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自信と自殺。

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自信と自殺

世の中いたるところでよく聞くのが「自信を持って」などという言葉である。
それをあなたに対して発言する人は、まず社会的な上位者だ。
それもあってか何の躊躇も思慮もなく、調子よく言い放たれることが多い。ぼくも前の会社などでよく言われた。


ところがそう言われて「自信を持って」「自分を奮い立たせて」ことにあたり、その結果事態が好転したことなど、ぼくは一度もないのである。
むしろ、悪くなったことすらある。
そうなったときに振り返ると、「自信を持っておやんなさい」とアドバイスしてくれたその当人は、そっと横を向いて知らんふりをしている。
あの人はぼくのどこをみて、そうしたことを言ってくれたのだろうかと、疑問に感じたものだ。


その疑問に対する答えはひとつだ。その人はぼくのことをしかと見て、そう言ったわけではないのだ。
それはたぶん、社交辞令的な常套句、テンプレ文言だったのだ。そしてまんまとそうしたライトな言葉に乗ぜられて、自己吟味を怠った自分が悪いのである。


ここらへんの体感が、身の程を知るとか、薄情さに身をつまされるという相対的な経験則や人生訓に、普通はなっていくものである(と思う)


だけどぼくはそういう社交辞令的欺瞞教育はいやなので、「自信を持って」式のことを言うときは、その言葉にふさわしい過程を経てきた人に対してしか、遣わない。
その過程を知らない人に対しても何か言う必要があるときには、人を励ます資格など、ぼくにはもともとないのだから、せいぜい「桜がきれいだね」みたいなことしか言わないのだ。


こうなるとバカなひとというレッテルが貼られるのだがそれでまったくかまわない。
言葉を軽く使う人と、ぼくと、どちらがより本質的に白痴なのか、ぼくはもう知っている。


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現代にはこうした根拠なく軽く言われる「自信」をまともに受けてそれを振りかざし、しかも一切疑問に思わない人がいる。そうした人が、KYとかDQNと呼ばれたり、ゴミ屋敷や猫ハウス、騒音屋敷の主になってみたり、ネットで炎上騒ぎを起こしたりするのだと推測する。


世にいう「自信」とは、大概がそのようなものである。見せかけの強がりと変わりがない。あとは「夢」や「生きがい」「自分磨き」といった表現も同じような程度である。
こうしたポジティブな響きの言葉が乱用される背景には、必ず冷酷で、ブザマで、ネガティブな作用が含まれている。


そうした「一見肯定的なもの」にうっかり染まらない方が、実は裸の自分に近づくのに効果的なのである。つまりこれが、生きることに忠実になれるコツといえる。


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さて話変わって自殺の話題をとりあげる。自殺者は、国内では減ってきてはいるがいまだ年間2万人を超えると聞く。
ぼくも47歳なので、いままでのことを振り返ると、自殺者は10人ほどいた。
世間での自明の前提として、自殺はよくないものとされているが、あいにく筆者は自殺擁護派である(ただし、以下のように条件は付く)


まずなぜ自殺がいけないとされているのか?を考えてみる。


生きることの意味は(意味って言葉が適切かどうかすら分からないが、便宜上使用する)みんな十分には分かっていない。それならつまり、死も十分には分かっていないということになる。
したがって分からないものは否定もできない。
自殺を否定する原動力は、人が死ねば悲しい痛ましいという情緒面感情面からの提起にすぎない。

以前から当然のようにそうである。


もちろん逆から言うと分からないものは(否定だけでなく)肯定もできない。また、情緒面感情面のパワーも無視すべきではない。しかしそれでもある種の自殺は認めてあげたいのだ。


生きるとは何か?ぼくの解釈ではそれは自分の母胎である普遍や永遠、全体や次元を、おのおのが接ぎ木のように自力で受け継ぐか創出することである。
就職や生活、勉強や子育てなどの個人的なことは、そのための外部手段である(自分の子供だって自分にとっては外部者だ)


そして死ぬこととは、自分の属していた母胎に、意識だけの裸の状態で還ってゆくことだ。


生きてるうちに真の自我にたどり着く人はたぶんいない。生きてる間はいつまでたっても自分は自分にとって最大のナゾであるが、死ぬことでその謎が回収される。
その生来的な円環、ゆるぎない真理の前では、言葉だけの自信とか夢とか自分探しは安易である。


そして生存中に自分なりの「母胎」を作れた人(子孫に限らない)が、真に生きることのできた偉い人である。逆に言うとあなたは、あなたという小私の枠に収まってるうちは本当のあなたではない。自分の人生の主人公は、自分という個人性ではないんである。「人生は一回きりだから、思い切って自信をもって」というのが空疎な言葉であるのは、こういうわけだ。


人の基盤にこうした普遍を目指す認識がないと、社会や制度はむなしさの拡大再生産と、いたずらに不安を煽り立て、絶望に向かって追いまくられるだけの、まるで台風のような消耗競争に終始する。いまの世はご存知のとおり隅から隅までこれであって、しかも根本的な対処法はみんな見出せていない。家族愛だとか、趣味のサークルなどといった小さい「慰問所」「避難所」を作っては、仕方なくそこに時々停泊し嵐をやり過ごしてるだけである。


