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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



本気でやるなら誰もかれもがコンサルタント(自分の得意領域からハミ出すタイプのそれ)

突然ですがやっぱり仕事の最終形態が念頭にない、あるいはそこを考えさせないような「仕事」は、全体がなくて部分だけの「作業」って気がするわけです。

 

たとえば看板屋さん。ただ相見積りをかいくぐって依頼を受注し、そのとおり看板製作して施工して設置するだけが従来の看板屋の領域だと思ってたら、かれの商売はこれから先細りする一方であるはず。クオリティーの低い看板、志の感じられない看板はよく見かけます。

 

あなたが本気のプロ看板屋であるとして、かつ看板新設の依頼が例えば洋菓子店舗からきたとしましょう。そうなると本気の仕事態度だとどうするか。その洋菓子のコダワリ、材料への吟味、店内で飲食可なのか否かなどをヒアリングして、もちろん肝心のお菓子の試食もさせてもらって、看板に載せる図版の選定(もしくは撮影から行うなど)や、お客さんにどうアピールして地域にどう貢献するのかということに目配せをします。看板はその結果、象徴でしかないです。その前提には、看板の意味に対する、自分なりのキッチリとした、新鮮な定義があることでしょう。またそのためには色の設計やデザインに関する広範な知識と見解が、背景に控えているはずで、それは旧来の看板業界をむしろ逸脱するものでしょう。

 

そして施工主に請求する費用は割高になります。なりますが、そこを依頼主に説得できるかが、あなたのまず最初の正念場でしょう。しかし本気なら乗り越えられるはず。値段をどれだけ下げられるかではなくその工夫にこそ、取り組む価値があります。なぜならその部分こそが、相手の芯に寄与するからです。見積りで安くなる部分などたかがしれてると、依頼主に思ってもらったらしめたものです。

 

また看板を数年に一度付け替えるとか、照明や色あせなんかのメンテナンスも菓子屋さん(お客さん)に提示し、初回の納品でお役目御免ではない姿勢を打ち出す。看板設置後の売り上げや集客の効果測定もするなど、拡張性・随伴性もぜったいに必要なアピールです。

 

看板業界自体の施工トレンドや、看板や塗料の新素材などは当然押さえつつ、もちろん施工の基礎技術は有していて、専門工具も持っている。ここまでは当たり前。

 

でも看板の観点から冒頭に挙げた「仕事の最終形態」を見越し、店舗へのいわゆるコンサルティングを込みで請け負うってのが、本意の全体視座だと思うわけです。手前味噌ですがプロ撮影機材業者であるぼくも、撮影業に対してこういうコンサルティング(あまり好きな横文字ではないけど)をしてるつもりです。材料商や卸業は、その手段ですね。

 

床屋にしろ飲食店にせよ出版社にせよ、こういう態度の仕事が増えれば自動的に世の中はよくなります。間違いなく。わたしからあなたへ伝わる充実の伝播。しかも相互に広がりと継続性を持つそれ。それこそが仕事の本義であり、大きく言えば人類の進歩の礎でしょう。

 

逆に「世の中をよくしたい」って掛け声だけで、制度だけいじくればよくなると思ってるようなおめでたい人は、地に足がついてないので害悪なだけです。

 

むしろこういう手合いばかりだから、世の中は停滞してるのではないかな。

 

<了>

 

「日本はすばらしい国だ」スローガンは自滅の始まり。

だいたい世の中は物事が逆である。

 

「日本はすばらしい国だ」なるほどそうかもしれない。しかしこの認識は原点ではない。すばらしい/すばらしくない、は人の営為の結果のみに100%対応するものであるから順番が逆さまだ。

 

(ここで初学者のために一言。あたりまえだが森羅万象の存在 ーたとえば自然などー は人的評価なんぞの埒外にあるので本来すばらしくもすばらしくなくもない。親にとって自分の子供は顔がいいとか頭がいいとかの世間基準なんか問題にならぬ。無条件に抱擁すべき存在であるのとおんなじだ)

