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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



AIとか人工知能の開発に関し、思うこと。

bylines.news.yahoo.co.jp

 

AIとか人工知能でマシンと対話

上にリンクした元記事は、「お話できる」ニューガジェット、ロボット型携帯電話「ロボホン」とやらに搭載される会話AI開発にまつわる文章。「対話」の本筋を考える上で触発的な論考である。「感覚が響きあう」などの、音楽の真理にも通じる重要な示唆を含む。

 

15年ほど前に人気があった、無愛想ブサイク、かつシュールな人面魚ゲーム「シーマン」を憶えておいでか?こいつだ↓ なかなかイケてたゲームであった。

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本記事を執筆したのは、この皮肉と辛口で愛すべき「シーマン」の制作者、斎藤由多加という方である。調べると著述家としても一流であり、それだけに口語と文語の違いや会話の本質に迫る言及など、この論考は一読の価値がある。文章も巧みで、長文ながら一気に読ませるテキストになっている。

 

ただこの記事には不満な点もある。それはパターン技術やプログラミング思考で人の会話を分析していく姿勢がそもそも失敗であるってことへの考察に、せっかく届きかけていながらも結論部では、それがロボットメーカーの商業的成功とか業界とか、シャープの社風とかの「つまらないもの」つまり「技術」に付随するものに矮小化され、あまつさえ「期待」すら、抱いてしまっている点である。

 

「会話」は分析をよせつけない

 

この論考で指摘されている通り、会話には「間」や「テンポ」、「余韻」や「メロディー」という大切な要素がある。そしてそれらは、人というこの普遍存在が発するものである以上、単なる意思疎通ツールではない。言葉には、人間の、宇宙の、普遍そのものが封じ込められている。会話は、そうした普遍さがあちこちでスパークしている現象なんである。「あー」や「えっと…」といった感嘆符にすら、それは存するのだ。

 

(人の行為や体の動きはすべてそうしためちゃめちゃハイレベルのものなのだ本当は。詩吟や舞踏は、己の身体性でそれを表現するパフォーマンスである)

 

したがって会話を対象化し意味づけするとは、人間や生命の本丸に迫るに等しい、きわめて高度な営為であり、やるのであれば人類の英知総体でもって、本格的に徹底的に取り組んでしかるべき巨大領域である。もっといえば科学技術など、そうした知性の下僕でしかない。エンジニアはこうした謙虚さが基盤になければならない。民間の特定メーカーの予算とか採算とか、調整とか締め切りなど、じつに瑣末なことである。

 

AIとか人工知能みたいなのは、そろそろつぶしておかないとな

 

上の記事にあるロボット会話AIにおける「会話するフリをする技術」などは、シーマンのお遊び分野に限定しておくのがよろしい。会話を技術面からパターン化し究めていけば、その本質が掴めるとどこまでも信じ込むその無邪気な姿勢こそが、現代における諸々の人間疎外現象の根源である。

 

だいたい言葉への根本的な考察や反省もなしに、いきなり会話再現に取り組むのが、まず不遜である。そんな態度だから記事の筆者が指摘している通り、「会話が成り立つ成り立たない」とか「対話がつまらない」というレベルでジタバタしてるのである。

 

また、私論を展開せば、「会話の正体が判明し、会話が完璧なAIが開発できたらそれが何なのだ」というのがある。それがぼくらの生を、より高次の豊かさに導きでもするというのか。否、歴史を見るとそうした技術は大きな厄災を必ず、逆説的に、世界にもたらす。人にとってあってもなくてもいいような、多少の利便性の実現と引き換えに、だ(←人類いまココ!例えば原発とか遺伝子組み換えとか。近代科学技術は全部このパターン)

 

まぁ冒頭でリンクした文は、依頼原稿だとしたらここらへんの文意までが限界か。

 

とにかく対話行為とは、わたしがここにいて、あなたが目の前にいることの確認を根底に含む、まったくとんでもない瞬間の現出だ。ひとことひとことが単なる空気の振動でありながら、まったく同時に小宇宙の生誕なのだ。

 

至極ありふれたものを、とうぜんなこととして流してはならない。これがホントの知性というものでしょう?

