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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



充実した毎日とは何か。

まいにち充実して暮らしたいと思っている。人生最後の日までそうして生きたい。

 

でもそれは面白おかしく笑って過ごせればそれでOKってことではないし、映画やテレビといった娯楽に向かって自分をマヒさせていくのとも違う。パートナーや家族がいれば満足かといえば(まぁ充実といっていい部分もあるけど)そうでもない場面もある。自分の中から湧き出てきて、簡単には枯れない泉のような充足感が欲しい。そう言われりゃ、みんなそうだろうと思う。

 

じゃあそうした充実とは何か?どうしたらしっかりそれを育てて、捕まえていられるのか。

そのことを考える前に、ぼくらのまわりにある、よくある光景、つまり会社での仕事風景を見てみよう。充実は、仕事などの日常の中にこそあるはずだ。

 

ぼくたち会社や組織に属する人は、いろんな立場の違いはあっても、仕事は基本的に時間との闘いである。

 

そう、「仕事を効率的に処理できない私」。これが大きな悩みということで、書店のビジネス書コーナーにはいかに早く仕事を済ませるかのノウハウや、時間マネージメント術についての本が山と積まれている(中身の骨子は何十年間も同じだが)

 

ところが仕事がほんらい目指す指標は、処理する「早さ」ではないのだ。
目指すのはご存知のとおり、モチロン「最終的な内容や質」である。
また仕事の「速度」をいうなら大事なのは、作業の先に控えている「成果を早く出す」ことや「目的に早く達する」ことの方である。
その最終ラインをすばやく目指すために、まずは目前の仕事(というか作業)を早く能率的にさばく、ってのが取り組みの正統な順番である。したがって作業を早く片付けたところで、それは「充実」にいたる基礎固めのひとつが、単に終わったに過ぎない。それどころか、速度のような近視眼的な考え方にこだわっていると、「仕事」を1件早く処理しても次々にやってくる別の「仕事」に追われるだけになってしまう。処理の時間的早さに決して満点評価は与えず「もっともっと」と要求するのが、現代の経済要請だからだ。したがってその方向で進んでいくと、行き着く先は大体において、自分が機械やパソコンに取って代わられる日ということになる。

 

そうなると今までの常識とは逆に、「作業の早さはとくに追求しない」くらいの仕事姿勢が、充実を目指す存在の人間としては正しい仕事態度である。自分が透明になるほど「それ」へ集中し、飽きるほどの熱意を「それ」に込め、じっくりと納得のいくまで「それ」に取り組む。そうした態度の前では時計など、時刻の確認手段程度のものに後退するだろう。

 

つまりこの正当な姿勢は、勤務に対する効率追求のいわば放棄であり、もっといえば時間や能率で人を一律管理していくという思い上がりを切り裂く、根本的な嫌疑であり、それは勤労経済に関する別次元への突入なんである。

 

そうした新しい領域で「本当の仕事」を志向し遂行する、その過程でつかむのが、ひとりひとりの腑に落ちた形での充実だろうと思う。

 

いまのままではブラック企業に代表されるように、社会も会社も人を阻害し疎外する、そんな悪手の系譜でしかないよね。
くだらないものをいくら積み重ねてもくだらないままだ。それはゼロに何をかけてもゼロのままなのと同じである。

 

言っておくけどこれは理想論ではないよ。毎日のルーティーンワークの中に、飛躍のヒントは潜んでいるという、当たり前の話だ。それが充実への突破口になるというだけの話である。
つらいとグチってみたり、自己憐憫におぼれてみたり、いたずらに不安に陥ってるのなら、自分が作業の「早さ」のみに固執してないか、自己点検してみよう。ぼくはそうしてやってきた。

 

かならず何かしらの出口はある。能率や効率なんぞは充実した人間にとっては、はるか格下の概念である。

 

<了>