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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



「さっさと~するべし」とか、 「~すればいいだけ」とかの調子いい物言いは、愚鈍への先鞭だ。

違和感のある言い方がある。
ホリエモンやイケダハヤトといったネット有名人がtwitterなどで多用する「さっさと~するべし」とか、「~すればいいだけ」という、切捨て型・集約型の口癖のことである。この手のいいかたが以前からどうも鼻について仕方がない。それらはひとことでいうと「イヤミ」だからだ。

 

これは批判を内包した、ある意味建設的な「皮肉」ではなく、もっと気分的なものの方の「嫌味」である。こいつを読ませられると、僕などは何やら毒気にあてられたみたいに感じになってゲンナリしてしまう。

もしかしたらこうしたイヤミ表現は、その裏に含みを持たせた、難易度のきわめて高い「芸」なのかなとも思う時もあるが、考えすぎであろう。文字通りの意味しかないはずである。

 

このイヤらしい言い方は、たとえば「さっさと電気自動車普及率を100%にすべし」などという感じで制度や環境に対してなされることが多く、その場合直接特定の誰かを非難する文言ではないので問題にはされにくい。しかしだからこそ悪質なのだ。こうした体(てい)のいい表現で世の中の方向性を集約できるなら、世界とは彼ら(ネット知名人)にとっては実に単純明快でお手軽な対象であーる。サンマもイワシも魚でいいじゃん、なに細かいとこで消耗してるの?みたいな。しかも言った本人はズバッと断言してカッコよく落着し、行間でドヤ顔を垣間見せる始末。まっこと、いい気なもんである。

 

ネット有名人にそう軽々しく一刀両断のもと論評される現場を考えてみる。そこでは理想論はそうであってもなかなかそうはできない個別の事情、あるいは段取りの過程にあるもの、細々とした障害なるものが、存在してると想像できる。

だって、みんな馬鹿じゃないもの。ものごとを利口に進めたいに決まってるじゃないか。100の頭があれば100通りかそれ以上の考えがあるのだし。

 

意見をいうのはいい。しかしその際、まずは当事者を慮ることが大切な姿勢だと思うのだ。状況の只中にいるひとが、たとえボンクラ官僚などに見えたとしても、(意識の中で)軽くヒネリつぶしたり超越してみたり、見て見ぬフリをしたりするのはまずは控える…

 

そうした「中の人」への想像力こそが、豊かな全体考察への第1歩なんじゃないの?ネット知名人のいう通り、現状が明白にグダグダな状況だったとしても、それが改善できない理由にまで少しは踏み込んで語るのが、バランスの取れた姿勢だと思う。否定的なことをふわっと言い放つだけなら、だれでもできるけど、キミたちは有名人で影響あるんだからさ。

 

もし何か言うのであれば、自信満々なイヤミスタイルでなく、もっと情けなく、へっぴり腰な態度でモノを申すべきだと思う。ちなみにここで言う「情けなく、へっぴり腰で」っていうのは謙虚さに由来するものであって、最近はやりの両論併記とかいう、制度に甘えた及び腰報道姿勢とはぜんぜん違うからね。

 

ものごとを断固として言い切るために対象を突き放すことは、修辞としてはあることだし、一方いわゆる「残念な人」「残念な状況」は確かに存在する。

 

しかしそれは上から目線の「イヤミ」で対処するのは違う。むしろ必要なのは対象と刺し違えるような覚悟である。また、刺し違えるだけの価値のある対象でないと踏み込んでは言えないものだ。

 

だからめったなことではこの刃は抜かないのだ。むしろ調子のいいイヤミを連発してると、いざという時の切れ味が鈍る。

 

やたらと「さっさと~するべし」とか、「~すればいいだけ」といってしまうのは単なる詠嘆でしかない。それも選民意識からくる詠嘆である。それをコンテンツと詐称してるのが、言語に対する認識を根底から誤っているアカシであり、醜く、ブザマである。

 

何でもフランクに、正直に話せばいいってもんじゃない。思ったことをのべつまくなし発言するのをグッと飲み込み、したがって言うことは歯切れが悪くモゴモゴしてる。そのカッコ悪さこそが信頼の前提だ。自らを疑うことで自らを超える、それがつつましい知性の、ひとつの伸ばし方なんじゃないだろうか。

 

<了>

 

アイドルに切りつけるやつは幼稚で孤独で無効なテロリストであるがしかし…

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画像引用元

http://www.irasutoya.com/


アイドルに切りつけるやつは幼稚で孤独で無効なテロリストであるがしかし…


またアイドルをめぐる事件があったので、アイドル産業をそれにハマる心理面から、あえて上から目線で考えたい。

アイドルとは基本はまず動物園や水族館、ペットショップのようなものである。
あらかじめお前用に周到に用意された制度の中、主導権はお前にあるかのように当初は粉飾され、お前は安全圏にいながらにして好みの対象タレントを選択する。しかし本当は最初にそこに行った時点で、すでに何かの術中なのである。