 

繰り返す。ロボット会話AI開発へのイレ込みなど、お遊び程度にしておきたまえ。

 

この一連の「開発」に対し、シーマンならどうリアクションするかな。


<了>

 

歴史遺産など「解体」せよ。

人類の栄光ある歴史の遺物をたてまつるのが、世に言う歴史遺産である。そこには、先人たちの持っていた畏敬の念、知性の集積、技術の粋が凝縮されているとされている。なるほどそれはそうだろう。

 

だが、そうであってもやはり歴史遺産は現代からみた矮小な評価の事物に過ぎない。「世界歴史遺産」など昔からある単なる瓦礫の集積であろう。「世界的」などと大々的なレッテルを貼られて、「遺産」の方も迷惑なのではないか、なぜなら、

 

破壊されず残ってる古の建造物だけが、またはヒーローや英雄の伝記だけが、歴史の本体ではない。むしろその陰にひっそりとたたずんでる謙虚なものの方が、歴史の王道であるからである。

 

もっというと、現存し呼吸して、毎日喜怒哀楽を表してるあなた、ぼく、地球上の老若男女みんなが、ひとり残らず歴史遺産そのものである。しかもそれは、過去だけでなく、これからの未来を志向する存在なのだ。

 

京都やローマなどの歴史的名所は過去の残骸に過ぎない。あがめ奉るのはエエ加減にした方がいい。しかもそれは、後世の恣意性がもたらした操作性満載のものでもあるのだ。そんなものに酔っていては自分が不純になってしまう。遺産と言うなら、そこらへんの草木も等価に歴史的存在であることに気づくことだ。

 

観光といういにしえの詠嘆にひたるひとときは、あなたにこれから間違いなく確実に約束されている栄光、あなたなりの確かな獲得を鈍らせる、そんなマヤカシだ。

 

GWの終わりに記す。

 

<了>

 

九州熊本地震への処方箋。

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熊本をタイトルに掲げながらも、図版は福島県の汚染地図2011年8月版。この県境と同心円での表現に根本的な違和感を覚える。有事の際ここにあるような同心円上での「爆心地」からの距離、震度などの恣意的数値、自治体の境界線といった、もっともらしいがよく考えるとアホらしい尺度・基準に、ぼくらはあまりに慣らされてしまっている。
こうした「客観的な」指標に由来する弊害が、非常時には全面的に露呈する。
「円」より外側に対する空想力の希薄化、喪失。福島県の話だから県境までの記載でOKと落着する、そんな思考停滞が「ウチは、大丈夫」となり、明日の全体崩壊を招く。県境に固執しない汚染地図であっても海や隣国など、気を遣うべき「他者」は必ず各段階に存在する。

 

 

九州熊本地震への処方箋。

 

事態が勃発したエリア性つまり県や市町村といった行政区分、あるいは対応組織としての警察、国、自衛隊、あるいはナントカ大学地震研究というセクショナリズムが先に立った上で、巨大災害に対し「分断」するという態度で接すると、対応が極端に後手に回る。その弊害への考察が、未だ一般的でない。


全体的横断的包括的長期的視野に立った支援・救助活動は、局所や部分の最適によるそれよりもはるかに勝る。


東日本大震災及び福島原発人災の反省は、県境で災害状況を区切ることに象徴されるその姿勢が、今回の熊本地震(狭い地域性に押しとどめるようなネーミングをまた付けおって!)でも依然として活きてることからみるに、初歩にも到達していない。


この、まったく当然がごとくに自治体の境目で判断するセクション姿勢(どこそこ町では何人死亡と報道されるが、それが死亡時の場所由来でなく、その本人の本籍地で表示されるなど)や、非常災害対策本部だか緊急災害対策本部だかなんだか知らないが、「本部」や「司令塔」が必要とされるなどとハナから思い込んでるその旧態感覚。海外で巨大地震が起きれば、いの一番に報道されるのは在留邦人の安否というその違和感。


こうしたものが、天災の自然規模を、時間の経過と共に極大の人災ならしめる大きな推進力になってしまうことを、当の司令官たちがお気づきでない。震災関連死など、一人でも発生したなら危機管理など画餅に帰する、大失敗である。

 

