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みんなが「ホントの仕事」に従事すれば、日本は良くなるし、世界にもいいことあるよ、たぶん。



自信と自殺。

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自信と自殺

世の中いたるところでよく聞くのが「自信を持って」などという言葉である。
それをあなたに対して発言する人は、まず社会的な上位者だ。
それもあってか何の躊躇も思慮もなく、調子よく言い放たれることが多い。ぼくも前の会社などでよく言われた。


ところがそう言われて「自信を持って」「自分を奮い立たせて」ことにあたり、その結果事態が好転したことなど、ぼくは一度もないのである。
むしろ、悪くなったことすらある。
そうなったときに振り返ると、「自信を持っておやんなさい」とアドバイスしてくれたその当人は、そっと横を向いて知らんふりをしている。
あの人はぼくのどこをみて、そうしたことを言ってくれたのだろうかと、疑問に感じたものだ。


その疑問に対する答えはひとつだ。その人はぼくのことをしかと見て、そう言ったわけではないのだ。
それはたぶん、社交辞令的な常套句、テンプレ文言だったのだ。そしてまんまとそうしたライトな言葉に乗ぜられて、自己吟味を怠った自分が悪いのである。


ここらへんの体感が、身の程を知るとか、薄情さに身をつまされるという相対的な経験則や人生訓に、普通はなっていくものである(と思う)


だけどぼくはそういう社交辞令的欺瞞教育はいやなので、「自信を持って」式のことを言うときは、その言葉にふさわしい過程を経てきた人に対してしか、遣わない。
その過程を知らない人に対しても何か言う必要があるときには、人を励ます資格など、ぼくにはもともとないのだから、せいぜい「桜がきれいだね」みたいなことしか言わないのだ。


こうなるとバカなひとというレッテルが貼られるのだがそれでまったくかまわない。
言葉を軽く使う人と、ぼくと、どちらがより本質的に白痴なのか、ぼくはもう知っている。


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現代にはこうした根拠なく軽く言われる「自信」をまともに受けてそれを振りかざし、しかも一切疑問に思わない人がいる。そうした人が、KYとかDQNと呼ばれたり、ゴミ屋敷や猫ハウス、騒音屋敷の主になってみたり、ネットで炎上騒ぎを起こしたりするのだと推測する。


世にいう「自信」とは、大概がそのようなものである。見せかけの強がりと変わりがない。あとは「夢」や「生きがい」「自分磨き」といった表現も同じような程度である。
こうしたポジティブな響きの言葉が乱用される背景には、必ず冷酷で、ブザマで、ネガティブな作用が含まれている。


そうした「一見肯定的なもの」にうっかり染まらない方が、実は裸の自分に近づくのに効果的なのである。つまりこれが、生きることに忠実になれるコツといえる。


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さて話変わって自殺の話題をとりあげる。自殺者は、国内では減ってきてはいるがいまだ年間2万人を超えると聞く。
ぼくも47歳なので、いままでのことを振り返ると、自殺者は10人ほどいた。
世間での自明の前提として、自殺はよくないものとされているが、あいにく筆者は自殺擁護派である(ただし、以下のように条件は付く)


まずなぜ自殺がいけないとされているのか?を考えてみる。


生きることの意味は(意味って言葉が適切かどうかすら分からないが、便宜上使用する)みんな十分には分かっていない。それならつまり、死も十分には分かっていないということになる。
したがって分からないものは否定もできない。
自殺を否定する原動力は、人が死ねば悲しい痛ましいという情緒面感情面からの提起にすぎない。

以前から当然のようにそうである。


もちろん逆から言うと分からないものは(否定だけでなく)肯定もできない。また、情緒面感情面のパワーも無視すべきではない。しかしそれでもある種の自殺は認めてあげたいのだ。


生きるとは何か?ぼくの解釈ではそれは自分の母胎である普遍や永遠、全体や次元を、おのおのが接ぎ木のように自力で受け継ぐか創出することである。
就職や生活、勉強や子育てなどの個人的なことは、そのための外部手段である(自分の子供だって自分にとっては外部者だ)


そして死ぬこととは、自分の属していた母胎に、意識だけの裸の状態で還ってゆくことだ。


生きてるうちに真の自我にたどり着く人はたぶんいない。生きてる間はいつまでたっても自分は自分にとって最大のナゾであるが、死ぬことでその謎が回収される。
その生来的な円環、ゆるぎない真理の前では、言葉だけの自信とか夢とか自分探しは安易である。


そして生存中に自分なりの「母胎」を作れた人(子孫に限らない)が、真に生きることのできた偉い人である。逆に言うとあなたは、あなたという小私の枠に収まってるうちは本当のあなたではない。自分の人生の主人公は、自分という個人性ではないんである。「人生は一回きりだから、思い切って自信をもって」というのが空疎な言葉であるのは、こういうわけだ。


