いっけんポジティヴに見える余暇活動が、人の本当の「充実」にとっては妨げになりうることに気づかれよう。

 

繁華街ではデトックスウォーターとか水素水などというものを、さかんに売り出していた。あの辺は紅茶キノコ(!)みたいな単なるはやりものであり、個別の真偽は知らんが商売スタイルとしてもともかく気に入らないのだ。ワクワクしながら自分だけ健康になるって思想が裏に隠されてるのが姑息なのだ。そんなのなにかの間違いだろ?みんなで共に生き生きってのが、本当に目指すべき境遇じゃないのか。

 

なにか飲みたかったら梅酒でも飲んで寝てろということだ。その方が環境にも人類にもやさしいぞ。だいたい1975年ころの紅茶キノコブームで、その後長寿をまっとうできたヤツなぞひとりもおらんのだ。

 

自分の充実はいちばん最後にめぐってくる、それがものごとの正当な順番だ。期待しないうちに不意に最後に訪れる、そうした「何か」こそがホンモノの充実なのであって、わくわくドキドキなんざそのはるか手前の、わが身かわいさの目くらましである。

 

<了>

 

正しいニュースの作り方。

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*ニュース番組の壁紙っぽい、意味のない前向きさが感じられる図版。

 

 

ニュース番組の不思議

 

定時的な報道、つまりNHK夜7時のニュースとか毎日発行される大手全国紙などのことだが、あれは大変不思議な存在である。ニュースとは、発生時刻も、重要度も、進行もマチマチであるはずなのに、それらを常時待ち受け、連日必ず決まった時間に報道する対象として取り上げている。それでいてこの国に今日起こったことのダイジェストとしてはほんの一部にすぎないのである。報道など、リアルタイムの即時性、いわゆる速報の連続がホントの存在意義ではないか。

 

ああした従来からあるニュース枠は、いまふうに言えば「まとめサイト」「キュレーション」「バイラルメディア」であって、素材を電波や活字で右から左へ伝播して、それで仕事したつもりになってる。報道やジャーナリズムといえば聞こえはいいが、それだけでは単なる伝聞屋であって、自分の所属先の権威で外壁を守られつつ内実は大したことやってない点では、銀行マンや都知事などと同じである。いったいニュース番組とは、どんな話題、題材を素材にし、報道する順番も含めてニュースにすると決めているのだろうか。

 

「そりゃ、その日に記者クラブで発表されたこととか、警察が公表したリアルタイムの事件事故、消防や自衛隊の広報など、公的な機関から発行される情報を元に、編成者が決めてるんだよ。『素材』への報道比重に関しては、インパクトや重要度の強い順に時間やスペースを割くよう、『誰か』が決めるのさ。おっと恣意性による偏向報道の批判なら聞き飽きたよ。人の作りしもの必ずどこかの段階で誰かの主観が入るのは、こりゃあ前提として了承してもらわないとね」

 

うむ、主張は分かった。それはそれでいいのだが、ならば以下のような対応が時にあってもいいのではないか。

 

「今日はニュースらしいニュースがないと判断したので、NEWS23は休みます。ザーッ(砂)」

 

「今日は新聞休刊日なので、刊行物はスポーツ新聞だけです。『ニュース』とやらが存在するのは、本日はその界隈だけです」

 

みたいな。要は毎日出すという枠組みの当為が先に立ち、決まった時間になったら何が何でも映像なり活字なりを流さなければ放送は事故になり、新聞は白紙で発行されるという強迫観念が、記者クラブで加工配布された情報をただ流すだけ行為以上に、報道の本質(そんなものが本当にあるのかはまぁ置いといて)、仕事の王道をゆがめてるのではないかな。それじゃ仕事の順番がまるっきり逆じゃないのかね。そういった自覚はメディアパーソンにはあるのだろうか。

 

その報道は、だれに向けて意図したものなのか

 

東日本大震災および福島第一原発大事故のときに、CM枠すっとばしてでも1日中その報道をやってるという当時のTV局の姿勢は、重要な事件には最大限の時間を割くっていう原則論的な意味しかなくて、それは決して報道の真価を問う姿勢から出たものではなかった。むしろ時間的に長くなればなるほど免罪符的で偽善的な意味が増していった。体裁のため時間を埋める必要があったからである。そう、あの当時の報道は当為としてのテレビ放送であり、客観性をかさにきて事実の前でウロウロするだけの代理人が、「ジャーナリズム」とやらの正体であった。

 

他方では被災者自身ですら、当時はその他の重要なニュースが報道されないままになってるんじゃないかとか思わないでもなかったし、第一肝心なその災害報道内容も、ヘリからマクロ撮影視点(現地じゃバラバラうるっさい)や、津波のショッキング映像を繰り返すだけで、肝心の人々の安否はさっぱり取り上げなかった姿勢など、仙台人としてもどかしさや恨みつらみと共によく憶えている。報道って何なのかいつも考えてないと、ああいう横並びみたいな意味レス編成になるのだ。

 

局内じゃ報道はバラエティーなんかより上位部門なんだぜって意識が根底にあるから、抜本的な反省などないに違いない。アナウンサーの後ろによく控えている民放の報道フロアーの、あのワザとらしいモノモノしさやイカメシさが、そうした選民意識の象徴である。だから今回の熊本地震でも、レポーターの現地派遣(その上ガソリン横取りとか)など、2016年になっても進化のない、同じような報道しかできないんではないのか。

 

ソツなく、事故なく、意味もなく

 

通常時のニュース番組に話は戻るけれども、例えば番組終盤にお決まりのように流れるコーナーのひとつに天気予報があってそりゃ確かに情報としては必要だが、その意味合いとしては異常気象時でもない限り、尺の操作に最適な「埋め草」要素が強いだろう。天気ごときは昔から、毒にも薬にもならない情報の代表格であって、それでいてクレームは来ない便利な話題だからである。したがって「ウェザーインフォメーション」などと気取って言ってみたり、お天気お姉さんみたいな腰掛けOLみたいな、半分アイドルみたいな、どうでもいいものの吹き溜まりになるのだ。

 

それでも時間が余るようならどこかの町おこしの様子で、ガキか犬でも撮った絵を流してればいい。要するに付け足しでお茶を濁す行為である。それかスポーツコーナーでむりやりキャスターが明るい口調で締める構成か。ペットやらガキ、野球でも流しときゃ誰でもホッコリ和むだろ?なんて、上から目線で視聴者もナメられたもんである。

 

独自取材でなく、配布されただけのニュース素材を右から左に事故なく流すこと。ネタがないときに尺を埋めるため、ネタ探しに奔走すること。そしていつも埋め草を映像素材として用意していること。そんなことが報道のプロ姿勢だと思ってたら仕事の方向性として大間違いですぜ。組織への隷属人としては間違いのない態度だけどな、ネタに喰わせてもらってるだけの存在としてはw

 

<了>