好きな異性へのダイレクトな想いは、用意された制度のなかでこうして最初から高みの見物としてねじ曲げられている。そこには「卑怯さ」が織り込まれ済みである。


人と人とのホントの出会いなど、用意された器の中にはない。そこにあるのは他者がお前を食い物にしようと撒いた「錯覚」という撒きエサだけである。世間にいま定着しているのは、経済(金儲け)と結びつけるアイドル体制側の乱暴な引き寄せでしかない。


アイドル業界とは全体にいびつな構図を擁する。男側(ファン側)だけでなく女性側も、だ。若い娘がアイドルに憧れ、業界に身を投じるということは、女性にもゴマカシの世界が用意されており、そのチヤホヤ世界の中に自分を埋没させてゆくことである。

 

エンタメ界では、アイドルになる訓練もいろいろあるんだろうから大変な部分もあると思うが、問題は、何を目指して苦労していくのか、ということである。
「自分の夢を実現するため」というせつな的でちっさいもののためなのか?ならばその点においても、ファンの男もアイドル女も平等にうかつなのである。

 

そう今の時代「夢」は小さいものだ。理由は後述する。


男側に話を戻すとアイドルにハマっていく過程はヒロイン、スター、偶像崇拝、つまり抽象への帰依で主体をごまかす作用に徐々に慣らされて、自分で自分に催眠術を無自覚にかけてゆくこと、といえる。
「だって好きなんだもん」「ハマるわ~」「アガるわ~」等々が、そうしたセルフ催眠術の、最初の釣り文句である。
それはいいかえれば、他者への自己投影の反動として、自分をみにくく、愚鈍に落とし込めてゆくことである。
コンサートで振る奇麗なだけで空虚なサイリュウムの光景は、そのメタファーだ。


そうなった責任は、うかつな自分にある。欠落はだれの心にもあるが、その欠落が代償を求め、やがて欲望に移り変わる。そして今度はその欲望の奴隷となる。
そうした変位の瞬間瞬間を確認していなければ、お前の目は覚めないままだ。
まず毎日の充実でもって、源初の契機たる「欠落」を最小限にする試みに、着手しなくてはならない。


今の時代、個人の欲望がまずあって、しかるのちに欲望充足のシステムがあるのでない。いや今どころか近代の日本はずっと、その逆である。つまり欲望充足システムが喚起剤になって個人の世界に重くのしかかっている。無為の、欲しがらない、お前の素直な気持ちは、いつもそうしたシステム側で蹂躙され、ものほしげな自分に矯正されている。そしてシステム側の人間も、その呪縛の中にいる。


この錯誤に関し、決定的な犯人や、確信的な画策者はどこにもいない。この歪んだ構図を不幸という。
「自分のやりたいこと」など「システム」に提供されたワンノブの、取捨選択作業にすぎない、という冷めた視点。
ここに気づいて修正していくのは、おまえ自身しかいない。そしてそれは世界の修正に直結している。
なぜならお前は私であり、全員でもあるからだ。お前の存在は共有財である。
「錯誤」が拡散できるなら、その「修正」も同じく拡散できないはずはない。


いいか、自己点検の著しく欠けたおまえ個人の「善意」は、この世のすべての意識的「悪意」を凌駕するのだぞ。過去の戦争も殺戮も虐殺も犯罪もテロも、すべての初源はこうしたメンタリティから生じてきた。アイドルにハマることだって何の違いがあるか。


女性アイドルは、男側からの性欲希釈の象徴であり、端的にいえば代償行為である。


SNSでの親しみ演出、会えるアイドル、それと反して高まるセキュリティ、住まいへの侵入、ストーキング行為、そこらへんは表面的なことに過ぎない。


根っこは全部同じであって、要するに(前にも書いたが)ノゾキ穴からデバカメする悪しき客観主義のひとつのあらわれにすぎない。自分の中身はカラッポであり、覗く対象は逆に輝いてるように見える。そしてどの段階かで、対象がお前を簡単に「超えてしまう」ときがくる。
そうなったら乗っ取られるような形で主客転倒が容易におきる。
おきないのは対象に無関心なとき、飽きたとき、忘却したときくらいだ。


その結果がなりすまし行為や、親切や世話を超えた粘着になる。お前の空っぽ度合いが高ければ高いほど、インターネットがその最適な助長手段となる。そして空っぽの人こそが、アイドルを求める。
したがって迷惑行為がない方がおかしい。みんな心の中では全員が犯罪者の芽を持っている。それは大昔からある(例えば、美空ひばりは顔に塩酸だか硫酸をかけられたことがある、など)


