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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



正しいニュースの作り方。

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*ニュース番組の壁紙っぽい、意味のない前向きさが感じられる図版。

 

 

ニュース番組の不思議

 

定時的な報道、つまりNHK夜7時のニュースとか毎日発行される大手全国紙などのことだが、あれは大変不思議な存在である。ニュースとは、発生時刻も、重要度も、進行もマチマチであるはずなのに、それらを常時待ち受け、連日必ず決まった時間に報道する対象として取り上げている。それでいてこの国に今日起こったことのダイジェストとしてはほんの一部にすぎないのである。報道など、リアルタイムの即時性、いわゆる速報の連続がホントの存在意義ではないか。

 

ああした従来からあるニュース枠は、いまふうに言えば「まとめサイト」「キュレーション」「バイラルメディア」であって、素材を電波や活字で右から左へ伝播して、それで仕事したつもりになってる。報道やジャーナリズムといえば聞こえはいいが、それだけでは単なる伝聞屋であって、自分の所属先の権威で外壁を守られつつ内実は大したことやってない点では、銀行マンや都知事などと同じである。いったいニュース番組とは、どんな話題、題材を素材にし、報道する順番も含めてニュースにすると決めているのだろうか。

 

「そりゃ、その日に記者クラブで発表されたこととか、警察が公表したリアルタイムの事件事故、消防や自衛隊の広報など、公的な機関から発行される情報を元に、編成者が決めてるんだよ。『素材』への報道比重に関しては、インパクトや重要度の強い順に時間やスペースを割くよう、『誰か』が決めるのさ。おっと恣意性による偏向報道の批判なら聞き飽きたよ。人の作りしもの必ずどこかの段階で誰かの主観が入るのは、こりゃあ前提として了承してもらわないとね」

 

うむ、主張は分かった。それはそれでいいのだが、ならば以下のような対応が時にあってもいいのではないか。

 

「今日はニュースらしいニュースがないと判断したので、NEWS23は休みます。ザーッ(砂)」

 

「今日は新聞休刊日なので、刊行物はスポーツ新聞だけです。『ニュース』とやらが存在するのは、本日はその界隈だけです」

 

みたいな。要は毎日出すという枠組みの当為が先に立ち、決まった時間になったら何が何でも映像なり活字なりを流さなければ放送は事故になり、新聞は白紙で発行されるという強迫観念が、記者クラブで加工配布された情報をただ流すだけ行為以上に、報道の本質(そんなものが本当にあるのかはまぁ置いといて)、仕事の王道をゆがめてるのではないかな。それじゃ仕事の順番がまるっきり逆じゃないのかね。そういった自覚はメディアパーソンにはあるのだろうか。

 

その報道は、だれに向けて意図したものなのか

 

東日本大震災および福島第一原発大事故のときに、CM枠すっとばしてでも1日中その報道をやってるという当時のTV局の姿勢は、重要な事件には最大限の時間を割くっていう原則論的な意味しかなくて、それは決して報道の真価を問う姿勢から出たものではなかった。むしろ時間的に長くなればなるほど免罪符的で偽善的な意味が増していった。体裁のため時間を埋める必要があったからである。そう、あの当時の報道は当為としてのテレビ放送であり、客観性をかさにきて事実の前でウロウロするだけの代理人が、「ジャーナリズム」とやらの正体であった。

 

他方では被災者自身ですら、当時はその他の重要なニュースが報道されないままになってるんじゃないかとか思わないでもなかったし、第一肝心なその災害報道内容も、ヘリからマクロ撮影視点(現地じゃバラバラうるっさい)や、津波のショッキング映像を繰り返すだけで、肝心の人々の安否はさっぱり取り上げなかった姿勢など、仙台人としてもどかしさや恨みつらみと共によく憶えている。報道って何なのかいつも考えてないと、ああいう横並びみたいな意味レス編成になるのだ。

 

局内じゃ報道はバラエティーなんかより上位部門なんだぜって意識が根底にあるから、抜本的な反省などないに違いない。アナウンサーの後ろによく控えている民放の報道フロアーの、あのワザとらしいモノモノしさやイカメシさが、そうした選民意識の象徴である。だから今回の熊本地震でも、レポーターの現地派遣(その上ガソリン横取りとか)など、2016年になっても進化のない、同じような報道しかできないんではないのか。

 

ソツなく、事故なく、意味もなく

 

通常時のニュース番組に話は戻るけれども、例えば番組終盤にお決まりのように流れるコーナーのひとつに天気予報があってそりゃ確かに情報としては必要だが、その意味合いとしては異常気象時でもない限り、尺の操作に最適な「埋め草」要素が強いだろう。天気ごときは昔から、毒にも薬にもならない情報の代表格であって、それでいてクレームは来ない便利な話題だからである。したがって「ウェザーインフォメーション」などと気取って言ってみたり、お天気お姉さんみたいな腰掛けOLみたいな、半分アイドルみたいな、どうでもいいものの吹き溜まりになるのだ。

 