本部はいう、状況は複雑で時々刻々変わるから、と。
しかし被災者の皆さんはギリギリまで我慢して、困ったときはお互い様と気を張っているのだ。
本部など、プランを練るなどくらいは許容してもいいが、現場要望最優先の御用聞きでいい。あとは全体の状況把握と、資材物質配分の最適化が使命である。


組織対応は、管理者や指揮系統を必要とするが、それはそれだけで権力である。
そして権力による強権発動は、崩れた土石流の除去、損壊家屋の片付け、主要道路の整備など、重機や土木のパワーが必要とされるところ、避難所や介護医療、仮設トイレの設営などといった初期対応等には、確かに有用であるが、それ以降の復旧期には、傍流となりフェードアウトしてゆくものだ。
元からある避難所を補強、増設するくらいならまだいいが、仮設住宅を設置する段階までいくと、下手すると一部ゼネコンなどの既得利権の養分になりかねない。なぜならそこまで進んだ「権力」や「本部」機構は、「一般論」の世界になっていくからである。


世のものは何でもそうだが、一般的なるものでくくる、まとめると、とたんにそれは人から遊離し、手段の目的化に堕すのである。一般化などという、筆者に言わせればまったく粗暴な結果論的概念が、すんなり適用されて落着する個人など、有史以来ひとりもいない。みな、一般という枠から程度の差こそあれ、必ずハミ出す存在なのである。そのハミ出す部分に最大限フォーカスするのが平時は民間ビジネスのネタであり、異常時には行政の、もっともベースとすべき思想となるのである(本当は平常時でもそうあるべきで、だからこそ災害時緊急時においてもそのコンセプトはゆるぎなく継承されるっていうのが理想だが)


いまの避難所を見たまえ。災害からの避難などの極限状態は、まったくひとそれぞれの個別の、高次元の状況であり、そのことに対する声なき悲鳴が避難所には充満して居る。


この一般論と個別を区別し、一般論的部分よりも個別対応に重点を置いて、キメ細かに対処すること。感情や情緒を廃し、災害対応もその2つをしっかり区分けして対応してゆくこと。それが今後の基本である。これは行政区分やら対応組織といった今までの公的基準とは、文字どおり次元の違う上位的対応になる。


実はこの一般論の考えは、平時に個人に降りてきて自律神経に影響を与えると、いわゆる「郷土愛」「地元至上主義」となってその人に固着する、そんな類のものである。マイルドヤンキーも、昔からの暴走族や体育会系なども、その仲間だ。筆者に言わせれば郷土愛など、催眠術に伍たるものである。


スローガンとしての「絆」や、今後大々的にうたわれるであろう九州魂とかオール九州めいた言葉は、一般という安全帯に遊離した仮設的なものだ。それは被災者の心情を鼓舞する、慰撫するようでいて逆にさか立てることになるから、そうしたシュプレヒコールには今後うっかり乗らされることのないよう、めいめい注意されたい。仮設はいずれ本設に取って替わられなければならない。


(東北の太平洋側など、いまだそうしたスローガン呪縛の渦中にある。放射性物質で汚染されきったエリアなど、がんばりようもない。水産業を立て直すにしても、いちばん頼れるものはゼニカネである)


金銭の話でいうと、被災地以外からでは個人の義援金とか、ふるさと納税での応援など、現段階でも経済的支援の手立てはいろいろあるらしいが、ばらばらにやっては被災地個々や個人の格差につながりかねない。
また、第三者の懐に入って使途不明金となったり、いつの間にか雲消霧散したりなど、もっとも言語道断なことにもなりかねない。日本赤十字社だって聖人君子ばかりでない。


こういう硬直な一律対応が必要なときこそが強権発動、一般論ふりかざしの出番である。政治とカネ、相性もピッタリだ。


こうした個人の善意ものはあえてすべて禁止し、日本国政府が、為政者のトップの権限を最大限発揮し、全責任を持ってこれらを半端ない規模の集金にまで組織化し高め、現政権にとってはお得意ではあるがレベルの違う、空前規模の「バラ撒き」を九州に処遇し、被災者の不安を半分以下にまでせしめよ。


