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【けっして大勢では読まないでください】マスコミが絶対反省しない真実 ~ファンということばをネタに~

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いまやイベントでお約束のサイリュウム。光るけど自分と周囲をめくらますには最適なお仕着せアイテムだ。でも場をアゲるなら自分を輝かせてこそ、価値があるじゃん。方法は知らんけどw

画像出典http://prcm.jp/album/4a3a9be89294/pic/19229889

 


<言葉はジレンマのブラックホール>

ぼくら現代人、お互い言葉には困らせられっ放しである。

ナニ?別に困ってない?そんな人は幸せです(皮肉ではない)

本来は、思考のための手段に過ぎない言葉というものが、いつのまにやら人にとっての「目的」にすり替わり、デカい顔してぼくたちの行動も考えも縛っている。そんな気はしないだろうか?
かといって、言葉なくせば、われわれは当初から身動きがとれない。


言葉とは、そんな困った鬼っ子ちゃんだ。


これは、自由に作文しろと言われればかえって何も書けず、自由に「関して」書け、といわれれば何とか書ける、という悩ましい倒錯に、少し似ている。


そう倒錯。言葉は倒錯の源泉である。例を挙げよう「ファンです」というときの「ファン」だ。


<世のアイドル現象。深くトリビアを掘る対象は、アイドルじゃなくて自分のアタマ>

いきなりだが「ファン」という言葉がない世間というものを仮定しよう。思いっきり卑近な例で言うとジャニーズやAKB。彼ら彼女らはその世界でも大人気だとする。


あなたがそのアイドルタレントに熱中してるのなら、ファンという言葉は使えない中で、その好きさかげんをどう言うだろう?どう自分なりの言葉であらわそうとするだろう?


○○がスキ、好み、顔がきれい、歌が上手、カッコいい、シュッとしてる、美しい、性格がマジメ、神秘である(?)等々…


そういうふうに考えながらも、一方では「いやでもそういう言葉じゃねくね?」とか、「こういったらもっとうまく言えるかなぁ」「最近なんか変わってきたあの子、惚れ直したけどなんでだろう?」などと、あれこれ頭をひねるはずだ。


それを語る熱意と、自分の気持ちとフィットする語彙の探索、うまい表現が見つかった(と思えた)あとの語彙チェック(他の言説に埋没した言葉じゃないか?ありきたりの表現でないか?等)、また、いったん最適に思えた言葉でも、振り返ってそこに自分を欺く感情が混じってないか…状況よっては新語、造語を作ってしまう場合も。


自分意識ワールドと対象者と言葉との三者間を、こうして反復する照合。およびその過程。


この一連の過程っていうのは、実はガッコの成績やテストの点、年収の多い少ないなどとは比べ物にならないくらい、自分にとって大切なことだ。対象がアイドルでも、さしあたっては構わない。


これは対象物を通じて自分、話しかける相手を思料するという、かけがえのない考察であって、この一連の考察過程は、少しづつだがかならずその人の内実をひろく、あかるく、つよく、あつく、かしこくする。


自分は文系人間じゃないからとか、難しく考えるのは苦手だからなどといって、この思考を放棄してはならない。


放棄すると、そのひとは狭く、頑なで、柔軟性をうしない、閉じてしまって、いわゆる「キレる人」になる。もしくはこれまたはやりの「下流○×」になってしまう。この傾向は、急速に進行して態度として固着し、しかもそこからの脱却は難しい。なにごとも築くのは時間がかかり、壊すのはあっという間に出来る。


将来に渡って厄災や禍根を残す残念な人は、こうして出来上がる。


<言葉の拡大再生産と大量流布で目もくらみ>

ファンということばが存在しない世界の話に戻ろう。

その世間ではいっぱい放たれた「ファン」たちの熱中語のかずかずが宙に舞っている。たんに好きというだけでは物足りない、対象への思い込みの投影を、つぶさに、個別に、ていねいにつきあっていくのが、寵愛を受ける側の、本来の「おつきあい」であり、いわゆる「ファンサービス」だったはずである。

 

(昔々のキャンディーズあたりまでは、時代が牧歌的だったんでギリギリなんとかそうした交流が出来てたような気がするが、まぁやっぱり錯覚だったんだろう。こちらも子供だったし)


しかしこうした好き好き事象が世にいっぱいあると、そのファン各人の想いに、いちいちかかわりあっていられなくなって、(あるいはやってらんないなどと、一方的に線引きしてしまって)それらを一般化、抽象化する意図が働く。
それはアイドルで言うと芸能システムの運用側からの要請なのか、周囲で傍観するだけの集団からの意図なのか、その辺は未分化だ。
ひょっとするとほかならぬ、愛好者側からの省略の発想からくるものなのかもしれない。
その起源は分からないが、とにかくひとそれぞれの「好き」を横断的、画一的に処理してしまえるひとことが要求される。