人の基盤にこうした普遍を目指す認識がないと、社会や制度はむなしさの拡大再生産と、いたずらに不安を煽り立て、絶望に向かって追いまくられるだけの、まるで台風のような消耗競争に終始する。いまの世はご存知のとおり隅から隅までこれであって、しかも根本的な対処法はみんな見出せていない。家族愛だとか、趣味のサークルなどといった小さい「慰問所」「避難所」を作っては、仕方なくそこに時々停泊し嵐をやり過ごしてるだけである。


先に筆者は自殺擁護派であるが条件付きである、と書いた。


自殺の動機として認められないのは、絶望や不安で生を自主廃業することである。
この動機では、先の「自信」信仰に代表される、小さな個人性しか見つめてない。
19世紀の社会学者デュルケムの、有名な「自殺論」の視点はコレである。すなわち、社会的な抑圧物が個人を押しつぶす、という論点であって、ここで悪いのは社会である。


この認識では、ダメなのである。自分の生を決定付けるのを、自分の外部にしか置かなかったことを自死によって認めてしまうからだ。大人なら死ねるガッツがあるのなら、自分の内面充実が達成できなかったはずはないのだ。周囲の人も悲しませるし、自殺の連鎖すら招きかねない。その面からもこの動機は最悪ではないか。


唯一認定できる自殺の動機は、退屈である。上記のような自分なりの母胎を一度でも創出できたひとは、あとは退屈しか残されていない。


退屈ならば、自己の消滅に対して十分に開かれた、謙虚な、実直な、潔い動機ではないか。つまり「役目を終えた」ことの十全たる自覚である。


動物も植物も、自分の死を(たぶん)認識していない。それは彼らがはじめから大きな母胎の「部分」そのものであるからだ。個体がイコールほぼ母胎だから、生も死も等価なのだ。言葉を変えれば、生誕の時点で役目をかなり果たしている。
したがって死を特別扱いせず、コロリと逝ったり立ち枯れして、土に還ってゆく。


こうした野性の現象を「退屈」と一方的に決め付けていいものかどうかは分からないが、生物のそうした連続継起としての生は、繰り返しで単調で飽和のように見える。
人の感情に沿って言えば、それは「退屈」なのではないだろうか。
従って人の場合の退屈や倦怠は、自殺の立派な(?)原因足りうるのである。


ちなみに自殺の動機で認められないが可哀想なのは精神錯乱やうつの果ての自死だ。
筆者の知り合いにも一人いた(といっても本当に精神錯乱のせいで自殺したのかどうかは、今となっては確かめようもないのだが)


自分自分かわいい主義で、むせ返るようになっているこんな世では、裏返しにお前はクズだダメだと排他的に念押しされてるってことを、敏感な人は見抜いている。
メンタル面で打たれ弱いとかいう話ではない。
この狂気のノイズを無視したり、鈍感さでかわしていく知恵やズルさがないと、なまじ敏感なだけに今の世は精神錯乱に陥らない方がおかしいとすら言えるのである。それで死んでしまうのは、かなりひどい。
同傾向のものでも特に痛ましいのは、イジメによる子供の自殺である。
あとは病苦による自殺なども、本当にお気の毒であるし、自分もそうなるかもしれない。


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現代は多様性に富んだ社会などと言われるが、いうまでもなくそんなのは本質からみたら嘘っぱちの見掛け倒しである。多様に見えるものはぜんぶ飾りや手段領域のものばかりで、語るに足らぬものだらけである。根源たる生は骨太であり、ひとつひとつがかけがえのないもので、多様とかの尺度でははかれない。


自殺の原因とて多様ではない。絶望や不安で自殺に向かうことなどは、社会学の助けなど借りずとも類型的に推察できる。

 

確かに個々の事情や自殺者の年齢や性別、自殺手段などはそりゃあ多様だろう。
しかしそれらをいくら収集・分析しても、そこに「本当の」意味も答えも浮上してこない。ましてや根本的な「対策」など、そんな分析レベルでは判明しようもない。「1足す1は病理のはじまり」という記事に書いたように、 逆に分析にこだわればこだわるほど統計に「逆襲」され、自殺者の増加を招くに違いないのである。要は現代の自殺原因など、分かりきっている。それは上に書いたとおりである。


自分の外側にある要因で絶望や不安を感じ、ある種の被害者意識をこじらせてるひとへ。


あたたがもし自殺を決行したとしても、それは世間への最終的な報復の切り札とはならない。
上記の「分析」や「統計項目」に数値で加えられ、戸籍上で処理されるだけだ。
「自分なんか生きててもしかたがない」「生きることからイチ抜けしたい」と思う人は、この文を読むといい。生命は意味でも、義務でもない。了解と存在であるだけだ。それそのものであるだけだ。それをあなたは有している。なんということだろう、はじめっからあなたは勝利者だったのだ。
あなたが死ぬと、あなたが掴めたかもしれないあなたなりの普遍が、こんりんざい失われる。
それは宇宙よりでっかい喪失なんだ。