このブログでは貨幣制度など、人を隷属させる悪魔の手先として普段は攻撃してるが、こいつの唯一の利点は、こういう非常時における被災者の将来への不安を減じるのに相当役立つ、という点である。カネの無利子、非課税配布は肉親知人住居を失った悲しみは減らしはできないが、その他の不安解消にはテキメンに効く。そこを、今こそ最大限に出すのである。
そのためなら、例外的な新規課税も許可するぜ、安倍クンよ。


宮城仙台市在住の筆者も、東日本大震災時は総計で300万ほど支給され、その後の生活再建に大いに役立った。しかもその支給は可及的速やかだった。それは何よりもありがたかったのだ。その経験から言う。


あらかじめプールしてある緊急財源からの拠出に加え、上記のような新規の集金も加えたバラ撒き大政策を、いまの九州にこそすみやかに集中投下せよ。現地で拝金主義を大いに普及させよ。ただし多額なかわり、使途の限定を促す個別の説教を付けよ。


いろいろな審査段階を経て、ざっくり一世帯当たり500万~1,000万程度を支給したとしよう。そこで行政側は、受給者にこうクンロクを垂れるのである。


「このカネは、いままでの生活再建だけでなく、あなたの新規の生活確立をめざして役立たせるべきである。今までの借金返済等に充てるのもひとつだが、郷土愛や阿蘇の大地なんかにこだわらず、元のコミュニティーへの依存もホドホドにし、また自分がトシだとか、農業畜産以外なにもできないとか思わず、九州にも固執せず、四国あたりへの移住もいとわない。そのくらいのレベルの飛躍にこそ、ぜひ役立ててほしい」


こうして与えるのが、先に挙げた「一般論の世界」から逸脱し個別に効く、活きたカネの遣い方だと思う。


配布の際の事務手続きは、淡々として粛々と実行していくが、実務者として取り組む行政側の職員も地元民であろうから、当然自分の生活者観点、あるいは被災者観点なりの気迫がこもった対応になるであろう。
東日本大震災のときもそうであったし、鬼怒川大決壊時の茨城もそれが感じられた。
この行政側の気迫が、淡々とした処理ひとつにも横溢し、受給者に伝わる。これは「本部」では指導も伝達もできない領域である。


東日本大震災のとき、思い出したように三陸沖で言われたのが、いまや有名な「津波てんでんこ」「ここより下に家を建てるな」といった、古くからの言い伝えである。
こうしたいっけん非情でバシッとした断言こそが、その後の多くの命を救う。

 

おためごかしや、まぁなんとか我慢しなさいや、古くからの寄り合い所帯がないとさびしい、といった先送り的な、いいかえれば一般論に該当するような現状維持姿勢は、地震や津波の場合はかえって、その後数百年に渡ってさらなる人災を、繰り返し招く。


集団は、離散するものだ。個人とっては終の棲家など、はじめから幻想である(結果としてに終の棲家に「なる」だけである)
ちっちゃい地域性などの偶発的なもの(出生や成長の土地であることのたまたま性)に、あなたという大きな存在が足をすくわれてはならない。


こうした歴史的見解も含めた上での、全人の、人の偉大さを、非常時でも最大限保障するような「包括」概念こそが、本来の危機管理とやらの全体像である。自衛隊や警察、消防隊や医療チーム、経済(ゼニカネ)や国政、地方行政は、それを補完する「手段」である。
エコノミー症候群とかいう、ああいう場合十分予見できた、また事前知見もある血栓現象ひとつさえ防げず、蚊に刺されて日本脳炎に罹るように、あんなつまらんもので本震を生き延びた生命をむざむざ失うという失敗制度。


こんなものは有事対応として根本的に、初期から、とんでもなく、間違っている。

 

<了>

 

お化粧と対極にあるもの。

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お化粧用品は増えるばかり。  画像引用:all.sakurasozai.com

 

 

K子との出会い

私がK子と出会ったのは、まだ雪の残る3月上旬、札幌のすすきのでのことであった。


K子は、私がごくたまに寄るカフェ兼バーでウエイトレスをやっていた。


年は30歳、身長157cm。体型はややガッチリタイプに見え、いわゆる固太りに近かった。
顔はまぁまぁ整ってはいたが、頭部はアメフトのボールのように大きかった。
完璧なメイクを追求してるようで、白塗りの土台が厚く、丸い輪郭が、さらに強調されていた。
キッチリ描いた眉に、メリハリをつけたアイライン。目元周りには、そのひとのお化粧への設計意図が表れるものだがK子の場合それは、顔の大きさを、目を拡大させることでごまかそうとする意図だった。

