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お金に困ったら読むブログ

みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



真実を取り戻し、本質をつかむ姿勢が、失わせしもの。

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正月に甘エビの刺身を頂き、朝から日本酒。典型的な寝正月がこうして始まる。

 

*注)今回のエントリーは、とりとめのない内容になってますが、上に書いたように午前から酔ってるのでかんべんしてください。


<本質をつかめ!的欺瞞>

ぼくはいつも事物の本質の直近にいたいと思っている。
表層ではなく、コアで中核な本質部分。そこをじっくり見つめる、そこに対峙することにこそ、思考の意味が存在するって、そう思ってる。それはもちろん、大人ならみんなそうだろう。


身近な例で言うと、例えば料理ひとつとっても表層と真相みたいなものがあって、表層とは、おいしいとか見た目がきれいとか、どの店がミシュランガイド三つ星で予約が取りづらくて…なんてこと。


一方で料理の真相とは、料理とはそもそも何であるかという核に迫ること。つまりそれは「眼前にある喰えないままの素材を、どう喰えるようにするか」という、有史以来の切実な知恵の蓄積が料理であり、たんなる調理技術を超えた「生きるための技術」、それが料理の正体だ。


その技術に、伝統の味とか、秘伝のレシピとか、素材の味で勝負とか、調理学校のノウハウだとか、いろんなストーリーがひっついても、料理とは素材加工の技術であると気づいてしまえば、その本丸の本質はまったくゆるぎなく、変化しない。また、周囲に漂う表面的な情報にも惑わされない。


こんな風に、ヒラヒラしたもの、浮ついたものにいっさい惑わされず、誰もが本質をつかみたいと思ってる。
それはお金儲けよりも大事なことらしいってことにも気づいている。
だから世間は本質論であふれかえってるし、隠された真実、誰も言わない/知らない真相の暴露なんかにも、みんな夢中だ。


でもその全体像は、なにか信じられないって気がするし、どうもうすら寒い。
本質とか真理って、そんな簡単に到達できる境地じゃないよね、というヘソ曲がり的予感がある。


もし、いわゆるインフルエンサーやカリスマブロガーの本やブログを読んで「わかった!」なんて本質を取得できるんなら、世の中はいまよりかなりマシになってるはずだが、でもそうなってない(読んで感化されても忘れてしまうってのもあるけれど)


むしろぼくらは戦後、蒙昧の暗黒に突進を繰り返してばかりで、しかもその暗黒は大きく、深く、なりふり構わなくなっていくばかりだ。


こうやってごにょごにょといつも考えてると、物事の多くの本質というものは、畢竟自己と他己の違いの感取に端を発してるような気がする。つまり、われ思う、ゆえに世界ありってのが立脚点という気がする。
ま、それはそれでいいや、とここではうっちゃっておく。

 

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しかしそれでもその全体構図の中に、1点だけ引っかるところがある。


それは、他人に「本質をつかみなさい」などと説教を垂れた途端に、その説教のスキマからこぼれおちてくる傲慢さというものを、振り払うことはとっても難しいってことだ。
それは自分だけが本質を把握しており、大げさに言えばおまえたちは何も知らん羊のような存在であり、この機を境に目を覚ませよといわんばかりのいわゆる上から目線が、ほんの少しでもありはしないか?という恐れ、痛みのようなものである。


この「上から目線」が自己内部に発生することを許した時点で、もはや本質的なものを「見失う条件」が揃ったといえる。
この偉そうな態度は、暴力的な何かが人間の中で生起する、まさにその母胚でもあるのであり、その粗暴さは本質的なるものを隠蔽し、塩漬けにし、放り投げ、縁遠くする作用しかしない。


…ということで、ここらへんまでは本質を把握するという「事態」に関する単なる考察であって、本質における本質とは何ぞや?っていうまさしく本質の話をしたことには、ぜんぜんなってない。


だけど話が変な段階に突入するのを承知で書けば、この本質を把握するという「事態」の中に、本質のまさに本質論が含まれてるような気がするのです。


詭弁?自家撞着?まぁそんなものかもしれない。入れ子構造みたいな話だから。
でもまぁとりあえずこの話、進めてみるので、よろしければご一緒にどうぞ。

 