(つけたし)

自信を持てる人はひそかに持ってもいい。しかし外野から言われる自信に捕らわれはじめると、緩慢な自殺になるぞ。先述したDQNとかゴミ屋敷の人や、炎上芸人といわれるネット上の人たちは、悪いがもう部分的に死んでしまっている。そこに気づかぬ限りは再生もないままだ。

 

(了)

 

1足す1は病理のはじまり

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数学以前に算数落第生である筆者にしかいえない暴論

 

例えば宇宙の存在、これは真理だ。真理は純粋な存在であって、かつ人智を超えたところにある。そこには是非はない。
人は真理らしきものを認識すると獲得したくなる。中にはわりとすぐに答えらしきものに到達できるものもあり、それを最終の解だとキメツケるとすっかりそこに安心してしまう(たとえば超越者、神の存在、宗教なんかが、そうである)

 

ところがその安住の地には、実は誤謬や目くらましが隠されており、ときどきそれらがひずみのように噴出しては僕らを悩ませる。
真理自体は微動だにしないがしかし、その安易な解に伴う目くらましは、今のぼくたちの生を狭窄せしめている。

 

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その真理のひとつを例にとって考えてみよう。人間世界の間尺に合わせた一番ありふれたヤツを。
たとえば算数だ。1引く1はゼロとかの初歩計算。

 

問い「お皿の上にりんごが1つあります。その1つを食べてしまいました。さて残るのは?」
答え「お皿1枚」

 

これはクスッとおかしいし可愛いらしいが、実は圧倒的に「正しい」解のひとつである。
問いは同じで、以下に挙げるようなその他の答えもある。モチロン全部正解である。

 

「空気」
「リンゴの残り香」
「リンゴを食べた満足」
「ゼロ個」
「もっとたべたいわたし」

(こう列挙してゆくと、幼児の偉大さというものはただごとではない気がしてくるな)

 

こうした数々の返答のうちのひとつに、「ゼロ」という解があり、世の中ではそれが唯一の正解とされてみんな安心しきっている。中には「算数や数学は、答えがひとつしかないのが魅力」などと言う人もいる。ところがこのたったひとつのキメツケが、誤謬を生起せしめるのである。

 

その「正解」は、その他「不正解」を否定し、負かして、犠牲にし、むくろにした上で成り立っている。「正解」は、その他の、正解になり得たかもしれない「不正解」の土壌、養分の上に咲いてるものである。
不正解はおおむね無垢で、ピュアで、滋養に富み、他の養分にされることをいとわない尊さがある。
それに比すれば正解なぞ、不正解が養分を与え光合成させ、かろうじて芽を出し「光っているかのように見える」そんな苗でしかない。それが唯一の、世界共通了解としての「正解」というものの成り立ちなのだ。「純粋な客観性の象徴」とされている数学とて、数字が(創出だか発見したのだか知らないが)人為で生み出された経緯を持つ以上、その例外ではない。

 

そしてぼくは、正解にまつわるこうしたまっとうな方の認識こそ、公理として定着した真理周辺から生じる誤謬を越えるものであり、老若男女にとって、最優先に獲得すべき思想だと思う。

 

この「正解」が成り立っている世界観を、それに至る間違いも、紆余曲折も、障害も、試行錯誤や挫折も、すべての累積要素を丸ごと飲み込んで拠って立つのが、人間世界や宇宙や次元の様態である。つまり、いいかえればこれは、全体性の獲得である。

 

現代社会における諸悪の根源は、「正解」があたかもそれ単体で突出して孤立存在しているとみなすところにある。
そこでは正解に至る過程も背景も省略され、正解は根が切れて虚空に浮遊するものとして唯一絶対視され、真理の床の間に無考察に祭り上げられており、その他いっさいを省みない・受け付けもしない、という姿勢が保たれている。
部分のみに安住・固執し、結果だけを掴んでおきたい短絡的なこうした姿勢が、人の世の不幸のスタートなのである。

 


不幸の正体

 

こういった不幸を、日常のレベルでちょっと具体的に考えてみよう。すべて現象の裏側に潜んでいるものばかりだ。

 

高度情報化社会を達成して、ぼくらの生活にゆとりが生じたか?
医学の発達によって無病社会が実現できたか?長寿社会で人はみな幸福になったか?
高速移動が可能になってあなたとの距離が縮まったか?
電話が発明されFAXが普及し、そののちにIT化が地球を覆って、SNSが発達したが相手の心情を想ったり、意思疎通を高めるヒトの能力は高まったか?