 

それとK子のメークには、悪い意味でのバランス感覚という特徴も見られた。
あちらとこちらの均衡を保とうとして、薄くするのではなく、厚く盛る方にいってしまうのである。
だから白塗りは行き過ぎて歌舞伎のようになってしまう。


さらにK子は勤務中はロングヘアーをタイトに縛ってるので、目元が上がって鋭角的になるのだが、これがふしだらで好色な印象を与えかねない外見になってしまうのだ。
ここまできては化粧も逆効果である。


それはせっかくのよい素材での料理を、調理でなくソースで惑わし、お門違いの高級感を添えたつもりの洋風メニューのようだった。
白人の風貌という、ないものねだりを追いかけた挙句、醜くなってしまったマイケルジャクソンのようであった。


K子は、そんな女だった。つまり、どこにでもいるひとだ。


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K子はその日も普段どおり給仕をしていた。時刻は夜の9時。私のオーダーはグラスビールだった。
私のテーブルにもやってきた、そこで2人は始めて目を合わせた。
するとK子は私の顔を見るなりハッとした顔をして上背をやや引いた。私は「ああまたか」と思った。


なにが「またか」なのか。それはその時の私の顔が彼女にはイケメンに写った、ということの了解である。


断っておくがこれは自慢ではない。なぜなら、こうしたことは4年に一度、つまりオリンピック開催と同じ頻度でしか、私に訪れないからだ。「またか」と感じるのは、4年がさほど長くも感じられない私なりの時性であって、傲慢の致すところではない。

毎日のようにこういうことが起きる人を、真のイケメンというのだが、この程度のいわば「プチ・イケメン」なら今のご時世、結構いそうである。


私の顔は、それどころかまぁどちらかといえばブサメンである。口が飛び出た造作が特徴で、唇も厚い。佐藤浩市の2倍は厚い。
このせいで、顔の下部にボリュームが出てしまい、シャープには見えないモヤッとした風貌になっている。
目も悪いのでシカメっ面にもなりやすく、表情も暗い。
たとえるなら、ガリガリ君のような輪郭であるし、佐藤浩市の親父の三國連太郎みたいでもある。
芋というか、類人猿、合わせればゴリライモ。私はそんな顔なのである。そしてもちろん、あなたに「そんなことないよ」といってほしい、そんなケチな性分も持ち合わせているのだ。そこがまた醜い。


つまり私も、どこにでもいる人なのである。


ここ20年ほどで男もするようになった「化粧」とは、もともと目立たないもの(一重まぶたなど)を、まやかしの力で輝かせる補正技術だと思うが、私の口元のように、はじめから飛び出ているものを、平たく目立たせずに抑制する用法には、それはまったくといっていいほど役立たない。
頬骨の張ったサカナ顔などには男女問わず化粧は対処できない。せいぜいが、別の部分を盛り上げてそうした欠点に対抗させて打ち消す作用に見せかけるか、全体を厚く塗って欠点を覆い隠すか、しかない。

しかし男の場合、三國連太郎がそうであったように、また、佐藤浩市がそうであるように、絶対的なブ男というものはいない。バナナマンの日村も最初見たときはびっくりしたが、慣れれば愛嬌がある顔である。

男は、ゲスな性格のやつはいるが、風貌はある水準(清潔感と常識のあるファッションセンス、そして似合う髪型、できれば細身)を満たせば、異性にアピールできてしまうのである。


男は、ここらへんが女子と違う。無思想でもある程度はイケてしまうということだ。かくして私のような者でも、こうしたラッキータイミングが巡ってくるときがあるのである。


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さて私にハッとして頂いた女子に対しては、私はだいたい挨拶をするようにしている。


ここでいう挨拶とは、店や本人の迷惑にならぬよう気を遣いながら、名刺を手渡すことだ。
できれば一言添える「もし、よろしければ、お近づきになれれば…」みたいなことだ。