かくして、(日本の場合は海外から輸入してしまうなどして)「ファン」という述語ができあがる。


すると便利なものだから「ファン」という新語の定意推進が、ある日ほとんど暴力的に始まる。メディアを中心とした流布のことである。


ご存知のように雑誌や新聞、テレビといった静的動的な、オールドスタイルのメディア屋機構は、言葉を商売道具にしながらも、肝心のその中身の検証はほとんど放棄しているという、欺瞞に満ちたおもしろがり屋、はやし立て屋だ。
携わってる一人ひとりはいい人でも、構造が「中の人」を麻痺させるように出来ている。
情報を操作したり、利権をむさぼったり、一般人を食い物にしてやろうなどという、ある意味分かりやすい悪意はその構造の中には不在だ。
あればまだ敵として位置づけしやすいが、そんなレッキとした(?)ものじゃない、ただただ蒙昧な意図がそれと意識もされず吹きだまってるだけである。


こうした、あえて言うとプロ悪人未満(?)の大人たちによって、みんなの、普遍化できない、「好きだ」というかけがえのない意識は、「ファン」という大雑把な言葉に狭窄・収斂されていく。似た言葉に「マニア」ってのもあるけれど、「ファン」の高度版なので同じようなものだ。

 

(ファンという言葉を遣うのなら、その語前に「いわゆる」とでもつければ、まだ殊勝で、ギリギリ許せる態度だと思うが、はじめからさもその言葉が既存であるかのように語られては、本当の「ファン」たちは不服だろう)


そうしていつしかみんなファンという言葉を使いはじめて、あなた○○のファン、わたしは××のファンという風に、あっという間にセクト化してしまった。

 

ここまでは、まぁ見えている。

 

問題はここからが錯覚の本番だということである。ファンというレッテル貼りの強制力・規制力は人心をいかに惑わすのかということがテーマである。

 

「ファン」という言葉は意味の通りはいい。しかし個人個人の想念の濃淡や区分は、その中でアスファルトのようにべたーっと塗りこめられ、その「好き具合」はどんどん均質化されていく。
ファンはファンであって、いくら特大ファンだとか、グレートなファンだとか、形容詞をくっつけて長くしても、もとが一般概念だからあまり差別化アピールにはならない。

この新語は、そのわかりやすさとひきかえに、愛好家たちをひとしきり、おしなべて、あるかたまりにして鋳型に押し込めちゃう。大げさに言えばそんな「牢獄」だ。

 

言葉自体にはぜんぜん悪いニュアンスが含まれていないのが、これまたかえって悪質であります。反省の契機を失わせてしまうから。

すると人の方でもそれに回りまわって感化され、ファンという言葉で自分の立ち位置に納得を与えてしまう。
そのワードに安住してしまって、自分の言葉を投影する機会をなくし、簡単な言葉なだけに、似たもの同士で寄り合いをつくる符丁になる。
「推しメン」とかいう、「ファン」のある意味でイマ風の言い換えなど、そうした符丁は、ぼくが知らないだけでいくつもあるんだろうと思う。そしてそれは他のファン集団を排斥する論拠にも育っていく。

 

自分の言葉を持っていないそのご本人は、同質化を強制された狭い領域で、実は孤立を深めるばかり。人々を分断するのは昔から思考力と情報の一方的操作である。「ファン」ということばは、それをあてがわれた方(ほう)の人を当為の存在の中に縛り付け、自足的な身分の形で固定するクサリである。鎖で縛られると視野が狭くなる。周囲が見えなくなると情報の洪水の中で嗅覚のみがセコく発達し、「情報を取捨選択できてる自分」という錯覚だけが育つ。隣との違いはアイドル豆情報の有無や、情報選択の度合い、新情報の取得スピードの差程度に矮小化され、競争させられる。

 

こうして日々みなさん、ヲタ芸磨きに、他のファン集団との抗争に、twitterチェックや書き込みに、コンサートに、サイリュウム振り回しに、決められた時間枠のなかで見事ご多忙と相成る。

 

そうやって醸し出されるライブやイベント会場での一体感や、アーティストとファンの間に生まれる連帯感は、雰囲気だけは味わえる出来レースのようなものである。本当の連帯は、かたいキリッとした個人と個人の、抜き差しならない関係相の中にしか、生じないものであるからだ。


同好の仲間で連れション感覚で入る牢屋ほどホッとする場所は無いので、今度はその枠の中で自発的に「模範囚」を目指し始める。ただアイドルが好きなだけなのにこうなると不幸だと思うが、その「好き」を自分の中で見つめないと、何かに取り込まれるだけの存在に堕してしまう。