 

答えはすべて「NO」である。いやむしろ社会総体としては以前とくらべ、後退してるといってもいいほどだ。

 

確かに克服できたものはある。医学を例にとると天然痘という恐るべき感染症の撲滅はその代表格だろうし、外科の技術や薬の進歩など、享受できるものは、なるほどありがたい。

 

しかしそれを上回る新種の「何か」(うつ病やAIDS)が次々と出現し、周期怨嗟のごとく人を悩ませるのは、どうしたことだろう。2016年4月下旬現在、九州地方で急増してるというエコノミークラス症候群や生活不活発病なども(異様な環境下にあるとはいえ)、その社会的由来を考えるにつけ、そうしたものの類ではなかろうかと思えるのである。ここでは医療の発達が、新たな病の顕在と発病をうながすとすら、言えるのではないか。
おかげで大病院の待合室は今日も午前7時から患者でいっぱいであり、がんの罹患者は減らず、世間の医療費は増大する一方である。

 

医療をめぐる世の中のそうした光景は、医学の進歩が、非顕在病原の顕在化(=発見されなければ存在しないも同然な病気)を、わざわざ暴き立てているかのような不毛さの、ひとつの結果である。であるならば、例えば根絶出来たと考えられていたにも関わらず、不死鳥の如く現世に「復活」する疾患も、これから出てくると考えられる。もしかしたらもうすでにそうした「復活」が世界のどこかで進行しており、明日にでも世界で一人目の発病者が、出ないとも限らないのである。そしてそれは従来の治療法では治せない。病気の方でも進化を遂げるのだ。

 

「報復」の予感がする。病原菌などの、研究される対象からの、検証済みのレッテルを貼って疑いもせず落着してる人類への、しっぺ返しである。

 

医療を例に挙げたが、それ以外にもこうした構図(細部の高度化や問題の一時的解消・先延ばしに伴う、あらぬ方向からの新問題顕在化)は、先に疑問形で挙げたように、根本的な解決とは無縁な場所で、ずっと繰り返されている。解を追求し始めた途端、悪魔が降ってくる。なぜか?

 

ニーチェのいう「深淵」

 

それは真理に対して観察や研究、メカニズム微分といった対象化作業がよくないからである。真理だけではない。前にも書いたが、観察されるだけ、研究されるだけの受身の対象はこの世にないのである。そこに気づかぬものは、いくら研究しても対象にキリはなく、その果てしのない所業の中で、自分を慢性的に鈍化させていく無自覚な不幸に囚われるか、自覚的な空しさに囚われるか、対象と同化しすぎて発狂してしまうかの、いづれかの身となる(ニーチェは精神錯乱が元で死んでしまった)


真理はさきほど申したように丸ごと素直に摂取せねばならない。真理の研究対象化を始めるから、そのとたん真理はまず分裂し、真理の本体は無傷で保護され人にはその傀儡が与えられる。人は、その傀儡を相手にダンスを踊り、身勝手な構図に分解し、引き裂き、技術の介入を許す。

 

すると人はほどなくしてテクニックという名の「瑣末なもの」の発達に夢中になる。それを専門にする人ほど、夢中の度合いは高くなる。いくら研究者本人がまじめにやってるつもりでも、対象の傀儡を前にして手段に没頭するという、二重の目くらましの渦中で知らずに溺れている。その結果もたらされるものが誤謬という名の悪魔である。
そこでは、その研究がぼくらの生にどう影響するかということに関する、グランドデザイン思考が欠如している。

 

(これは独断だが、テレビなどで見かける研究者、権威ある専門家などの顔は、たいていがむくんだ、目の焦点の定まらぬ、ニヤケた面構えで、ろくなものではないと知れるのである)

 

かくして核兵器は地球を何度破壊しても可能なほどの物量に、何十年も前からなってしまったし、当初は高台の上に建設予定だった福島第一原発は、津波の危険性を過少評価し、わざわざ崖を削って、海抜10mの高さに建てられた。米国から運ばれてくる原子炉を、海から容易に陸揚げするためだけに。
そしてそのフクイチの末路は、皆さんご存知のとおりである。

 

第一次世界大戦に初めて投入された恐るべき兵器の一つに毒ガスがあるが、当時の列強各国はその生成技術を競い合ったという。結果、第一次大戦はその他の要因もあるが戦死者900万人以上という、一大ジェノサイド合戦となった。

 

このように技術や科学に「純粋に」没頭することは、やはり一種の安住なのであり、罪である。それはそれゆえに、人間の緩慢な自殺に直結する。この罪への無感覚こそが自分の首を占める。目的でなく手段への没頭は、これを戒めねばならない。分野はなんにせよ大目的は生きとし生けるものの生に寄与することであって、この大目的がゆめ忘れてはならない最上位の命題なのである。科学者や技術者に対する教科書は、過去のあまたある科学技術の厄災に関しその発生過程をつぶさに検証し、それに対する反省の弁から1ページ目を始めなくてはならない。

 

こうしてみてゆくと結果として、人の歴史は自己疎外の要因をみずから、それと気づかずにどんどん引き寄せている、その繰り返しである。
言い換えれば、先ほど申したように、真理への畏敬の念なしに、単なる研究客体、被検体として接し、措置の事後検証のなさ、総括の甘さ、無反省さといったものを通じて「復讐」を受けている。
観察し、研究してると人が思い込んでる対象が、実はめぐりめぐって人間を操作する。
ニーチェが著書「善悪の彼岸」で146番目に述べている「覗き覗かれる深淵」とは、このことではないだろうか。