ハッとする、させるというのは直感の神秘である。人間のあまたある能力のうちでも一二を争うような、めちゃめちゃものスゴい、宇宙の誕生レベルの認識だ。
人間(じんかん)にヴァイヴレーションが伝播する。あるひとがある人の存在にピン!とくれば、その相手にも同じピン!が、誤解も曲解もなく瞬時に伝わる。無視なぞできないほどしっかり飛来してくる。時間も空間も関係なく、である。
だれも解明できない、解明しようとする糸口すらあたえない、もしつかんだとしてもそれはまぼろしでしかない、そんな感覚。こうした体感に対しては対象化なぞハナから諦め、人として素直にしたがい、謝辞を述べるのがスジというものであろう。


とりあえず自分を規定する第一歩として世の中には名前というものがある以上、名乗る。
自分から名乗ることより大切なことは、世の中にそうそうない。
「4年に一度」がいつなんどき訪れるやもしれない。そんなときのために財布に名刺を2~3枚入れておく。
こうしたなんでもない普段の心がけが、出会いを引き寄せる具体的な手段なのだ。


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こうした縁で、私はK子と付き合った。世間には「よくまぁこんなサエないのと一緒になったなぁ」というのが男女問わずいるが、なんのことはない自分もその仲間入りであり、K子の方でもそう思うときがあったかもしれない。つまり、サエないのはお互い様だったのである。最初のうちは。


だがしばらくすると私にはK子の大きい顔と太い骨格が、次第にいとおしく写ってきた。
そして次に、それがかけがえのない尊さに思えてきた。


というのも付き合い始めてすぐに気づいたことだが、K子は私と最初に目が合ったホンの0.1秒の閃き、焦点で、自分の開削に成功した、まったく優れた女だったのだ。
私との邂逅によってポン!と新規開設された自我内の回路に、まったく純粋に従った。
しかもそこにいささかも世俗的な疑いを差し挟まなかった。
世俗的な疑いとは、私と付き合うことのメリットデメリットを考えることや、一緒に並んで歩いて恥ずかしい挙動をするとかしないとか、趣味や好みが合う合わないというような話など、である。
K子はそれらを考えもしなかった。だから、デートで会ってもあまり話さず、肩を寄せ合い、手を握り腕をさすり、見つめあったりするだけだった。それでどちらも了解した。
そしてそうしたK子の態度は、私の細胞のすみずみに、あまねく影響を与えた。


ドンと存在が大きいのである。100%ピュアな肯定性の塊。
小さな自分に固執していた私を、彼女は開放してくれた。こういう女に慣れると、小顔ブームとか、華奢な女子やスタイルに固執するのは、矮小なことと知れる。しつこいようだが慣れればあの日村ですら、ファニーフェイスである。


K子はやがてメークが薄くなっていった。コスメへの依存を減らしていった。
単なる身だしなみ以上のそれは、まやかしだと気づいたのだ。
特にだらしない方ではなかったが、それでも食事や運動に、それまで以上に気を遣い、毎日しっかり生活を積み上げていくよう、意識的に自分を導いていった。


現代人はただ毎日暮らしてゆくだけで、目に見えない「不純物」が、アカのようにたまってゆく。
社会が教育が、仕事が常識が、不純だらけだから当然だ。
人はいつも意識的に「みそぎ」をしなければならない。するとみそぎなんてしなくていいんだ、そのままのあなたでいいんだと社会その他は全力で否定する。だがそれは違う。甘言に引きづられてはいけない。やつらはあなたから銭を引き出したいだけだ。
メイクはそうした「不純物」の象徴であった。それがズバッと削ぎおとされた。
すると並行してK子の慢性的な肌荒れも改善された。

こうなると輝かしい、真の女の誕生である。
人の本来的な美しさや輝き、魅力は、外から取ってきて付け足すものでない。自分の内面から湧き出させるものだ。
こんなことは実に当たり前のことだが、不純物の洪水の中にいると気づかない。
自分から「湧き出させること」が自然に出来る人は、この世にいながら永遠を手にしたも同然なのである。
そこではあなたはわたしとなる。わたしもあなただ。


理想のカップル、なるものは知らない。知らないがそれは「人それぞれ」ではない。
たぶんそれは溶け合った1つの形態しかない。愛など、しらぬ。


以上この文は、まだ見ぬあなたと、まだ顕在化してない私を想って書いた。

 

<了>