 

で「日本はすばらしい国だ」という「思想」について、本来の順番だと以下のようになる。

 

「ある共同体の中では、充実し屹立し他者への配慮も行き届いた人が以前から多く、関係性も多彩である。よってその共同体およびその営為の蓄積(=ホントの歴史)は優秀と言える。そういう共同体が多いので国単位でいうならたまたま今の日本はすばらしい」

 

となる。(国とか国家の概念論議は、また別にして)

 

日本や社会という抽象概念でひとくくりして簡略化し、「要するに何なんだ」とか「結論から先に言え」という実務レベルの、粗暴な論法に一足飛びになりがちだから、世の中は誤解曲解、倒錯やまやかしが介入するスキができてしまう。世界は歴史は、最初から最後まで人間である。ひとりじゃ何も始められない人がたくさん集まったって、ただ群れてじゃれ合って、宗教とか健康商品などの何とでも解釈できるような抽象に走るだけだ。その理論武装と、同質のお仲間同士の馴れ合いで人生が終わるだけだ。

 

「日本はすばらしい国だ」という認識だけにとどまって、「ああすごい」「おおすごい」などと、風俗嬢の演技のように詠嘆を繰り延べてるだけだと、自分しか見てない思想によってまず自己疎外が起きる。自分で気づかぬうちに、相手の義務と自分の権利ばかりに考えがいくようになる。すると次に被害者意識に毎日支配されるようになる。今日もパチスロでスッたのはあのババアのせいだとか、障害者はキショいだけだ氏ね、となる。最終的にはその不満解消に自暴自棄、やけくそ戦法が選択され個人テロに発展し、テロは戦争へ連なる道であり局地戦や紛争で押さえようとしてもほっときゃ全面戦争になる。その結果、国は滅ぶ。人の世を崩壊させるのは武器でも毒でもない。こうした安易な図式が、人に引き金を引かせてその連鎖と相成る。諸悪の根源は徹頭徹尾、人間である。歴史から得る学習は、そういう本質論であろう。

 

だから人にとって納得など、カンタンに到達するものではないよ。とくにイデオロギー方面は。

 

もし日本のことを言うなら、「日本の風土は美しく見えるときもあるしそうでないときもある。そしてそれはほかの国も同様である」ってな感じか。要するに日本はすばらしくないかもしれない、というドライな、平明な「恐れ」をいつも抱いてることが肝要である。それがぼくらを知的にキリリとさせる原動力である

 

この文全体で、日本を自分と言い換えても通じるのであります。

 

<了>

 

「今日の日はさようなら」で人生を終える。

 

死者に弔われるのは、生者だ。

 

永六輔に野坂昭如、菅原文太に愛川欽也、大橋巨泉やマイケル・チミノ(米国の映画監督)

 

著名人が逝く。

 

逝くとは、ぼくなりに言えば、人が生まれた大元の円満に還っていくことだ。だから死んだ人とお別れするのにふさわしい言葉は、明るい響きのする「今日の日はさようなら」という感じか。

 

彼らは何にもいわないけれど、大元に還ってぼくら生者を応援してくれてる。何を応援してくれるかというと、未来の世代に役立つという、現世の生者にしかできない仕事に対して応援してくれている。冒頭に挙げた故人たちも、存命中はそれぞれの分野で、たぶん先人たちの引継ぎの中で、いい仕事を成し遂げてきた。その成果をぼくらは享受してる。そう、こうやって循環しながら、代謝しながら未来は前進してなくては。今よりどんどん良くなっていなければ。

 

肉体の消滅した死者が、円満を伴ってまた別の肉体に宿るのは、未来に約束されている。ぼくの一部は必ずあなたの生まれ変わり成分であり、あなたも然りだ。実際の血縁という次元の前に、人間(じんかん)はそういう仕組みになっている。

 

ことしの初め、1歳9ヶ月の知人が急病で死んでしまったのだけれど、その子の円満な笑顔の遺影を見てたら、その子の一部がすでにぼくの中にあるって分かってしまった。30分くらいしか遊んだことのない子だったけど、「分かって」しまった。