 

人は、とりわけ観察のクセが付いてしまっている人は、世にひとつしかないと思い込んでる「1+1=2」式の真理を無批判に学習する。なるほど「1足す1は2」これは数学という人類英知のイチ分野における、燦然と輝く勝利の象徴であろう。

 

しかしそれだけでは視野狭窄というものであって、その真理を生育させ、輝かせる背後のものにまで想いを馳せねば円満ではない。これは月のように「照らされてる」輝きなのだ。
筆者は高等数学的な根拠など示せないが、みずから発光する「太陽」の本体は、「1足す1は2」を支える、そのほか諸々の「基盤」の方に、絶対に存する。

 

それがおとなの本当の立脚点である。そのことに、まず気づかねば。

 

見えない成立土壌があってこその「1+1=2」という謙虚さに、気づきもしないから、現代社会は皆が皆、競い合い、寄ってたかって忙しがり、日々進行する若さの喪失にため息をつきながら右往左往し、無いものねだりをする毎日なのだ。
人に必要なものは、忙しさの中にはない。それは悠久の中にしかないというのに。

 


気づいたら、次はひろめよう


ひるがえって、ぼくたちの立場、真理への向き合い方を考えてみる。

 

ぼくらにとってもう何が何でも必要なのは、繰り返しになるが1足す1は2という「正解」だけでなく、「1と1」に過ぎないという解その他も、いつも自分の中に準備しておくことだ。唯一解ではなく、重視すべきはむしろ過程である。過程の中にある間違いや疑問の蓄積にこそ、わずかだが進歩の鍵が含まれている。

 

つまり「1と1を足すことなんてホントはできない」とか「『足す』ってどういうことなんだろう?」「そもそも数字と自分のかかわりとは?」という解釈や疑念を持つこと。それが自分を、宇宙と同等の広さに解放する手がかりだ。

 

こうした複数の視座を内面に保つその多様性とゆとりが、目的をたがえないことに連なり、あなたを力強くしたり、キリっと屹立させる可能性になると、ぼくは思う。

 

逆に言えば、優雅な人、有能な人、全き人、そのほかポジティヴな形容がすべて当てはまるような人になりたかったら、さっきの「1と1」という答えその他をあざ笑ったり見下したりせず、そのすぐれて瑞々しい感受性に衝撃を受けねばならない。
自分にはないこうした発想を、むしろ素直に敬わなくてはいけない。

 

それでこそ自身も透徹した内実に結晶できる。その世界観の中でのみ、全員がもれなく有能である。あなたはそこで、いてもいなくてもいいような存在から脱却し、かけがえのない人に昇華できる。
それが関係性のひろがりの中で、目に見えない蓄積となって活きる。あなたはわたしになり、わたしはあなただ。

 

そうしてこうして何とか暮らしてゆく。自分が死んでも「蓄積」は継承される。
これが人の世界における本来の順番じゃないか。

 

自分ひとりでできることなんか、たかが知れている。でもその個人の不足さこそが、全体への道しるべになる。人は、全体という名の真理を、みんなで共有取得するために、個々生きている。生の意義は、これひとつしかない。技術や観察、手段や方法論はぜんぶ、寄り道にすぎない。わき道に足を惑わされてはならない。

 

まずは「不正解」を受け止めよう。自分と異なるものの受容から、話は始まる。

 

<了>

 

テロリズムへのシンパシー。

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露がIS単独空爆計画より

 

テロリズムへのシンパシー

 

90年代の湾岸戦争が「TV戦争」といわれ、ニュースではでっかい花火みたいな艦載ミサイルの発射シーンや、モニター越しの建物爆破シーンなどが繰り返し報道されていたとき、日本のぼくらの間では、いや該当地域以外の世界中の人々の間では、戦火の下の人々(の恐怖)への想像力・共感力・リアリティは根こそぎ薄らいでしまった(だからこそTV戦争と揶揄された)

 

ちょうど昨今のIS(通称:イスラム国)都市空爆のような映像と同じ状況である。

 

先進国(有志連合国)はテロへの報復に空爆という1手ばかりを繰り返すが、それが地上においては抑止にはならず、火に油を注ぐ結果となってしまっているのは識者が指摘する通りだ。交戦エリア外での復讐の連鎖である。

 

空爆は一面では、血を肉を、見ないですむ戦争屋の卑怯な手段であり、敵の顔を直視せずとも円滑に遂行可能な破壊行為である。
目標破壊率、命中率、損害率などといった、第三者的な(鼻持ちならない)殺人指標。自分はいっさい攻撃を受けず、時間が来たら普通の労働者のように交代し、時期が巡れば派遣地から母国へ定期的に帰還する。兵隊のサラリーパーソン化。特にアメリカ。