このように、アイドル産業自体がハナっから人間疎外である以上、傷害事件の種は最初から蒔かれている。


切りつけられたアイドルは気持ち悪い粘着にほとほと困り果てていたというが、その気持ち悪さは何かと考えると、自分の領域へのスライムのようなベターっとした侵犯が、無人格な人間によって無考慮に、一方的に行われていたからだろう。


自分はカラッポなのだが、感情だけはあるので、拒絶されるとキレる、とくに男は外見とは逆にヒラヒラしてて弱い生物なので、被害妄想に陥りやすい。


何かに似てないか。そうオウムのようなISのような、エセ宗教である。
つまりアイドルに切りつけるやつは、20年前に地下鉄にサリンを撒いた奴の相似形である。

そしてその安易な構図に陥ってしまう深淵は、すぐそこに穴を開けてお前が落ちるのを待っている。
たとえばシェア記事をサッとッ読んでいいねを押す。ヤフーニュースを次々と閲覧してヒマをつぶす。安易なRTを繰り返してコミュニケーションをとったつもりになっている。
そんなわたしもあなたも、全員があの切りつけ事件の加害者になる手前にいるのだ、安易という名の慣れの中で。


いまやイチ個人の崩壊や自滅は、ひとそれぞれの問題などといって切り捨てたり、うっちゃっておいて涼しい顔などできない。先に述べたとおり社会性とは、全体性。すべて自分の問題になりうるのだ。それも悪意方面で。


もういい加減にしないか。刃を向ける相手はぜんぜんちがう。安易さでなく困難さの方にトドメを刺そう。
それはお前の本丸と同義である。お前が街を歩けば、美しい娘などそこら中にいるんだぞ。
人との関係を築くのを躊躇する、声をかけるのに踏みとどまる、傷つきたくない複雑なお前こそ、お前が真っ先に刺す対象だ。


すべての起点となる自分のコアは、その傷跡からしか生えてこない。

 

<了>

 

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AIに凌駕されちまうことへの待望論。

70年代後期におけるレコード時代の話だが、当時早弾きギタリスト合戦みたいなことが音楽シーンでは興っていた。そのころはクロスオーバーブーム(フュージョンの前身ジャンル)やへヴィメタルムーブメント(これは80年代だが)などと称されており、それは結構長年続いた流行であった。

 

要するにテクニックの誇示なのだけど、その流行の当時ですらやはり「こんなの形骸化したテク至上主義だ」って批判があって、「テープの早回しすれば誰でも早弾きじゃん」なんて主張する人もいた。
それはその通りであって、現に今なら音楽制作ソフトでスーパーギタリストは実現できてしまう。
だからテクニック重視の音楽傾向はいまでは廃れた。ライブというもうひとつの場はあるにせよとにかく廃れてよかったもののひとつだ。

 

形骸化。そう、演奏や楽器は音楽の手段なのであって、音楽の大命題は人をして普遍的なるものに気づかせることなのだから、演奏テクニックなどが先に立つのは単なる曲芸師やサーカスの類とおんなじである。そこに本物のパフォーマンスはない。昔の、演奏技術といった「手段」をフィーチャーした錯誤の中で、たまさかいいメロディーのいわゆる名曲があっても、そこにさっき述べた大命題のかけらでも感じられなければ、そいつは単なる鑑賞音楽である。

 

で、話は飛躍するが、音楽におけるその早弾きブーム、テク至上主義が、いまの時代のAI(人工知能)に相当するのではないかな。

 

ちまたでは人の仕事(というか作業)がAIに取って替わられるのが脅威とされているが、十把ひとからげの一般常識の中にあなたがそのままで押し込まれてるようでは、あなたはヒトでありながらAIに伍たる存在でしかない。むしろAIの方がしっかりした「人格」を持ちそうな気さえする。

 

外化され対象化され、幸か不幸か具現された人工的なるものの実装。それへの無邪気な傾倒は、人間性の根源への問いかけを不可避に含む。言い換えれば、進歩でありながら自分が何者であるかの先祖帰りである。
そこに目を据え、常に対峙していないと、史上初の原子爆弾の開発過程とまったく変わりない光景が繰り返されることになる。

 

「overloaded」もしくは「over-spec」という概念。あらかじめ決められた器から横溢してしまうほどの有能さ。それがAIである。


OSの書き換えが必要な時期になっている。人間がいまのレベルのままなら、超高度に自前の進化を果たしたAIになら、支配されちまうのも悪くない。

 

<了>

 

 

自分の声が気色ワルイのはなぜなのか。

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ほんとうの自分を追い求めて

 

人は自分の声がわからない。自分の耳に響くそれは、自分の頭蓋骨というフィルターを通して部分的に響いてるものなので、外部に響く声とは違っている。
録音された自分の声が嫌い、ゾクッとする、恥ずかしいオゾマシイと思う人は多い。ぼくもその一人だし、そこまでいかなくても、「自分の声色」に違和感を持つ人はかなり多いと思われる。