 

生まれ変わるっていっても亡くなった個人がまんまよみがえるって意味じゃない。そうじゃなくてぼくの血液も体液も遺伝子も、人類発祥以来の歴史はみんなそこに詰まってるってことだ。その中に含まれた形で死者はよみがえる。いや蘇るというよりも、連綿とした死の状態は、実はないといった方が正しい。

 

輪廻転生とか、リ・インカーネーションとかいう考えに近いが、あれは生まれ変わり信仰であってそれではまだ全体性が足りない。人はもっともっと大きなメガ普遍の中に生きてるのだ。

 

8月15日も近いが、特定の日に靖国みたいな小さな規範に向かって頭を垂れるだけではよくない。戦争で無為に殺し殺されたすべての魂を念頭において、今日も役立つ仕事をしよう。

 

<了>

 

スマホに白目剥いてる顔で写る人、その目やめてほしい。

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*「死霊のはわらた」(サム・ライミ監督1981年)より。ホラーと笑いをミックスした作風は、時代の最先端だった。

 

スマホで白目剥いてる画像に写る人、その目やめてほしい。

 

白目になって画像に写る人、SNSで時々見かけますよね。あれ困ってるんです。

 

話題自体は楽しいものだったりするので、白目ごときで難クセ付けたり目くじら立てても仕方なく、違和感はスルーしますけど、本心ではちょっと気味が悪い。

 

リア充の逆アピールなのか、何かのおまじないなのか、はたまた流行かなんだか知りませんが、とにかくあの白目。まずは見た目に気味が悪く、次にその「白目を出す」という態度に秘められた、裏返しの優越感みたいなのが感じられて、それがまた落ち着かないのです。ということで2重に気味が悪い。

 

そういう人はえてして、ほとんど全画像でそんなふうな顔で写ってなさる。白目の常態化。どうもご本人、得意気ですらあります。芸かなにかと勘違いなすってるのではないでしょうか?こうなってくると、それってなんなのですか?と思ってしまう。

 

写るのがハズいなら恥ずかしいなりの表情でうつむくとか、照れ隠しならもっとモジモジしたりとか、もっと写りようがあるでしょう。そんなに自分をさらけだしたくないのでしょうか?白目剥いてすっトボケてるのがクールなのでしょうか?撮影者に向かってまじめに取り組まない姿勢が、カッコいいのでしょうか?

 

そういうハスに構えた気分や、おちゃらけたい気になる時もあるのは分かるんで、1~2枚の白目なら許容もできますが、撮る写真、写る画像、全部白目でなくてもいいんじゃない?

 

そういう人の中には毎日のように自撮りアップする人もいるから、その人のTLは白目のオンパレードになっちゃってて。悪いけど見る気なくすんだよね。たかが白目なのにここまで攻撃するのも気が引けますが、せっかくだからこの記事では少しキツめに。少しだけ大事なポイントを含むと思うから。

 

大事なポイントとは、こういうのは男にしかない姿勢だって点にあります。あの白目は、旧来的な男らしさ要素の、表情における今世紀最後の砦、というか前世紀の残骸なんではないかという思いです。

 

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えーここからはしばし昔話になりますが、旧来的な「男」を象徴する表情といえば、思い出すのは「しかめっ面」。戦前から30年くらい前まで、ひとりで眉をひそめて深刻ぶり、世の苦悩をひとりで背負って暗~くウンウン唸ってるのが昭和な大人の男のたしなみだったんです(忘れたなんて言わさないんだからねっ!)。石原軍団とかスポ根アニメとかマンダム化粧品とか、テレビでも映画でもCMでも、男は全員イカめしい面だったし、口調も重々しく深刻だった。みんな三船敏郎とか高倉健みたいだったんです。

 

(いまの時代はこれがEXILEみたいないっけんコワモテの露悪趣味に変貌しましたが、根は一緒ですね。男の宿痾です)

 