 

役所の手続きとか、案件の処理みたいな、仕事以前の「作業」といった感覚である。

 

他方テロ行為とは、テロリスト側からすれば武力による気に入らないもんの一掃作戦であり、それはいわば子供の論理である。
イマドキのテロリストは、これは推測だがこれまた複数の識者が仰せの通り、宗教やイデオロギーの対立に、もはや第一義を置いてはいないであろう。置いていても、せいぜいが「自分たちの方が正統かつ純粋なイスラム信者である」などと主張するくらいで、要するにどうもそこらあたりは付け足しのような感じがするのである。

 

今のテロ組織の行動原理は、そんなオールドスクールな大義名分ではなく、「気に入らんモンは全部死メ!」という一斉爆破欲求と、エネルギー利権や身代金ビジネスといった金銭のみではないか。いや昔からテロとはその程度のものだったのかもしれないのだが、第一次世界大戦から100年後のここにきて、いよいよカッコつけをかなぐり捨てて、実利と暴利の集団に成り下がった実態をムキ出しにし、しかも恥じ入ることがなくなった。
テロリスト達が破壊する気に入らないモンとは、安全圏からの空爆という、人命リスクをしょわないスマートなやり口に象徴される、先進国のわれ関せず体質である。そいつがまず、血祭りにあげられる。現代テロとは、いわばこうした先進国の「余裕を撃つ」方向に変容している気が、ハッキリとするのである。

 

だから標的になる都市や国は、先進地域であればどこだっていいし、その考えからすると、その地の宗教層ですら不問である。また、同じモスリムを標的にするのも厭わない。先進国の住人でさえ、あればいい。

 

ぬくぬくと現代の利便性を享受するそんなシレッとした連中に冷や水を浴びせ、恐怖を植え付け、日常の運営に支障を来たしてやるのだ。ハレと恐怖の落差が大きければ大きいほどいい。従ってターゲットは、胸のすくような一網打尽効果が最大限得られる、娯楽施設やスタジアム等が最適である。

 

ここにあるのはまるでシューティングゲームでゾンビ共を殲滅させるような感覚である。ISが動画配信やネットへの親和性が高い集団なのも、そこらあたりのひとつの表れだ。モニター越しにノゾキ見る風景の方が、自らの周囲や自分の存在よりもリアルに感じられる。彼らもまた、TV戦争の影響下にあるのだ。


こうした「復讐」のためなら自爆だってできる。むしろ、自分が爆死したあとのザマーミロ感を想像してワクワクすることすら可能だ、とこんな感じではないか。だとしたら、何とも空疎なハナシである。


自爆。さよう、今のテロを志望する若い鉄砲玉の内面には、外部への抵抗や、組織への帰依がまず先にあるので、いうなれば自分の生を生きてないマリオネットだ。ゆえに自分の死すら、洗脳や陶酔の末に、ゲームキャラのように抽象化できると想像する。

 

自分自身の信条に殉ずるという、単なる卑劣行為といわゆるテロリズムを分かつ、ほんの唯一の、肯定できるかできないかの線上にギリギリ残された倫理めいた「大儀」が、いまのISにはまったく感じられない。繰り返しになるが原理は「気に入らんモンは敵。即時に凹ませろ。周りは知らん」のみ。ガキの理論で進むRPGみたいなものだ。
ISは、一時気が狂ったように人類遺産を破壊してもいたが、これも先進国の「余裕」のネタである観光資源を破壊して溜飲を下げ、あとは野となれ山となれ、そんなレベルの代償行為ではなかったか。

 

こういうことを筆者が思いついた理由に、いまはテロリスト側からの要求が(水面下にあるものは判らないが、表沙汰になったもので考えるならば)身代金ばっかりになっており、人質を取られても交渉の余地がほとんどないってことがある。


もしISが、自分たちの理想社会の擁立を目指すなら、彼らの要求は例えばイスラム世界の発展に寄与する何がしかの経済要求だとか他国からの干渉の排除、もしくは全地球的に偏り過ぎた資本の偏在に対する、過激なまでの是正等々という、自分達なりに全体を見据えたものになるのではないか。

 

しかしどうもそこらへんがまるで欠けている。身代金を自分たちのポッケに入れてオシマイである。
言い分は一方的過ぎるが、イデオロギー的に毛の先一分くらいは理が感じられる、といった類のものがないのである。

 

40年ほど前までのテロリスト達の間では、「仲間の釈放」要求が流行していた。それは今でもあるが今日のそれは時間稼ぎみたいなものに後退し、要求してる側(テロリスト達)も、実現できるとは思ってない印象を受ける。ここでも「それより金を早く出せ」といったところが本音なのではないか。
テロ攻撃をしても、実行後に出るのは犯行声明だけであって、これではまったくの無差別殺人でしかない。

 