こう書いてくると、アイドルに無縁な人でもなんか似たような経験はないだろうか?カイシャ、シゴト、ガッコー、チーム、何かしらの集団性を要求するもの…


(スターという不幸な構造とか、メディアの蓋然性とか、このたとえ話には問題ポイントが他にもあるが、今日はその辺は割愛する)


<ネガティヴな猜疑心をポジティヴな救済の糸に>

胸のうちのモヤモヤを、伝えたくても伝えられない痛痒感、うまい言葉が、そのものズバリでなくても、近似の形ですら出てこないときのもどかしさ。言葉を使うかぎり、人はかならずジレンマの牢獄に入れられている。


ジレンマ、それは個々人の中身は宇宙並に広大だが、言葉は何万語あってもその一部を形成することしかできない、ってことだ。
それでいて、あなたと疎通し合える手段はとりいそぎ言葉しかないってことだ。

言葉と言葉を掛け合わせて文章スタイルにしてみたところで、どんなに大長編小説を書いてみたところで、人の意識を正確に表現など出来ない。


ましてや意識は瞬間瞬間、うつろうものである。この意識の同時中継を真摯に、丹念に言葉でおこなっていくなど、土台ムリだ。


だから逆に言うと、言葉の世界で一応落着してるものは、その部分領域をカバーする程度の「読み物」でしかない。
(例:法律や条例は単なる「べからず集」であり、教科書は子供への訓示手段に過ぎない)


数学とか物理学、美術や音楽…人知に関するそうした他ジャンル表現の助けを借りたとしても、あなたたったひとりのワールドの伝達には、それでもまだまだ、まだまだ、足りないのだ。


ただ唯一、その牢獄を希薄化できる可能性があるとすれば、それは既成のもの、規定の術語、いつの間にかあることになってるしきたりなどを、「怪訝に見つめる」ことだと思う。怪訝に見つめることを契機として対象物に別の角度から光を与え、立体的に浮かび上がらせ、違う意味を考察する。


こうして対象に向き合って、ダメ出しを起点にして「ナゼ出し」の自問自答を繰り返したり、このブログのように書きつけてみたりするのである。抽象的な書き方しかできなくて恐縮だが、そうやって牢屋の意味を、内側から、たとえわずかな瞬間でも、ホネ抜き・形骸化する方法しか、僕は知らない。


ぼくの考える「怪訝な例」は枚挙するに暇が無い。例えば「おつかれさま」「補償」「お金」「応援」「情報」「移動」「実績」「作業」etc…


人にとって何か少しだけムリのある二項を、強制的に立てさせられ、その二項間のわずかな亀裂や段差を、仕方の無いことだと自動的にあきらめさせられ、みんなエイやっと毎時間無視している。替わりにごほうびで与えられるのはサイリュウムのキラピカ棒みたいなお給金だけだ。これで牢の中で遊んでおいでとごまかされるのだ。

 

冒頭で言葉の罪性を問うたけれども、言葉自体に罪はない。あるわけない。罪があるのはそれを遣う人間の思考回路、人類歴史の硬直性、欺瞞性のギャップの数々の方である。

 

すなわち人を閉じ込める牢獄主、それは煎じ詰めれば、同じ人なのである。


ひとつひとつの段差は小さいけれど、こうした呪縛のギャップが積み重なるとストレスの元になり、やがてはその宿痾は大きくなって膏肓に入り、自覚のないまま死に至る病となる。


良薬なら苦さを我慢して飲み込むこともしよう。だが苦さだけを押し付けられ、その苦さの正体すら分からずジタバタ暮らすのだけは、ごめんこうむりたい。同じ牢屋なら、牢に入ってる事実に対し自覚的な方を選ぶ。


この世界は雪に覆われた景色のようなものである。

もともとの地表にあった起伏は、一晩のうちに不可避な厚い雪の層でカバーされ、いまは雪が翌朝の陽光に照らされている。
なだらかに、いく分しなったいちめん白銀の世界。
その銀面のわずかな隆起だけが、その直下の地面の起伏や、動植物の脈動を、ほんのわずかに伝えている。


雪の表面はいっけんキレイである。だがやはりその下に隠し持ってる。隠し持っててそしらぬ顔ですましている。
この「雪化粧」は、何かを糊塗し、踏みつけにして、呼吸できなくする、そんな犠牲の上に成立するキラキラなのだ。それでいて言葉に似て、雪に罪はないというこのやるせなさ。


人の世もおんなじである。

対象に斜め45度を保って接することを、まずは基本原理に据えたい。

 

<了>

 

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