先に筆者は自殺擁護派であるが条件付きである、と書いた。


自殺の動機として認められないのは、絶望や不安で生を自主廃業することである。
この動機では、先の「自信」信仰に代表される、小さな個人性しか見つめてない。
19世紀の社会学者デュルケムの、有名な「自殺論」の視点はコレである。すなわち、社会的な抑圧物が個人を押しつぶす、という論点であって、ここで悪いのは社会である。


この認識では、ダメなのである。自分の生を決定付けるのを、自分の外部にしか置かなかったことを自死によって認めてしまうからだ。大人なら死ねるガッツがあるのなら、自分の内面充実が達成できなかったはずはないのだ。周囲の人も悲しませるし、自殺の連鎖すら招きかねない。その面からもこの動機は最悪ではないか。


唯一認定できる自殺の動機は、退屈である。上記のような自分なりの母胎を一度でも創出できたひとは、あとは退屈しか残されていない。


退屈ならば、自己の消滅に対して十分に開かれた、謙虚な、実直な、潔い動機ではないか。つまり「役目を終えた」ことの十全たる自覚である。


動物も植物も、自分の死を(たぶん)認識していない。それは彼らがはじめから大きな母胎の「部分」そのものであるからだ。個体がイコールほぼ母胎だから、生も死も等価なのだ。言葉を変えれば、生誕の時点で役目をかなり果たしている。
したがって死を特別扱いせず、コロリと逝ったり立ち枯れして、土に還ってゆく。


こうした野性の現象を「退屈」と一方的に決め付けていいものかどうかは分からないが、生物のそうした連続継起としての生は、繰り返しで単調で飽和のように見える。
人の感情に沿って言えば、それは「退屈」なのではないだろうか。
従って人の場合の退屈や倦怠は、自殺の立派な(?)原因足りうるのである。


ちなみに自殺の動機で認められないが可哀想なのは精神錯乱やうつの果ての自死だ。
筆者の知り合いにも一人いた(といっても本当に精神錯乱のせいで自殺したのかどうかは、今となっては確かめようもないのだが)


自分自分かわいい主義で、むせ返るようになっているこんな世では、裏返しにお前はクズだダメだと排他的に念押しされてるってことを、敏感な人は見抜いている。
メンタル面で打たれ弱いとかいう話ではない。
この狂気のノイズを無視したり、鈍感さでかわしていく知恵やズルさがないと、なまじ敏感なだけに今の世は精神錯乱に陥らない方がおかしいとすら言えるのである。それで死んでしまうのは、かなりひどい。
同傾向のものでも特に痛ましいのは、イジメによる子供の自殺である。
あとは病苦による自殺なども、本当にお気の毒であるし、自分もそうなるかもしれない。


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現代は多様性に富んだ社会などと言われるが、いうまでもなくそんなのは本質からみたら嘘っぱちの見掛け倒しである。多様に見えるものはぜんぶ飾りや手段領域のものばかりで、語るに足らぬものだらけである。根源たる生は骨太であり、ひとつひとつがかけがえのないもので、多様とかの尺度でははかれない。


自殺の原因とて多様ではない。絶望や不安で自殺に向かうことなどは、社会学の助けなど借りずとも類型的に推察できる。

 

確かに個々の事情や自殺者の年齢や性別、自殺手段などはそりゃあ多様だろう。
しかしそれらをいくら収集・分析しても、そこに「本当の」意味も答えも浮上してこない。ましてや根本的な「対策」など、そんな分析レベルでは判明しようもない。「1足す1は病理のはじまり」という記事に書いたように、 逆に分析にこだわればこだわるほど統計に「逆襲」され、自殺者の増加を招くに違いないのである。要は現代の自殺原因など、分かりきっている。それは上に書いたとおりである。


自分の外側にある要因で絶望や不安を感じ、ある種の被害者意識をこじらせてるひとへ。


あたたがもし自殺を決行したとしても、それは世間への最終的な報復の切り札とはならない。
上記の「分析」や「統計項目」に数値で加えられ、戸籍上で処理されるだけだ。
「自分なんか生きててもしかたがない」「生きることからイチ抜けしたい」と思う人は、この文を読むといい。生命は意味でも、義務でもない。了解と存在であるだけだ。それそのものであるだけだ。それをあなたは有している。なんということだろう、はじめっからあなたは勝利者だったのだ。
あなたが死ぬと、あなたが掴めたかもしれないあなたなりの普遍が、こんりんざい失われる。
それは宇宙よりでっかい喪失なんだ。

(つけたし)

自信を持てる人はひそかに持ってもいい。しかし外野から言われる自信に捕らわれはじめると、緩慢な自殺になるぞ。先述したDQNとかゴミ屋敷の人や、炎上芸人といわれるネット上の人たちは、悪いがもう部分的に死んでしまっている。そこに気づかぬ限りは再生もないままだ。

 

(了)