つまり古典的な反体制価値観がなく、自己漂白化の末のゲーム感覚殺人と金しかないので、交渉の糸口すら存在しない。伝統的でオーセンティックな論理ではなく、デジタルで刹那主義で動いてるから、攻撃を受ける側からすると、神出鬼没で得体のしれない、先の読めない敵となる。

 

そして攻撃を受けた先進国側から、報復として空爆が選択され爆弾が降らされるが、すでに書いたようにこれがまた逆効果しか生まないのである。
太平洋戦争時の東南アジアにおける日本陣地のように、あるいはベトナム戦争下のベトコンのように、爆弾の嵐の下には必ず、土を食み血をすすりながら、強靭な「何くそ精神」が培養される。
これは元からある被害者意識と結びつき宗教よりよほど強い信念となり、これが次のザマーミロ攻撃の養分になるというわけである。

 

かくして繰り返されるのは、瓦礫の中のガキ帝国 vs 安全圏からの最先端武器での破壊行為という構図であり、どちら側にも正義という名の他者尊重概念はない。双方にあるのは空疎な人格と、希薄なリアリティである。

 

以上は数値的な、あるいは証言的なエビデンスはまったくない。筆者の感覚論である。
しかし、ISの不可解、不合理とされるのべつまくなしの残虐性破壊性もまた、従来の枠組みでは対応しきれないらしいので、こうして暴論解釈を述べる次第である。

 

とにもかくにも、こうして不毛は繰り返されるし、終焉の気配もない。
巻き込まれて傷ついた市井の人々の悲しみだけが拡大・堆積してゆく。

 

打開策はあるのか?

 

こうしたテロリズムを根絶する方法はひとつだけである。月並みな話だがそれは教育だ。

その教育の内容とは、思うに世界中の現代教育にまるで欠けている視座からのそれが求められる。
それは生きることについての、現象面からのケーススタディである。それを徹底する。
科目的なものなどは10代の終わりにでも付与すればよい。その前に、はるかに大事なそっち方面の徹底だ。

 

生きることへの現象面からのケーススタディとは、自分の中にはドラえもんの四次元ポケット並みに、無限へ続くトビラがあって、生きるとは、そこから自分がどれだけ広がれるかってことを子供たちに知らしめることだ。

さしあたっては、自分に対して「なぜ?」と疑問を呈示させるのがいいと思う。
「なぜ自分はいまいるのか」「どうして相手の子がキライなのか」「自分ってなんなのか」「あの子とこの子と自分は、どう違うのか」などと、くもりなきまなこで、見定めさせる。教育はそのアシストだ。
子供のころからこうした無限を目指す自分という真理に気づかせ、その覚醒の過程で、自分の外のものへのあこがれや依存心をフェードアウトさせてゆくのだ。あほらしくてゲームなんかには熱中できないほどに。

 

そしてその真理主体は、地球上の全員がそうであり、生も死も水平で、いわんや肌の色や宗派なんか特性でしかないんだという思想。本当の自己は、自己絶対性の中からでなく、自己相対性の中からしか獲得できない、だからみんなで生きてゆく視点が必要なんだ、という腹の底からの共生感覚の育成である。
こうした人間の超基本の教育を、全世界的に繰り返してゆくしかない。

 

こうやって超基礎が確立された、充実しきった「自分」の集合体によって、最終的にみっしりと質実剛健に、運営される社会というのが王道であり、そこでは戦争も犯罪もテロも、万引きもいじめも女子中学生の監禁も、人を疎外してゆくものは大小問わず、みんな昔話に追いやられるのである。

 

ところがいまの世界は違う。現代は社会や規範や宗教や貨幣が、まず個人ではどうにもならない存在としてあって、そこに人が段階的に無条件に当てはめられて、恭順させられていく、という順序である。日本においては人格育成は科目としての道徳が一応担当するが、基本的にそれはカリキュラム上の添え物でしかなく、自分の内面充実は、そうしたい子が勝手に読書とかして育ててね、そんなことより成績、点数、偏差値、内申書、進路選択が優先だよねって感じだ。
これでは手段と目的があべこべで、無理がある。人間を飛翔させるべき過去の英知が、科目というシステムとして逆に人を縛る、という本末転倒である。

 

こういう仕組みだから大げさでもなんでもなく、人の世はずっと、もうずーっと、テロと戦争と殺戮と、欠陥と不幸と憎しみと、苦しみとむなしさと不安と、犯罪と落胆と悲しさの連鎖なのだ。
人と集団をとりまくこうした組成順序を、本来のあるべき姿に、教育で矯正する。自動で、自然にそうなる流れにまでもっていく。これしか根源からの修復はない。

 

とりあえず民主主義だとかの行政的な枠組みはそのままでいい、というかそのままであらざるを得ないが、この教育を遂行してゆくと、その国の経済分野は縮小することになるだろう。
つまらない外部事象に惑わされない自分を確立した人は、余計なものは買わなくなるし、当為としての仕事は自分を無反省に規制するだけだと気づいて放棄もするから、寄ってたかって忙しがる風潮(これは日本に特に顕著だが)も退行してゆくだろう。
その程度が、この改革に伴う「痛み」であり「犠牲」だ。