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さきほど「本質は、自己と他己の違いの感取に端を発しているのかも」と書いたが、自分と他人を区別する二元論は、実は本質把握のきっかけになるかならないかの微妙な線上にある。二元論からは実質的なものは何も生起しないことだって多い。
右翼か左翼か、とか、在日かそうでないか、親日か反日か、なんてことから本質的な何かに到達する道は、メッチャ長い。


ところが、である。ある日ぼくはこう思いついた。


「他者なんかはじめからいなくて、それらは自分の中に築いた壁や、壁の投影に過ぎない」


この異次元レベルのことに気づいたとき、二元論は遠のき、上から目線は消滅し、二元論経由で自分でつかんだつもりだった「本質」とやらの無効にも気づいてしまって、ぼくは包み込まれるような途方に暮れたのでした。


昔の人は「四十にして惑わず」なんていったけど、こんな基本も分かってない自分なんか47歳にしてどうしようもないなって、そのとき思った。
情けないとは思ったが、同時に上に書いた「恐れ」や「痛み」もなくなった。


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翻ってWeb界を見やると、多くの社会派ブログは「自分の頭で考えよう」とか唱えつつ、いろんなところから引用や資料を懸命に引っ張ってきて、自分以外のかりそめの「他者」をああだこうだ分析・論じて悦に入ってる。
ゆえに日本のネットも論壇もかしましいし、中には本質論もあるが、同時に無意味なノイズもめちゃ多い。
そんな中、声高に「本質を抉れ!」と訴えるものほど、空虚な強要を感じずにはいられない。
繰り返しになるが、本質など、声高に、偉そうに語る領域から最も遠いところにある。口角泡飛ばして語れば語るほど、本質からは離れていく、そういう構図になっている。


そしてその大きな声には恐れも痛みも感じられない。いや、そうではないな。本質論者のほんとうの心奥には「本質に到達できてねくね?自分」っていうおびえがあって、それを自他共にごまかすためのカラ威張りが大声なのだ。まことに人というのは磁石のS極とN極を内蔵した存在である。


本質が体得・直感できればできるほど、ひとは無口になっていく。
謙虚というよりは、自閉。語る前から本質の持つ多義性のようなものに唖然慄然とし、徒労に襲われ、「~らしい」「~ようだ」と、伝聞の形でのみ、物事を伝えるだけになる。
自分の浅薄さの前に、まずは沈黙してしまう、というのが心情としては近いか。周囲の喧騒の中でひとり固着してゆく人がいるとしたら、その人こそ「知ってる」可能性がある。
それでも人は話を始めるから「クチは災いの元」となってしまう。言い訳ならいくらでも言葉を継ぎ足せる。それは上に書いたように心のヨロイだからだ。


本質がともないがちな「恐れ」や「痛み」の全容に関して、ぼくは常に自覚的でありつづけたいと思ってる。
この、いわば消極的な部分の自覚こそが、それこそ事物の本質に至る角度になりうると思うからだ。
こうした自覚が敗北的なものではなく、建設的な自己点検に発展していくことを願って、今後の抱負としたい。


(最後に余談をひとくさり。前にも書いたがこうした自己点検とその持続に最も適した言語は日本語である。思索の出発点に主語をかならずしも必要としない日本語世界は、主観と客観が同時に、つまり世界観全体がそのままシームレスに体現できる言語だからだ。
例えば「寒い」のひとことで、自分の体感上の寒さと、外界の温度の低さを同時にあらわし、かつ、温度にとどまらない雰囲気や空気感も提示しうる。いやむしろ「寒い」においては、温度の伝達以外の意の方が大切だと考えるとスッキリ腑に落ちるのである。「もの言えば、唇寒し」なんて、上の論旨そのままをわずかな言葉で表現しきっている。

日本語は非論理的だなんて非難があるがそれはその通りである。
つまりそれは、人間の考える「論理」などという矮小なものなど軽く超越した、宇宙サイズの包括的言語であるという意味において)


(了)