無邪気さゆえの強みを自覚できる時代、それは哀しいほど短い。
私見ではこの時期のflipper'sほど、その「強み」を体現した存在はない。
ある痛み、ある陰り、そこに強い人生の裏返しがある。
ぎゃははと笑い飛ばせるだけなら、人生どんなにラクチンだろう。
苦みを抱えながら舞台をクルクル廻って、時に笑顔で裏で疲れる。
それがオレらだ。
Flipper's Guitar、やるじゃないか。
無邪気さゆえの強みを自覚できる時代、それは哀しいほど短い。
私見ではこの時期のflipper'sほど、その「強み」を体現した存在はない。
ある痛み、ある陰り、そこに強い人生の裏返しがある。
ぎゃははと笑い飛ばせるだけなら、人生どんなにラクチンだろう。
苦みを抱えながら舞台をクルクル廻って、時に笑顔で裏で疲れる。
それがオレらだ。
Flipper's Guitar、やるじゃないか。
国(死刑制度)もカルト教団も、オフィシャルな戦争もパーソナルな殺人事件も、内実は全部おんなじ。人が絡んでる以上、問題とやらに段階も局面もない。なぜなら根は隅から隅までおんなじだから。
その根とはなにか?それは傍若無人さである。ある傍若無人さが、別の傍若無人さを滅した。それが今日のできごとだ。
一方で、死刑判決も刑執行も、わたし自らが行ったり作ったりしたのでないから、尻馬にのって安直に騒ぐわけにはいかない。騒いだらそれはまた、別の形態の傍若無人さを、うっかり発現してしまうこととなる。
それが新たな不幸の起点となる。
この全体の円環図に気づいたとき、したがって、暗澹となる。死刑の執行に冷淡に他人事でコメントするのはこのSNS時代において簡単なことだ。だがそのカンタンな態度が次なる新たな抑圧を生む。わたしとて、こうしてその円環の中に取り込まれて終了と相成る。
関連する拙ブログ記事「全員加害者社会。」
http://u0u0.net/KUfX
ワールドカップの日本対ポーランド戦を見た。
後半15分の試合放棄で日本は見事にヨゴレ役となった。かつてないほどに。
安全パイを選んだのではなかったと聞く。あれはあれで賭けであったと。賭けの度合の少ない方を選んだ戦術だった。結果、試合に負けて、中身でも負けて、しかしチームは前進した。
すべてのスポーツがそうだけれど、サッカーはとりわけプレーヤーにムリを強いる競技だ。ハンドを禁じ、オフサイドを厳格に取り締まる。人の運動能力に関する禁忌と抑制がルールの根底にある。GKなど、ハナからムリなポジションだろう。だから、サッカーは何が起こるか分からないといわれるし、そこに麻薬性がある。
さらに競技の大枠・根底であるトーナメントという恣意的な制度が、運という名の理不尽さを最初から含んでる。1次リーグの場合対戦相手が抽選で決まるのもそうだし、試合が進めば他チームの勝敗状況が自分たちのそれに大きく影響するのもそう。W杯ともなればそこにナショナリズムが絡むからさらにややこしい。
したがって大事な試合が複数のスタジアムで同時に開催されている場合、その勝敗情報が逐一伝えられ、それが戦術に影響するのも当然。自力で戦うにはあまりに運やムリが多すぎる中にあっては、信じられるのはむしろ大いなる他力や現況である。こうした周囲の状況によって90分の中身が総合的・複合的に変わる。
また今回のワールドカップではカメラ技術の進歩で、微妙な判定にはことごとくビデオが参照されるようになったのがまた、「運」を大きく左右する。
サッカーはもともと曖昧さが身上で、ギターのように「割り切れなさ」に人間臭い魅力があるスポーツなのだが、判定技術はそこをデジタルに、ドライに、上位者的に、切り分けてゆく。そしてその部分の技術革新は、選手を審判を、要するに人を、置き去りにして発展してゆく。誰のための進歩なのかも問われぬままに。
目の前の相手ゴールを揺らすだけで喜べる段階は牧歌であり部分最適にすぎない。がむしゃらさや粘り強さが正義の親善試合とはわけが違う。サッカーのムリの中身は、時代と舞台とテクノロジーによって変容していく。また試合の最中にも刻一刻と変化していく、変化していかざるを得ない。
こうした大枠全貌の中にあっては、紳士的なフェアプレーも正々堂々のスポーツマンシップも、わざと大げさに倒れるファウルも相手のミスを誘うトラップも、すべて同じ泥の中の濃淡の差にすぎない。身体的制約の中で相手の裏をかく、それがサッカーの本質であり全てだからだ。フェアプレーポイントっていうのは、その「裏をかく度合」に量的な指標を与えて少ない方から評価し、かろうじて正気さを保とうとする、せめてものおためごかしだ。
今回日本は茶番のプレーを見せたと批判を浴びているが、国別対抗のサッカー勝ち抜き合戦というW杯の閉鎖的設定自体が、人種も国籍も情報もクロスオーバーしまくってる現代の中では幾重にも重層的な茶番なのだから、もうワールドカップなんて卒業しない?国別の代理戦争という性格を完全に払拭した、次世代の明るい世界大会というものを組み立てるというミッションに、FIFAはすでに取り組んでしかるべきなんじゃない?(もうやってるかもしれんけど)。W杯を円滑に運営するなんて手段レベルは、もうビデオやAIに任せてさ。
なんというか、蹴球の野蛮さと素朴さに目覚めないと、今回の西野ジャパンのモヤモヤさはずっと晴れないと思う。世界的にも。
<了>
Didn't you go to that place yesterday?
A)No,Ididn't.
B)Yes,I didn't.
当然答えはAである。しかし日本語訳だとBである。
この正反対の隔たりは、英語と日本語の隔たりそのものだ。
Noを遣うときの英語話者は、あくまでも否定や無を指示するのみである。それは問いかけに対して限定された否定であって、広がりもなく一方的に終わる。「ないものはナイ」と、対話を話者の中にのみ封じ込め、冷たく閉じる。
対して日本語は、いったん対話者に沿い疑問文脈に則って肯定し、そのあと事実に即して否定する。こうした二段階承認の中に、次の会話転移への期待・猶予がある。含みがあってぬくもりがある。
つまり、「No」と「いいえ」は違う。正確に言うと、文脈の中で機能する機序が違う。あくまで「ないものはない」で終わるだけの英語世界観と、「ないとされてる中にも、もしかしてあるかもしれないじゃん。少なくとも、あなた(対話者)は目の前に居てくれるじゃん」と、会話対象を大きく切り取り余白を持たせる日本語。同じ否定し終わった後に提示される地平は、英語よりも日本語表現の方がはるかに豊潤だ。余白は全部ムダなものでしかないと切り詰める英語のテキスト文化と、余白もコンテンツの一部として、ブログの一行空け改行などに大きな意味を見出す日本語。
俳句を英訳すると、途端に味気なくなるのは、こうした違いによる。
<了>