 

そんな犠牲など安いもんだ。全員が本気で取り組めば、たぶん100年位で理想に到達できるよ。もうテロのニュースなんか聞きたくなかったら、これやるしかねぇ。

 

ぼくは、あなたを変えられると思い込むほど高慢ちきじゃない。
でも、自分を変える程度には、「テロリスト」でありたいのだ。

 

<了>

 

人間の、切除された能力に対するレコンキスタ運動

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画像引用:photo.v-colors.com/


ダーウィンの「種の起源」(1859年)を読むと、「あらゆる動植物は、すべての時空を超えて類縁関係にある」という重要な指摘が出てくる。
これはモチロン人類とて例外ではない。
ミミズもオケラもアメンボも、みんな友達なんだ、親戚なんだ。


日本の土着思想(神道)に近いこの真の博愛は、どういうわけだか人から切り離されてでもいるかのように、ふだんは意識されないようになっている。
「手の平を太陽に、透かして見れば」というような歌が、かろうじてその記憶をつなぎとめ、ごくたまに、後天的に感じ取らせてくれる程度である。


ではなぜ意識されないのか?答えはあまりにもあからさまだ。

この切除された記憶をほんの少しづつ、徐々に取り戻してゆくことが、人が生きる意味、成長の刻みだからだ。
だからわざと色あせて刷り込まれてる。
ヒトだけに備わった機能、自分以外のすべての存在への、完全相互交信回路の追求が、生や種からの、あなたへのメッセージなのだ。


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人間が生まれるとは何か。生命とは何か。

そこには意味などない。探求するだけ無粋というものである。
意味を求める前のめり姿勢は、宗教や差別、差異を生産するだけの徒労に終始する。
生命にはただ了解と存在があるだけだ。
そう、誕生の時点で、ぼくらはすべてを了解済みの存在なのだ。


しかしなんとしたことか誕生した直後からさっき言った強固な忘却に犯されて、あっという間にその99.99%は忘れ去られてしまう。


こうしたことと同じ体験を、毎日ぼくらは経験している。それは睡眠時の夢である。必ず見ていてながらも、忘れずにいるのは不可能、そんな現象だ。これもまったく同じ図式である。そして夢にも意味はない。

ぼくらは毎晩毎晩、誕生時のこの擬似忘却ともいうべき夢を、繰り返し体験しているのである。言い換えれば睡眠と夢によって、生誕時の状態に強制的に還元されている。睡眠のメカニズムは、医学の進歩によってすいぶん解明されてきているようだが、その本質はこういうことであり、人の人生時間の1/3は睡眠に充当されているのも、生命根源への回帰、全人性獲得のためのリセット機能として要求されるがためである。


(夢と忘却には、フロイト先生のご指摘を待たずとも、深遠な相関関係がある)

忘却の彼方に押しやられるものを、自意識の成熟と共に少しづつ取り戻す。
そしてまた、その一部を忘れ、別の部分を取り戻してゆく。

じれったいほどの遅さだが、こうしてほんの少しづつ、「ハミ出す」面積を増やしてゆく。人の成長はここにしかない。

その毎度軌道の違う円環のような過程を引き寄せることが、さっき書いたように生きること、人生の本体である。


つまりこれは普遍の再獲得。普遍は自らの中に深く埋まっている。外にはない。


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生きてることに一般的に含まれるとされる、いわゆる自我、精神、こころ、感情、経験、性格、容姿などなどの変化および固定化は、上記のように捉え直すならばヒトが生存してる事実のほんの一部を占めてるに過ぎない。
では残りの大部分は何か?そう人生の99.99%は生物の来歴そのものを、全員が、おのおの背負って存在していることの「確認の場」である。


(ここを気づかせないようになってるから、社会は経済はいつまで経っても低俗な牢獄なのである)


その確認はたぶん、睡眠や倦怠、つまりある種の抑制や単調な繰り返し、受身の態度(=「怠ける」ということではない)の中からしか、現出しない。
なぜならそうした静的態度が、あらゆる動植物や内なる他者と邂逅できる、唯一の窓口だからだ。


「本当にやりたいことを見つけるのが真の生きがい」などと世間では言われるが、(それが本当にやりたいことなのかは別として)やりたいことを全部やってしまうのは貧乏性のはじまりで、それは露骨でイヤらしい自己満足である。
やりたいことをやってるけど今日はこのへんでやめておくか(抑制)、とか、ラチのあかない義務を、ラチが明かないなりに付き合いつつ、寡黙に粛々と、大マジに進めるってのが、次の進化や飛躍を生む。人類の偉大な業績は、全部このリキみの取れた、本気な態度から生じてきた。

 

これからだってそうだ。

 

<了>