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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



羽生結弦がオジサンになっても。

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中学生~高校生にかけて、デビューするアイドルがどんどん自分より歳下になっていく時期があったが、あれはじつに不愉快であった。年下の娘がまたひとり芸能界に登場する度に、「お前はジジイになっていく」と言われてるような気がしたものだ。

 

そのころのオレの命題は「若手の台頭を阻止する」であり、身の周りの後輩たちにいろいろ陰湿なことを押し付けるのが日課であった。年下どもをつぶしたりひねったりふんづけたりして、才能の萌芽を摘み取るのは望外(妨害)の喜びだった。


子供を見ても、こいつもそのうち色んな面で自分を追い越すんだとしか思えず、弱い今しかイジメるチャンスはないとばかりいじめておった。で、大人になっても報復されてないから、弱いもの幼きものはイジれるうちにイジっておかないと。


また一方で、年上のアイドルなどに対しては、年齢的優越感を感じることも生きがいとしていた。オレの方が若いもんね~、と。


いまはオレも49歳になり、もう10年くらい前から今度は経営者やCEO、教授や医師などが、自分より年下になってきた。

 

つまり、社会的ステータスのある人たちが今度は相手となった。一方コチラは、何もない無産階級である。

 

この相手たちは、今からじゃもう絶対に阻止などできないし、イジることなんか論外である。自分だけがムダに年喰ってきた感、ハンパない。いままでお前は何してきたんだ?という諦念と、かすかな焦り。これに直面させられるのが何より面白くない。でも今はネットがあるから陰険に憂さを晴らしてやれる。いい時代になったものだ。

 

さて、こないだ仙台でパレードした羽生結弦。

 

あの全方位にナイスなパーフェクト・ガイ。


性格・言動・実績・立ち振る舞いと、すべて完璧。


最近は精悍さも増して風格も出てきた。余裕が感じられるのも憎たらしいポイントだ。


そしてあの小顔スタイルにキラースマイル、美肌で歯並びもいい。たぶん金も持ってるし頭もいい。非の打ちどころのない、まさしく王子様、キラキラのプリンス。


あれで23歳だなんてと思うと打ちのめされる。自分が同じ23歳だった時を思い出すと、さらに不愉快さがつのってワヤだ。あの祝賀パレード、無視しようとしたけど無視できなくて、パレードの中継を全部見て、翌日のワイドショーまで観てしまった。


もうまったく、世の中ぜんぶ気に入らんわ。人間世界から年齢とか若さなんてなくなりゃいいのに。優秀なのも含めぜんぶ呪おう、そうだそうだそうしよう。

しかしたまに書くブログがこんなんでいいのだろうか。

<了>

 

「ムリ」という言葉にひそむ甘えについて~「ムリ」はおまえの拒否責任をなくすために開発された用語ではない~

「ムリ」という言葉が、相手との会話の中でよく遣われるようになって久しい。

 

例1)俺と付き合ってくれない?

はぁ?無理なんですけど

例2)これ夕方までにやっといてくんない?

ムリだから。ぜってームリ


ムリ…まったく気に入らない拒否表現だ。この言葉を投げつけられた方は結構しんどいぜ。拒否されたからしんどいってのも少しあるけど、「ムリ」って用語はこれから書くように卑怯な言葉遣いだから、その分こちらの消耗度も倍増する。


人によっては「無理無理無理」と連発し、そういうのに限ってヒステリックにわめきたててまことに見苦しい。

 

「ムリ!」とこれみよがしに叫ぶヤツは例外なくあさましい。自分の都合だけで相手が見えていないからだ。それでいて、いやだからこそのネガティヴ・アピール。わがままな他者不在、その粗暴な押し付けである。

 

自分でできない、あるいは積極的にはしたくない行為があるとしたら、それは正直に「できない」「したくない」と、己の責任に紐づけて粛々と正確に表現すべきである。

 

こうしたシンプルな言葉には、自分の責任において不可能への免罪符をしょい込む主体性がある。ダメならダメで、そのダメさをきちんと位置づけて、責を引き受ける度量がある。言葉と自己の焦点が、同時的にピタリ一致している。

 

ところが、昨今の「ムリ」に内包される意味は正反対である。

 

この「ムリ」は、できない/しない根本理由を、ありもしない自分以外の要因に放り投げて知らんぷりするような大人げない表現である。それは無責任、甘え、卑怯さの発露でしかない。


すなわちイマドキの「ムリ」は幼児語である。未熟な気分をひたすら社会に相手に押し付けて、垂れ流しつづける公害ワードだ。

 

本来的ムリとは、別のところにある人物や事象が、不可抗力的にお前に強いている、その状況下においてのみ遣う。だからムリは、本来受け身で純粋で客観的な言葉だし、超克や飛躍の踏み台にもなりうる(例:自分に無理を加えていって成長する等)

 

ところが外部からの課題に「ムリ!」と、鬼の首でも取ったかのように騒ぐヤツは、その透明なムリという言葉を主情的に勝手に拝借してきて省みもしない手合いだ。ムリの価値観の尻馬に乗って、功利的に「ムリムリ!」と乱用しているだけだ。まったく勘違いも甚だしい。

 

「ムリ」は、お前の拒否責任を無化するために開発された単語ではない。ただ不能状態を描写するだけの、控えめで謙虚な言葉だ。たいていのことはやりゃ出来んだよ愚か者どもが、何が「ムリ」じゃ。やらない言い訳くらいは自分で編み出して引き受けてみろ。ムリと叫ぶことによって簡単に壁を作って許してもらおうとすんな。お前がそれをしないだけであって、その「やらないこと」には、本来の無理が意味する公理性も客観性も含まれていない。かってに外部に委託するな。

 

前も書いたが、言葉には自分の内面に対して折りたたむように使用するものと、公的に外的に表現するためのことばと、2種類あるんだ。ムリは前者である。

 

お前がそれをやるにせよやらないにせよ、おのれの自発性を封印するための「ムリ」をカンタンに言い放ってしまっては、その安易さは他ならぬお前の目を、かならず曇らせる。

 

お前自身がお前の正義に関し盲目となり貧しくなる。つまりそれはお前が自身を貫けなくなることだ。

 

自分の行為に関してはムリって言葉を追放せよ。それは外部への甘えだ。周りで当たり前に使われる表現だからって簡単に採用するな。言葉のひずんだ運用は、使う人に復讐をする。


言葉は誰に対しての表現なのか、その方向性をわきまえて正確に遣いなさい。でないと自分にムリがくる。

 

もっともそれでもなおムリが自覚できない自分なら、閉じすぎてて救いようがないが。

 

<了>