*漢(ヲトコ)の体現者、石原裕次郎。これこれ、この表情ね。

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引用元:http://prcm.jp/album/6accbdb9fbc2/pic/23483144

 

昭和の当時は「ザ・商社」なんてドラマもヒットしたし、お話のスケールもナントカ一族の、時代を超えた壮大なドラマとか、その地に代々伝わるカントカにまつわるたたりとか、重厚長大なお話であればあるほど尊ばれてて、いかめしい表情のトレンドとしっかり一致してました。

 

虚構世界だけでなく現実の社会生活でも、その「大変そう」な表情ひとつで、かなりの程度までいけちゃう時代でしたね。当時子供だったけど、知ってます。

 

あの暑苦しさ、脂っぽさ、時代を支配した勿体ぶった重苦しい態度。タモリとか巨泉とか赤塚不二夫がそのすき間に軽~く入ってきて茶化しただけで、ひと財産つくれちゃうくらい巨大なムーブメント「しかめっ面」。

 

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んで、あの苦悶の表情はいったいなんだったのかというと、あれは人に見てもらうための演技であったことは、いまになってみれば明白であります。誰もいないところで、あの苦虫をかみつぶしたような表情をする男は、当時とて一人もいない。要するにかわいそうだと思ってもらいたかったわけです。かわいそうに思ってもらってなぐさめてほしかったわけです。つまり外見を重々しく取り繕うことは、重苦しい「かまってちゃん」の隠れアピールであり、見た目とは反対に中身がガキであることを白状してることと同じであったわけです。だから表情だけでなく態度も自閉的で、声をかけられてもなまくらな返事しかしないとか、面倒くさそうに声を荒げるなどの口調も多かったのです。しかし「大変だね」と素直に同調してあげればそれで解消という、実に楽チンな時代でもあったのです。値段のことばかり言う顧客に対して、値引きを提示すれば落着するようなものです。

 

こうした男傾向を80年代の到来と共に、軽薄短小の旗印の元に一掃した魔法のことばが「ダサい」や「シラケ」でした。変なガンバリズムはこれらの言葉で表面的には格下化され漂白化され骨抜きにされたようでしたが、実はそうではなかった。

 

そう、しかめっ面的価値観は雑草のようにしぶとく生きながらえ、なんと今世紀に入った今でも根強くはびこっています。男の価値観と密接に結びついてるわけですから当然ですね。シリアスな雰囲気が珍重される分野なんかは特にそうで、例えば政治や復興。麻生太郎あたりはその辺の表情を引きずってる最後の世代かと筆者には思われますね。選挙のときによく聞く「不退転の決意で」とか「わが命を賭す覚悟で」などと青筋立ててガナるのは、その価値観の言葉バージョンであります。中身?あるわけありませんポーズですから。そういうのに限って当選したってどうせいいかげんなのはもう分かっております。

 

さて、というわけで冒頭に掲げたスマホ撮影で白目を剥く行為にも同様に、いびつな自己愛をほんの少し感じる次第です。画像とはいえ心を映す窓たる瞳を見せまいとするその本意。それは「仕方なく画像に写ってあげてるけど、本当は写りたくない撮られたくない。ここにいるのは幽霊。ホンマもんの自分ではないのさ。こんなボクのマインドを分かってよ」という甘えと、閲覧者を拒むでもなく受け入れるでもない、かといって自分がおちゃらけに徹するワケでもない、そんなハンパな態度。それが白い目に込められたメッセージであり、どこか敗北的で言い訳じみています。反復されるのもそのメッセージ性の強さの証であり、軟弱な形に変貌はしてますが、昭和のしかめっ面と同じ系統のものに思えます。暗に認めて欲しい心理です。

 

写るなら写るで、堂々とした態度で写真に参加するのがいいと思いますが、そうでなかったら、撮影に参加するのをやめるか、撮ってもいいけどアップロードはやめませんか。白目のシェアならキモいだけです。

 

当事者以外の目に映る被害者面は、常にこっけいでしかないのをお忘れなく。

 

<了>