 

自分で分からないものといえば笑顔もそうだ。ひとは自分の笑顔を客観視することはできない。
カガミを見て笑ってもそれは全部作り笑いになってしまう。
笑顔に限らず、泣きでも怒りでも、表情とはすべてそういったものだろう。
そして声色や表情ほど、瞬時にそのひとの内面を表すものはないのである。

 

声も表情も、人側の安易な作為や操作などせせら笑うかのように、自分の意に沿わない。自声嫌いや表情の硬さを克服できたという人は、錯覚か、思い込みか、慣れたかのいづれかに過ぎない。
自然な感情の発露というのは、吹き出てしまう、とか、にじみでてしまうものだ。
それらは自覚できないし、自覚できたと思ったとたんに消えてなくなってしまう、砂漠のオアシスのようなものだ。

 

このことからうっすら感じ取れるのは、ほんとうの自分など、たぶんどこにもいないのではないか、ってこと。そして変化し続ける自我なら、かろうじて存するらしいってことも。
人が知覚できるサイズの「自分」ってのは、おそらくこの変化していく領域にしかいないだろう。
個性なんてその程度のものである。

 


顔も声も身長も気に入らない。スタイルが選べる人生ならいいのに。

 

精神と肉体は、つながってはいるが別ものだ。自分の中身(=精神or主観)は無形なのに、肉体という有現のものに閉じ込められている。無形の内実が、有限なものや死ねば腐ってしまうもの、つまり客体に封印されてる。なぜこうした構造なのか?

 

それはたぶん人の本当の正体は、たったひとつしかない無垢であり、それは外郭を要求するからだ。
無垢は人格など超越しており、いいも悪いもなく、人的評価や科学的観測の埒外にある。

評価は出来ないが、むりやり形容するならば、無垢とは、反省と無縁である。
無垢は、無口である。そして無垢はちょっと呪われていて、破壊的犯罪的残酷なときがある。霊魂が直感的に怖いのは、それが無垢の抽出だからなのかもしれない。
無垢という言葉には100%ピュアな純真イメージがあるが、それはちょっと違うのだ。再生を前提とした破滅が、邪悪さが、織り込まれ済みのようなところがある。
とにかくこの惑星の、すべての生きとし生けるものに、その無垢は継承され息づいている。

 

このかけがえのない無垢の、無数の分岐や結晶現象が、ぼくら人間(の魂)であり、そこらへんの犬や猫やカラスにも、同じようなものが宿ってる。なぜなら動物の瞳の奥には、永遠が潜んでいると感じられるからだ。

 

そんななか、おそらく人間のみは、自分の中にある無垢さを確認し、共鳴し合い、押し広げてゆくことが、実はできる。たとえばこの文章がそうであり、ランボーの詩などもそうである。

 

そしてそういった能力を備えた人間に、同時に課せられたのは、客体(=肉体)という一定の制限、甲殻、拘束具である。その制限がないと、無垢の持つ、よこしまな要素が開放されすぎて生存が保てない。人はそういう仕組みなのではないか。

 

したがってこれは、分かりやすいイメージでいえばアニメのエヴァンゲリオン筐体なのである。
エヴァも、無垢の共鳴、拡大、そして再生のための破壊がテーマだったのだ。

 

さてここで、声や表情という意思疎通の際に決定的に大事なものが、自分には分からなくさせられている問題に戻ると、それは「おまえの個人性は、おまえのものじゃないんだぞ」という、無垢からのナゾかけなのではないのだろうか。
あなたは、わたしである。わたしは、わたし以外の誰でもある。
だからあなたの、自覚できないその声色やその表情で、瞬時に、お互いがお互いを「分かる」のである。

 


しらじらしいものにかかわり合ってるヒマはない

 

さっきTwitterを見てたら「自分の気持ちに正直に生きる。それがいい人生を送る秘訣」式の、チョーシいいだけのペラッペラなtweetがあった。
若者を中心にbotでずいぶん拡散されてるツイートのようだが、それは空虚なだけで何も語っていない。
「気持ちに(というか気分に)正直に」と呼称する時点で、気分や正直の影を追ってるだけになる。

 

本当に、本心から、気持ちに正直になれたことが、かつてどのくらいあったか?というか、正直って何だ?

 

無垢の持つ犯罪性は、こういう影を追尾させるような目くらまし的なところに、さっと何気なく出てくるのだ。

 

「気持ち」にシラケよ、「個性」を見限れ。自分の内なるマガマガしさを見つめよ。


「いい人生」とは、ビキッとライブに「分かる」その瞬間を、いかに長く、エレキギターのサステインのように伸ばせるか、そして分かりあうお互いが、自分の声のように頭蓋を通じて響き合えるか、それだけだ。

 

<了>