それでも時間が余るようならどこかの町おこしの様子で、ガキか犬でも撮った絵を流してればいい。要するに付け足しでお茶を濁す行為である。それかスポーツコーナーでむりやりキャスターが明るい口調で締める構成か。ペットやらガキ、野球でも流しときゃ誰でもホッコリ和むだろ?なんて、上から目線で視聴者もナメられたもんである。

 

独自取材でなく、配布されただけのニュース素材を右から左に事故なく流すこと。ネタがないときに尺を埋めるため、ネタ探しに奔走すること。そしていつも埋め草を映像素材として用意していること。そんなことが報道のプロ姿勢だと思ってたら仕事の方向性として大間違いですぜ。組織への隷属人としては間違いのない態度だけどな、ネタに喰わせてもらってるだけの存在としてはw

 

<了>

 

充実した毎日とは何か。

まいにち充実して暮らしたいと思っている。人生最後の日までそうして生きたい。

 

でもそれは面白おかしく笑って過ごせればそれでOKってことではないし、映画やテレビといった娯楽に向かって自分をマヒさせていくのとも違う。パートナーや家族がいれば満足かといえば(まぁ充実といっていい部分もあるけど)そうでもない場面もある。自分の中から湧き出てきて、簡単には枯れない泉のような充足感が欲しい。そう言われりゃ、みんなそうだろうと思う。

 

じゃあそうした充実とは何か?どうしたらしっかりそれを育てて、捕まえていられるのか。

そのことを考える前に、ぼくらのまわりにある、よくある光景、つまり会社での仕事風景を見てみよう。充実は、仕事などの日常の中にこそあるはずだ。

 

ぼくたち会社や組織に属する人は、いろんな立場の違いはあっても、仕事は基本的に時間との闘いである。

 

そう、「仕事を効率的に処理できない私」。これが大きな悩みということで、書店のビジネス書コーナーにはいかに早く仕事を済ませるかのノウハウや、時間マネージメント術についての本が山と積まれている(中身の骨子は何十年間も同じだが)

 

ところが仕事がほんらい目指す指標は、処理する「早さ」ではないのだ。
目指すのはご存知のとおり、モチロン「最終的な内容や質」である。
また仕事の「速度」をいうなら大事なのは、作業の先に控えている「成果を早く出す」ことや「目的に早く達する」ことの方である。
その最終ラインをすばやく目指すために、まずは目前の仕事(というか作業)を早く能率的にさばく、ってのが取り組みの正統な順番である。したがって作業を早く片付けたところで、それは「充実」にいたる基礎固めのひとつが、単に終わったに過ぎない。それどころか、速度のような近視眼的な考え方にこだわっていると、「仕事」を1件早く処理しても次々にやってくる別の「仕事」に追われるだけになってしまう。処理の時間的早さに決して満点評価は与えず「もっともっと」と要求するのが、現代の経済要請だからだ。したがってその方向で進んでいくと、行き着く先は大体において、自分が機械やパソコンに取って代わられる日ということになる。

 

そうなると今までの常識とは逆に、「作業の早さはとくに追求しない」くらいの仕事姿勢が、充実を目指す存在の人間としては正しい仕事態度である。自分が透明になるほど「それ」へ集中し、飽きるほどの熱意を「それ」に込め、じっくりと納得のいくまで「それ」に取り組む。そうした態度の前では時計など、時刻の確認手段程度のものに後退するだろう。

 

つまりこの正当な姿勢は、勤務に対する効率追求のいわば放棄であり、もっといえば時間や能率で人を一律管理していくという思い上がりを切り裂く、根本的な嫌疑であり、それは勤労経済に関する別次元への突入なんである。

 

そうした新しい領域で「本当の仕事」を志向し遂行する、その過程でつかむのが、ひとりひとりの腑に落ちた形での充実だろうと思う。

 

いまのままではブラック企業に代表されるように、社会も会社も人を阻害し疎外する、そんな悪手の系譜でしかないよね。
くだらないものをいくら積み重ねてもくだらないままだ。それはゼロに何をかけてもゼロのままなのと同じである。

 

言っておくけどこれは理想論ではないよ。毎日のルーティーンワークの中に、飛躍のヒントは潜んでいるという、当たり前の話だ。それが充実への突破口になるというだけの話である。
つらいとグチってみたり、自己憐憫におぼれてみたり、いたずらに不安に陥ってるのなら、自分が作業の「早さ」のみに固執してないか、自己点検してみよう。ぼくはそうしてやってきた。

 

かならず何かしらの出口はある。能率や効率なんぞは充実した人間にとっては、はるか格下の概念である。

 

<了>

出会いとは何か

何兆年あるか知れぬこの宇宙の歴史の中で、あなたと私が睦みあえるこの瞬間こそが奇跡である。そこを見据えていこうではないか。

 

そこを見ないで、いったいどこを見るというのか。

 

年齢の差、境遇の違いなど、ありはしない。


同じ空間で呼吸しあえるその1点のみが、確認できる唯一の永遠だというのに。

 

<了>